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罪人の為にパンを願う-新たな見解!R. L.ハイマーズJr. 神学博士 著 ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて ASKING BREAD FOR SINNERS – A NEW THOUGHT! by Dr. R. L. Hymers, Jr. A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles |
ジョン・サムエル・ケイガンがルカの福音書第11章の5節から13節を先ほど読みました。 その聖句をもう一度開いて下さい。 これは、頼み続ける友人の喩えです。 私はこの喩えから、今晩幾つかの重要な事柄を述べたいと思います。
最初に、この喩えには三人の人が挙げられています。
“また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。”(ルカの福音書第11章5-6節、新改訳)
最初の“友人”は、パンを沢山持っている人です。 その人は父なる神です。 二番目の友人は、パンを求めている人です。 その人はパンを必要とするクリスチャンです。 三番目の友人は、クリスチャンの所にやって来た人です。 その人は救われていない、失われた友人です。 その友人はパンを必要とする人です。 真のクリスチャンである私やあなた方は、神と失われた人達の間に立っています。 以前、私達の何人かは、パンは聖霊を示していると考えていました。 しかし、 私は今それは間違いであると思います。 13節で、祈りが聞かれて聖霊が下った事は、もっともです。
“してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。” (ルカ11:13)
しかし、現在私は“パン”は、聖霊では無いと確信します。 ジョン・R・ライス博士は、ルカの福音書からのこの喩えについて詳しく書いています(Prayer: Asking and Receiving, Sword of the Lord, 1970, p. 70)。 ライス博士は、この“パン”について、それはキリストであると言いました。 “わたしがいのちのパンです”(ヨハネ6:35)。 以前、私はその“パン”は聖霊を示すと考えていました。 しかし私は間違っていました。 パンはキリストご自身です。 このことは新約聖書で明白にされています。 その章のほとんどすべてが、“命のパン”であるイエスについて語っています。 イエスがヨハネの福音書第6章で告げられた事に注目して下さい。
“というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。”(ヨハネ6:33)
“わたしがいのちのパンです。”(ヨハネ6:35)
“わたしはいのちのパンです。”(ヨハネ6:48)
“わたしは、天から下って来た生けるパンです。” (ヨハネ6:51)
“またわたしが与えようとするパンは・・・。”(ヨハネ6:51)
何度も何度もイエスご自身が、“命のパン”である事を告げています。
ではなぜクリスチャンは、ルカの福音書第11章6節について、“友人が・・・、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ”と言うのでしょうか? なぜなら、私達は、彼らに“命のパン”を与えるには無力だからです! 私達の伝道を通して、また、説教を通して、私達には彼らにいのちのパンを与える力は無いのです! 私達は福音を知っていますが、私達にはいのちのパンを彼らに与える力が無いように感じます。 ですから私達は、“友人が・・・、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ”(ルカ11:6)と言うのです。
これは私自身の告白です―“出してやるものがないのだ。” ですから、多くの若者達がバプテスト教会を訪ねて来る時、彼らはその様に感じるのです。 彼らは、教会は彼らに必要な物を何も提供してくれないと感じるのです。 ほとんどのアメリカのバプテスト主義派の教会で、彼らは「幾つかの最新の歌以外は、何も彼らに出してやるものがない」のです。 私はそれらの歌を嫌います! 全部同じに聞こえます! それらが、彼らにとって「賛美の歌」なのです―しかし、それらの讃美歌は何もイエスの必要性について、罪人に考えさせません! 私には出してやるものがありません! 何一つ、何一つ、古めかしい「賛美」の歌以外には何もありません。 何も出してやるものがありません! 何も! 何も! 無味乾燥で、活気の無い、一句毎の聖書の解説以外は何もありません! 活気の無い「賛美の」の歌、そして退屈させる聖書研究以外何もありません。 あなた方はそれを先週体験しました! 健康な普通の若者達は、それらによって助けられる事は出来ません。 唯一の活気ある歌は、ポール・レイダー(Paul Rader)のすばらしい復活祭の賛美歌『Alive Again』だけでした 。 私達は半死状態の集会によって催眠状態に置かれ、私は大声で汗をかきながら、あなた方を覚まして歌わせなければなりませんでした! アメリカの教会が俗世間の失われた若者達を導く事が出来ないのも不思議ではありません。 アメリカの教会が、すでに教会に出席している若者達の90パーセントを失うもの不思議ではありません。 私が若い頃、そうであったのも不思議ではありません。 私の教会で私にアピールしたものは何もありませんでした。 それは無味乾燥で、気の抜けた状態でした。 私の最初の教会では、私に挑戦させるものは何もありませんでした。 私の思いは毎週教会で茫然としていました。 私が茫然としていたのは、イエスがそこにいなかったからです。 全ての集会が、教会の女性達を満足させるように意図されていたように思えました。 彼らには何も私に出してくれるものはありませんでした! テレビのチャールズ・スタンリー、あるいはインターネットを通したポール・チャペルに注目して下さい。 活気無くそっけない、彼らの罪、彼らの孤独、そして彼らの永遠への答えとしてのイエスに目を向け指すようなものは何もありません。 “友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。” 私はリック・ウォーレンの教会を訪ねました。 私はダラスのファースト・バプテスト教会を訪ねました。 私はアメリカの幾つかの聖書バプテスト国際協議会(BBFI)の教会を訪ねました! 彼らはもうろうとしており、彼らは、“出してやるものがない”という事にさえ気づいていないのです。
その答えは9節と10節にあります、
“わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。”(ルカ11:9-13)
イエスは、求めなさい。 探しなさい。 たたきなさい。 そして、天の父が“求める人たちに、・・・聖霊を”(ルカ11:13)下さるまで頼み続けるよう私達に告げる事で、この喩えを終えられます。 頼み続けなさい(それはギリシャ語の意味です)。 求め続けなさい! たたき続けなさい!
私達は、集会の内に聖霊がいなければなりません。 私達に聖霊が下らなければなりません。 そうで無かったなら、イエスが重要に思えないでしょう―そして、イエスは臨在されないでしょう! そして誰も救われないでしょう! 8節で救い主は、このように告げています、
“あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。”(ルカ11:8)
“頼み続ける”とキング・ジェイムズ版で訳されたギリシャ語は、「羞恥心の無い固執」という意味です―私達は全ての集会に聖霊の力が下るように祈らなければならないという事です。 荒野の“マナ”は、イスラエル人が一晩残して置いておくなら腐ったのです。 それは今日も同じです。 毎回、祈祷会と集会の前に、私達が祈りを通して「羞恥心の無い固執」をしない限り、それらの集会は「腐って」しまうでしょう。
アメリカの教会は、イエスを集会から閉ざしています-ヨハネの黙示録のラオデキアの教会からイエスが閉ざさたようにです。 それはなまぬるく、熱く燃えていないのです! 力強い歌も無く! 説教も無く―単に活気の無い、一句毎の聖書の解説だけです! 活気の無い聖書の解説に、聖霊は必要ありません! 伝道的な説教が心に語り掛けます! 心に! 心に! “人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。”(ローマ10:10)。 頭脳にでは無く、心に! その思いだけでは無く! キリストは心に話しかけられなければならないのです、そうでなければ、誰も救われないでしょう―また、誰もリバイバルしないでしょう―もしくは、誰もいのちのパンを味わう事は無いでしょう! イエスは、アメリカのなまぬるい福音主義派とバプテスト主義派の集会から閉ざされています! 閉ざされています! 閉ざされています! 閉ざされています! イエスは、“戸の外に立ってたたく”(黙示3:20)と言いました。 なぜイエスは教会の外に立って叩いているのでしょうか? なぜなら、アメリカの教会がイエス閉ざしたからです、だからなのです。 私達が、聖霊が毎回の集会に下るように熱心に祈らなければ、イエスはそれらの集会に臨在されないでしょう。 イエスは、聖霊が臨在される所のみに来られるのです。 聖霊は、私達が、イエスが来られるように祈る時のみに、臨在されるのです! 私達が、イエスが来られるように祈る時のみに、イエスは臨在されます! 私達が、イエスが来られるように祈る時のみに、臨在されるのです! 多くのアメリカの礼拝集会は、カトリック教会よりも活気がありません。 あなた方をそれを知っています。 実際それはカトリック教会のミサよりも退屈です。 私の言う事が正しいのをあなた方は知っています!
“友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。”(ルカ11:6)
その人が真夜中に求めた“パン”は何だったのでしょうか? その人が、彼の所に行ってより頼んだものは何だったのでしょうか? その人が求めたパン、そして叩いて求めたパン、そして、頼み求めたパンは、イエスご自身だったのです。 それ以外に何が罪人に必要でしょうか? 13節の後半でイエスは、“とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう”(ルカ11:13)と言っています。 ここでスコーフィールドの解説は、その要点を抜かしています。 祈りの闘士は、自分自身に聖霊を願ってはいません。 彼は、聖霊が、失われた友人の心を開き、イエスに引き寄せられるよう、イエスを決して信頼しない友人の為に、聖霊が下るよう祈るのです!
“友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。”
確かに、あなた方の祈りに答えられて、神が聖霊をお与えにならないならば、失われた罪人に与えるものは何もありません! ジョン・R・ライス博士はそれを明白に告げています、
イエスは、・・・祈りに関するこの教えの最後まで、確かな言葉でもって、このことを口にされなかった、すなわち、イエスは弟子達に、リバイバルを実際にもたらし、罪人に罪を悟らせ回心させる、また、神の人に知恵と力、そして指導力を与える、聖霊を求めるよう祈る事!私達が罪人の為にパンを祈る時、私達に本当に必要なのは聖霊なのである(Rice, ibid., p. 96)。
私は未だ救われていない人達に対して話します。 イエス・キリストはこの喩えのパンです。 主イエス・キリストは、何よりもあなた方が必要としている方なのです! 聖霊が、教会の集会であなた方に下らない限り、あなた方は決して自分の罪を自覚しないでしょう。 イエスはこう告げられました、
“その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。”
(ヨハネ16:8)
私達はあなた方のような罪人に心の罪を感じさせ、頑なな心の底に隠れた邪悪さを感じさせる為に、聖霊が降りて来るよう祈っています。 聖霊があなた方をそのように全く感じさせないならば、あなた方は決して真にキリストを必要とする事を感じないでしょう。
そうしてまた、私達は神の御霊があなた方をキリストの完全な救いへと引き寄せるよう祈らなければなりません。 なぜなら、救い主はこう言われたからです、
“わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。”
(ヨハネ6:44)
ですから私達は、神の御霊があなた方をイエスへと引き寄せるよう祈らなければなりません、なぜなら、イエスのみが、あなた方を罪から、そして地獄から救う事が出来るからです。
今のこの時までに、あなた方は福音を聞いただけです。 あなた方は、イエスがあなた方の罪の代価を償う為に十字架で死なれた事を聞いただけです。 あなた方はイエスの血があなた方の罪を清め、そして神の御前に義として下さる事を聞いただけです。 そして、あなた方はイエスは天国で生きていられ、祈られている事を聞いただけです。 あなた方はこれらの事を聞いただけなのです。 しかしあなた方は、実際にそれらを全く体験していません。 そしてあなた方が毎週日曜日に単に座って、それらについて何度も何度も聞いているだけなら、素晴らしいそれらの事を決して体験出来ないでしょう。 それらの真実を聞く以上の事が、あなた方に起こらなければならないのです、そうで無ければ、あなた方は決して救われないでしょう!
聖霊が下り、あなた方に罪を感じさせなければなりません。 聖霊が下り、あなた方をイエスに引き寄せなければなりません。 聖霊が下り、あなた方に生きたキリストとの出会いを与えなければなりません。 あなた方が救い主に引き寄せられるには、奇跡を要します。 あなた方が新たに生まれ変わるには、奇跡を要します。 そして、御霊だけが、あなた方の人生に奇跡を起こせるのです。 もし聖霊が、あなた方の霊的な必要性を満たす為に臨在しないならば、また、もし聖霊が、私達の集会に臨在しないならば、また、彼が存在しないならば、私達が言えるのは、このことだけです、
“友人が…私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ”(ルカ11:6)
ですから、私達はあなた方の救いの為に祈ったのです。 ですから、私達は頼み続けているのです。 ですから、私達は求め続けているのです。 ですから、私達は叩き続けているのです―そして私達は、神が天を開き、あなた方を回心させ、あなた方を変え、そして、永遠の命を与える為に御霊を送られまでそれを続けます! イエスは言われました、“とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう”(ルカ11:13)と。 そうして私達はあなた方の為に祈っています。 私達は、あなた方が罪を自覚し、奇跡的な回心の体験を通してキリストに引き寄せられるよう、神がご自身の御霊を送られるよう、頼んでいるのです。 キリストはあなた方の罪をご自分の血で洗い流して下さるでしょう。 キリストはご自身の義であなた方をまとい、神を愛し、罪を嫌うような心を下さるでしょう。 神はあなた方の石のような心を取り去り、生ける心を与えて下さるでしょう!『我、汝のために祈らん(For you I am praying)』そのコーラスを歌って下さい!
汝のために我祈る、汝のために我祈る
汝のために我祈る
我、汝のために祈らん (直訳)
(“I Am Praying For You” by S. O’Malley Clough, 1837-1910).
私達は先週の日曜日の晩、聖霊が下される事を祈りました。 私達が出て行った後で、私とケイガン先生は座りました。 そこにトム・シャがやって来て、救われました―なぜなら、聖霊が、祈りを通して降りて来られたからです。 アーメン、アーメン!
ハイマーズ博士に電子メールを送られる際は、どこの国から送っているのかをいつも明記して下さい。そうでなければ、ハイマーズ博士はあなたの電子メールに答えられません。 もしあなたがこれらの説教で祝福されるのでしたら、ハイマーズ博士に電子メールを送って下さい。送られる時は、どこの国から送っているのかをいつも明記して下さい。 ハイマーズ博士の電子メールの住所はここをクリックしてくださいrlhymersjr@sbcglobal.net。 どんな言語でもかまいませんが、もし出来るのであれば、英語で書いてください。また、郵便で送りたい方は、P.O. Box 15308, Los Ángeles, CA 90015に送って下さい。 ハイマーズ博士の自宅電話番号は(818)352-0452です。
(説教終了)
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ジョン・サムエル・ケイガン氏による説教前の聖書の朗読:ルカ11:5-13。
ベンジャミン・キンケイド・グリフィス氏による説教前の独唱:
“I Am Praying For You” (by S. O’Malley Clough, 1837-1910).