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神がイエスの血を御覧になる時R. L.ハイマーズJr. 神学博士 著 ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて WHEN GOD SEES THE BLOOD by Dr. R. L. Hymers, Jr. A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles “わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。”(出エジプト記第12章13節、新改訳) |
へブライ人達は、飢饉の間にエジプトへ下って行きました。 最初は、パロの治世の下で、その国の支配者であったヨセフゆえに、彼らは敬意を払われました。 イスラエル人の子孫は増えましたが、ヨセフを知らない次の世代のパロが現れました。 彼は、へブライ人達の数が急速に増し、彼らが国を占拠するのではと恐れました。 ですから彼は、へブライ人達を奴隷としました。 へブライ人達は神に祈りました、そして、神は彼らを救う為にモーセを送られました。 しかし、パロは手荒く彼らを扱い冷酷でした。 彼は神の民を解放しませんでした。 ですから、神はエジプトに災難を送られました。 疫病が彼らに襲い掛かる度に、モーセはパロの前で、「ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせて、…』」と告げました。 しかしパロは、全くそれを聞き入れませんでした。 彼の心が頑なにされたのです。 そこで神の十番目の災難の時となりました。
“主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。…。”(出エジプト11:1)
そしてモーセはパロの邸宅に再びやって来て、こう言いました、
“主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジ プトの中に出て行く。エジプトの国の初子は、…、みな死ぬ。その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、…』。”(出エジプト11:4-5; 12:12)
しかし神は、御自分の民を罰する事を望まれませんでした。 神はモーセに、それぞれの家庭は小羊を取り、殺さなければならないと告げられました
その血を取り、食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。…。”(出エジプト12:7)
では起立して出エジプト記第12章12節から13節を声を上げて読んで下さい。
“夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。”(出エジプト12:12-13)
ほぼ1500年間、ユダヤ人達は過ぎ越しの祭りを祝って来ました。 彼らは、エジプト人からの解放をしのんで、小羊と種無しのパンなどの特別な食事を食べ、過ぎ越しの祭りを表すこの聖句を読みます。「過ぎ越し」の名の由来は、今日のテキストから来ました。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。”(出エジプト12:13)
このテキストについて、三つの事柄を考えてほしいと思います。 最初に、血の重要性、二番目に、血の効力、そして三番目に、血の適用です。
I. 最初に、血の重要性。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。”
その聖句は、今日私達にとって何の重要性があるでしょうか? そうです、それには多くの重要性があります、なぜなら、最初の過ぎ越しの時に流された血は、過ぎ越しの祭りの日に流されるイエスの血を指摘しているからです。 そうです、イエスが十字架に付けられたのは過ぎ越しの祭りの時でした。
“弟子たちはイエスに言った。『過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。』”(マルコ14:12)。
彼らは、過ぎ越しの食事をして、この聖句、出エジプト記第12章13節を読む為に、二階の広間へと上がりました。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そ。”(出エジプト12:13)
最初に、イエスは彼らに種なしのパンを与えられました。
“また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。…イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」”(マルコ14:23-24)
キリストは、出エジプト記第12章13節で、門柱の血は、御自分が翌日十字架で流される、新たな契約の血の描写であると彼らに示されたのです。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。”(出エジプト12:13)
それは単なる血について語っているのではありません。 それは神の小羊の血について語っているのです。
“世の罪を取り除く神の小羊”(ヨハネ1:29)
門柱の血は、罪人達を破滅から身請けするイエスの血に目を向けさせ、それを描写したのです。
“神がご自身の血をもって買い取られた神の教会…。”(使徒20:28)
あなた方は、なぜこの血にそのような力があるのかと尋ねるかもしれません。 スポルジョンはこのように言いました、
もし キリストが単なる人物であったなら…彼の血には何の効力も無かったであろう;しかし、キリストは「正に神の神」であられた;イエスの流された血は神性な血であった。それは人間の血でもあった、なぜなら、彼は我々のような人間だったからである;しかし神性は、人間性と非常に似通っており、人間の血はキリストの血から効力を得た。神が死ぬために人となられるとは、正に永遠の絶えまぬ驚異である。ああ!キリストがこの世を創造され、彼の支える肩が宇宙をつるされた事を思う時、我々は、彼の死に、救う力がある事、そして、キリストの血が罪を清める事に驚きようは無い。…なぜなら、彼は神であり、彼は、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる」からである。彼の血はそのような血である。従って、あなた方が神の怒りからのがれる事が出来るのである(C. H. Spurgeon, “The Blood,” The New Park Street Pulpit, Pilgrim Publications, 1981 reprint, volume V, pp. 27-28)。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。”(出エジプト12:13)
門柱の血は、神の人、キリスト・イエスの血を描写した。
“私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。”(コリント第一5:7)。
それがイエスの血の意味です!
II. 二番目に、イエスの血の効力。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。”(出エジプト12:13)
“私は、…あなた方の所を通り越そう。” もしあなた方にイエスの血があるならば、何の裁きもあなた方には来ません。 何の呪いもあなた方には来ません。
“主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。”(出エジプト12:23)
何の神からの裁きは、イエスの血を持つ人には来ません。
“ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。”
(出エジプト12:22)
鴨居―門柱の上の御血。 両門柱の側の上の御血。 底の窪んだ中の御血。 上、底、両側。 キリストの十字架を指すモーション!
みかしら いばらの
かむりに かがやき
おん手 あし うれいと
めぐみを ながしつ
(『十字架にかかりし』“When I Survey the Wondrous Cross”
by Isaac Watts, 1674-1748).
“あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。”(ペテロ第一1:18-19)
マーチン・ルターはこう問いかけました、
では、我々が贖われる事による財宝は何であろうか? 銀や金のような朽ちるものではなく、神の御子、キリストの尊き血である。この尊きものは非常に犠牲的で高潔であり、この汚れのない一滴の血が、全世界に十分過ぎるという事は、人間の感覚もしくは理性によっては、把握できない。それにも関わらず、御父は、御自分の恵みを我々に、豊かに惜しみなく注ぐことを望まれ、我々の贖いに多くの犠牲を払い 、我々の為に御自分の御子に血を流す事さえも容認された。このようにして、我々に無傷の宝物を授けられた(Luther, Exposition of I Peter 1:18-19)。
キリストの血は、ゲツセマネの園で汗の滴の様に落ちました。 イエスがピラトの宮廷で懲らしめられた時、彼の血は、からまる鞭打ちによって飛び散りました。 とげの冠が彼の額を突き刺し、血が彼の目に流れ落ちました。 そうして一人の兵士が彼の脇腹を突き刺しました、
“しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。”(ヨハネ19:34)
“[神は、]我々の為に御自分の御子に血を流す事さえも容認された。このようにして、我々に無傷の宝物を授けられた(ルター、同著)。
更に、
“御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめま す。”(ヨハネ第一1:7)
全ての罪が、キリスト・イエスの血によって清められるのです! 全ての罪! イエスの血が清める事の出来ない罪はありません! イエスの血が洗い流す事の出来ない罪はありません。 それは、マグダラのマリアの七つの悪霊を取り出す事が出来るのです。 それは悪霊に捕り付かれた人の狂気を解く事が出来るのです。 それは、らい病のとてつもない苦痛を癒す事が出来るのです。 イエスの血が癒す事の出来ない霊的な病はありません。 イエスの血に、大きすぎる難問はありません。 いかに忌まわしく、卑劣であろうとも、イエスの血は全てに対して十分な癒しの血であるからです。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。”(出エジプト12:13)
そしてその聖句は、イエスの血の効力を表しています!
III. 三番目に、イエスの血の適用。
もし、小羊が絞殺され、もしくは毒されていたなら、破壊者が全ての家の初子を襲っていたでしょう。 もし小羊が殺され、その死体が側柱につながれていたならば、破壊者が襲っていたでしょう。 血は、無いと言っている人達に、それを思い留まらせなさい。 それは小羊の死だけによるものではありません。 違いは小羊の血にあるのです。 小羊が死ななければならなかったのは真実です、神はこう言われました、
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。”(出エジプト12:13)
しかし、鉢の中に残されたその血は、裁きを免れませんでした。 それは適用されなければなりませんでした。 ヒソプの一束を取って、
“鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。”(出エジプト12:22)
その血は塗られなければなりませんでした。 そうで無かったなら効力がありません。 ああ、罪人であるあなた方、キリストの血を取りなさい! イエスの血によって罪から清められなさい!
“神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。”(ローマ3:24-25)
文字通りの翻訳といわれるニュー・アメリカン・スタンダード・バイブルが、それを誤って翻訳している事は奇妙です! その反面、ニュー・インターナショナル・バージョンは、それを正当に、“その血による、また信仰による”と訳しています。 私は二つの意見を前後する事は嫌いです。 ですから、私は文字通りの翻訳で信頼できる、昔ながらの忠実なキング・ジェイムズ訳版の一点張りで通します。
“その血による、また信仰による”
信仰の中心なるものはキリスト・イエスの血です。 それが、あなた方の接続方法です。 それが、イエスの血をあなた方に適用する方法です―“その血による、また信仰による”のです。
「いや、そうでは無い」と、ある新福音主義の人達は、「あなた方はイエスの血への信仰によっては救われない」と言うかもしれません。 ならば、私は、あなた方がイエスの血無しで救われる事が出来るかどうかを知りたいものです! 「人がイエスの血を信頼するなら、その人は滅びるでしょう」と言うかもしれません。 いいえ決してそうではありません! キリストの血を信頼する時、神があなた方を滅ぼさせるなら、神は御自分に忠実な方ではありません!
“これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。”(マタイ26:28)
多くの人達は、イエスの血が適用されたと感じません。 しかし、それは問題事ではありません、なぜなら、私達のテキストは、あなた方はイエスの血を見なければならないとは告げていないからです。 そうではありません! 私達のテキストは、こう言っています、
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。”(出エジプト12:13)
神が、イエスの血を御覧にならなければならない方なのです。 神が、全ての罪からあなた方を清めるイエスの血を見、また感じられなければならない唯一の方なのです。 それは、「あなたがその血を見て」と告げてはいません。 それは、キリストの血による清めに関して全てを理解しなければならない、とも告げていません。 それは、「わたしはそれを見て」と告げています。 あなた方の信仰は、それほど偉大なものではないかも知れません。 しかし、もしあなた方がイエスに来て、彼の血を信頼するなら、神はそれを御覧になるでしょう。 神、お一人が重要な方なのです。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。”(出エジプト12:13)
へブライ人達はその血を見る事が出来ませんでした。 彼らは家の中にいたからです。 彼らは外側のかもいと門柱に付けられた血を見る事が出来ませんでした。 しかし神は、その血を御覧になられました。 それが罪人の救いに頼れる唯一の状態です―神が血を御覧になる事、あなた方がそれを見る事ではありません。 そうして祈りを通して神に来て、「主よ、キリストの血のゆえに私を救って下さい。 私はそれを見る事は出来ません、しかし主よ、あなたはそれを御覧になられます、あなたはこう言われました、」と告げなさい。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。”(出エジプト12:13)
「主よ、あなたは、イエスのその血を御覧になられます。 救いの力を信頼した事をあなたは御存知です。 キリストの血のみのゆえに、私の罪を赦し、私を清めて下さい。」 それをあなたの心からの祈り、そして切望とし、直ぐにもあなた方がイエスの血によって洗い清められますように!
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(説教終了)
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説教前の聖書の朗読:マルコ14:12-25。
ベンジャミン・キンケイド・グリフィス氏による説教前の独唱:
“When I See the Blood” (by John Foote, 19th century).
要 綱 神がイエスの血を御覧になる時 WHEN GOD SEES THE BLOOD R. L.ハイマーズJr. 神学博士 著 “わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。”(出エジプト記第12章13節、新改訳) (出エジプト11:1, 4-5; 12:12, 7)
I. 最初に、血の重要性。 マルコ14:12, 23-24;ヨハネ1:29;
II. 二番目に、イエスの血の効力。
出エジプト12:23, 22; III. 三番目に、イエスの血の適用。 ローマ3:24-25;マタイ26:28。 |