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アブラハムとイサクから学ぶ人生訓

(創世記シリーズ その85 )

R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2015年11月29日、主の日の晩の説教

LIFE LESSONS FROM ABRAHAM AND ISAAC
(SERMON #85 ON THE BOOK OF GENESIS)

by Dr. R. L. Hymers, Jr.

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Lord's Day Evening, November 29, 2015

“するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。・・・」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた”。(ルカの福音書第24章25, 27節、新改訳)

キリストは彼の弟子達に、モーセと全ての預言者達が彼について述べた事を告げられました。 旧約聖書は、キリストについて多くの描写を挙げています。 それらは、イエスと神について、言葉による生き生きとした描写です。 歴史上、最も偉大な説教は、新約聖書が書かれる前の、使徒の働きの時代に為されました。 彼らは何を説教したのでしょうか? 彼らは、旧約聖書の神とキリストについて説教したのです! 私が聞いた最も素晴らしい説教の幾つかは、旧約聖書からのものでした! 私の長年の牧師であったティモシー・リン博士は、素晴らしい旧約聖書の学者でした。 五十年後の今でも、エレミヤ書1章10節からの彼の説教、ダニエル書10章13節、20節、21節、マラキ書4章6節、そして創世記3章21節からの彼の説教を私は今でも忘れません。 私が今までに聞いた最も素晴らしい説教の一つは、旧約聖書の列王記第一からのアハブとイゼベルの裁きについての『Payday Someday(いつか支払われる日)』と題した、R・G・リー博士(Dr. R. G. Lee)の説教でした。 そしてM・R・デハーン博士(Dr. M. R. DeHaan)による、エゼキエル書37章から39章までの説教のシリーズは決して忘れないでしょう。 そしてまた、1961年にテキサス州ダラス市のファースト・バプテスト教会で、大晦日に、W・A・クリスウェル博士(Dr. W. A. Criswell)が説教した五時間半の『The Scarlet Thread Through the Bible』の録音の一部を私は聞きました。 あなた方が五時間もの時間があるなら、その録音をwww.wacriswell.orgを通して聞く事が出来ます。 その力強い説教の半分以上が、旧約聖書全体の解説です! そしてまた、私はラジオを通して旧約聖書を教ていたJ・バーノン・マックギー博士(Dr. J. Vernon McGee)を約十年間ほぼ毎日のように聞きました。 これらの偉大な神の人達から、私は旧約聖書の全てのページを信頼し慕うことを学びました。 そして私は、旧約聖書のほとんどのページの中で、イエス・キリストが預言されていることを学びました。 時には、“見よ。 処女がみごもっている。 そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける”(イザヤ7:14)の様に、イエスについて明白な言葉で預言されています。 他の箇所では、イエスは、描写もしくは典型を通して語られています。 今朝私達が見てきたように、典型とは、新約聖書の人、場所、もしくは事柄を描写する、旧約聖書の人、場所、そして事柄です。

創世記22章は、父なる神と御子キリストについての典型に富んでいます。 創世記22章を開いて下さい。 私が説教する間、聖書のその章を開いて置いてください。

創世記22章は、旧約聖書における最も偉大なキリスト論的な章の一つです。 詩篇22章とイザヤ書53章で、私達の為に苦しまれたキリストについての預言が読み取れます。 しかし、創世記22章では、明白にイエス・キリストが身代わりとして、犠牲を受けることを私達は学びます。 そして父なる神と罪なる人の描写が示されています。 私はこのすばらしい章を何度も何度も読みました。 そして、確実にそれは、

真のクリスチャンの典型として、アブラハムを描いており、

父なる神の典型として、アブラハムを描いている。

と言えると私は思います。

それは、

キリストの典型として、アブラハムの子イサクを描いており、

また、それは、失われた罪人としても、イサクを描いているのです。

ここに、それらの描写あるいは典型があります。

I. 最初に、この聖句は、クリスチャン達への試練を描写している。

創世記22章1節と2節に注目して下さい。

“これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい” (創世記22:1, 2)。

英語(キング・ジェームズ訳)の“tempt(誘惑する、惑わす)”という言葉は強すぎます。 NASVはそれを“tested(試練に会わせる)”と訳しています。 ライリー博士は、「神は、誰をも悪によって誘惑する事はなさらない(ヤコブ1:13)。 しかし・・・神は、アブラハムの場合と同じように、私達を試練に会わせられ、試され、もしくは、探られる」(Ryrie Study Bible; note on Genesis 22:1)と言っています。 何年も前に、NASVの訳の通り、そしてライリー博士の説明の通り私が解説したことで、私は強固に非難された事を覚えています。 しかし、私は当時正しかったのです。 そして五十年後の今夜に於いても、私は正しいのです。 ヤコブ1章13節は、神は私達を誘惑なさる事は無いと言っています。 しかし創世記22章1節は、神はクリスチャンの生涯の中で、私達を試練に会わされる言っています。 私達が皆試されるように、アブラハムは、試練に会わされているクリスチャンの典型なのです。

スコーフィールドの注解は、「アブラハムの信仰体験は四つの大いなる危機によって記されている。 それぞれが、最も大切としているものの放棄に関わっている」と正確に言っています。 それらは以下の通りです。

1.  アブラハムは、彼の故郷、そして彼の親戚を断念しなければならなかった(創世記12:1)。 アブラハムは、もしこの事に関して神に従っていなかったならば、彼は救われなかったと私は思います。 非常に多くの人達は、(特に若者達)は、救いを体験する事はありません。 なぜなら、彼らは俗的な友人達を断念しないからです。 彼らは、友人達から離れません―だから、彼らは決して救われないのです。

2.  アブラハムは、非常に身近にいる、跡継ぎの候補者であった甥ロトを断念しなければならなかった(創世記13:1-8)。

3.  アブラハムは、彼のもう一人の息子、イシマエルへの計画を断念しなければならなかった(創世記17:17, 18)。

4.  アブラハムは、心の底から愛した彼の息子を断念しなければならなかった(創世記22:1, 2)。

“神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい” (創世記22:2)。

イサクを断念しろ! イサクを断念しろ! イサクを断念しろ! なぜでしょうか、アブラハムはこの息子を一生涯待ち望んでいたのです! しかし神は、全焼のいけにえとして捧げよ、と彼に言われるのです! それが試練です! 神は、“私の為に、あなたは何を断念しますか?” とあなた方に問われるのです。

私は、国外への宣教師になる事を願いました。 しかし、神はその願いを私から取り上げました。 私は千人以上が出席する教会を建て上げましたが、神はそれをも私から取り上げました。

道はまっすくで狭いが、
   私が求めた全ては捨てられ、
私の志し、計画、そして願いは
   私の足元で、灰と帰す。
(“I Will Praise Him” by Mrs. Margaret J. Harris, 1865-1919). (直訳)

いのりすれど てごたえなく もとむれど えずして
   おもきこころ いだきつづけ くるしむは たれぞや
ながもてるものを 主の手に ことごとくささげしや
   じょうけんつけず こうふくせば かちうべし しょうりを
(『祈りすれど手答えなく』“Is Your All on the Altar?”
      by Elisha A. Hoffman, 1839-1929).

全ての真の偉大なクリスチャン達は、自分達の計画や希望を断念しました。 彼らは皆、神を喜ばす為に犠牲を貫かなければなりませんでした。


ヨハネス・クリュソストモス(John Chrysostom)は、ユードキシア皇后 (Eudoxia)によって国外追放されました。
マーチン・ルターは、カトリック教会から破門されました。
リチャード・バックスターは、ロンドン塔に閉じ込められました。
ジョン・バニアンは、12年間牢獄に監禁されました。
ジョン・ウェスレーは、英国教会から追い出されました。
ジョージ・ホウィットフィールドは、ロンドンの全ての教会 から追放されました。
ジョナサン・エドワードは、彼自身の教会から解雇されました。
スポルジョンは、バプテスト・ユニオンから厳しい非難を浴 びました。
J・グレッシャム・メーチェン(J. Gresham Machen)は、長老教会から聖職を剥奪されました。
ジョン・R・ライスは、南部バプテスト協議会から締め 出されました。
ジム・エリオットは、アウカ・インディアンによって 殺害されました。
リチャード・ウォンブランドは、14年間牢獄に監禁 されました。
使徒パウロは、鞭打たれ、投石の刑に会い、監禁 され、斬首しました。

ヨハネを除いて、使徒達は皆処刑されました。 彼らはキリストを拒否すること無く、むしろ、ひどい死に方の死を選びました。 初期のクリスチャン達は、コロセウムに放られ、歓声をあげる異教徒の群衆の目前で、腹を空かしたライオンやクマによって引き裂かれました。 連合軍がドイツを開放する数日前にナチ軍は、ディートリッヒ・ボンホーファー(Dietrich Bonhoeffer)をピアノ絃で絞首刑にしました。 マーティン・ロイド‐ジョーンズ博士は、ビリー・グラハムのクルセードの『決断主義』を支援しなかった為に、批判を浴び、疎外されました。 ハロルド・リンゼル博士は、神学校などでのリベラル主義を暴露した『The Battle for the Bible(聖書をめぐっての戦い)』を出版したが為に、非難され疎外されました。 ビル・ポーウェル博士(Dr. Bill Powell)は、南部バプテスト神学校内の聖書批判を公表したが為に、追放され、孤独な終わりを余儀なくさせられ、亡くなりました。 何千人ものクリスチャン達は、今日、近代イスラム教主義達によって首をはねられています。

アブラハムは、彼の息子、イサクを神から与えられるまで百年待ったのです。 そうして神は、彼の愛する息子をほふる為に、モリヤ山へ連れてくるよう彼に告げ、彼に試練を会わされたのです。 全ての良いクリスチャンは、失いたくないものを犠牲にするのです。 そうでないと、神がその人に与えられた試練を乗り越えることは出来ないのです。 良いクリスチャンは皆一人一人、ハリス女史が書いたこれらの言葉の意味を知っています。

道はまっすくで狭いが、
   私が求めた全ては捨てられ、
私の志し、計画、そして願いは
   私の足元で、灰と帰す。

彼らは皆、ホフマン氏が心を貫き通す問いの意味を理解しました

いのりすれど てごたえなく もとむれど えずして
   おもきこころ いだきつづけ くるしむは たれぞや
ながもてるものを 主の手に ことごとくささげしや
   じょうけんつけず こうふくせば かちうべし しょうりを

II. 二番目に、アブラハムは父なる神を描写している。

おそらく典型では無いにしても、アブラハムは確かに、御子を苦しみに合わせ、十字架で死ぬ為にこの世に御子を送られた父なる神を描写しています。 確かに創世記22章2節は、父なる神の心中の描写を表しています。 神は、御自分の愛する御子を、モリヤ山と同じ峰にあるカルバリー山へ連れて行かれ、人間の罪を償う為にイエスを捧げられるのです。

創世記22章9節の後半に注目して下さい。 アブラハムは、“自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた”。 スコーフィールド聖書の注解は、「“ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された”御父の典型であるアブラハム[ローマ人への手紙8:32]」と書いています。 私達は、しばしばヨハネの福音書3章16節を聞き、それについてあまり考えないのではないでしょうか?

“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された…”(ヨハネ3:16)。

創世記22章2節をもう一度見ながら、ヨハネの福音書3章16節を考えて下さい、

“あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、…全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい”(創世記22:1, 2)。

バーノン・マックギー博士は、「最後の三時間に、十字架はこの世の罪を取り除く神の小羊が捧げられた祭壇となった。 それは御父と十字架での御子との間で為された…その描写はここでのアブラハムとイサクの間と同様である」(Thru the Bible, vol. 1, p. 91)と言いました。

M・R・デハーン博士は、「最後の数時間の苦悩の間に、父なる[神]と御子イエス・キリストの間に起こった事を、私達は決して理解する事はないであろう。 人間の目ではその場を見る事は無かった、[なぜなら、全地が暗くなったからである]… “最後の危機が起こり、最後の犠牲が為された時、神は[暗闇を下された]…わが神、わが神。 どうしてわたしをお見捨てになったのですか”と[十字架からのイエスの]最終の究極な苦悩の叫びが絶頂に達するまで」 (M. R. DeHaan, M.D., Portraits of Christ in Genesis, Zondervan Publishing House, 1966, p. 137)。

疑いなく、イサクの死が近づくにつれ、アブラハムの心は砕けたでしょう。 そしてそれと同様、神が暗黒の中で御自分に向かって叫ばれる御子イエスに背を向け去られた時、神の心は砕けたでしょう。 あなた方と私を、罪と地獄から救う為に―“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された”のです。 神は、確かに十字架で“わが神、わが神。 どうしてわたしをお見捨てになったのですか” と神に向かって叫ばれる御子の声を聞かれたでしょう。 疑いなく、イエスが私達の罪を十字架の上で負われた間、神が背を向けられた時、父なる神は涙を流されたでしょう!

III. 三番目に、イサクはイエスを描写している。

スコーフィールド聖書の注解は、「イサクはキリストの典型、“死にまで従い”(ピリピ2:5-8)」と書いています。

“人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました” (ピリピ2:8)。

では、6節に注目して下さい、

“アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ”(創世記22:6)。

それは十字架を負っているキリストを描写しています。

“彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真ん中にしてであった”(ヨハネ19:17, 18)。

では、7節と8節に注目して下さい、

“イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた”(創世記22:7, 8)。

イサクは、“火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか”と尋ねました。 アブラハムは、“イサク。 神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ”と答えました。 では、9節に注目して下さい、

“ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた”(創世記 22:9)。

イザヤが告げているように、これはイエスを描写しています、

“口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない”(イザヤ53:7)。

マックギー博士は、イサクは三十三才ぐらいであったと指摘しています。 彼は創世記全体を詳しく学び、それを推測しました。 イサクは従順に父親に自分を縛らせ、薪の上に横たわりました。 では、10節に注目して下さい、

“アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした”(創世記22:10)。

アブラハムは、自分が何をしているのか理解できなかったでしょう。 しかし彼は以前に、神が告げられることに従う事を学んでいました。 これを行うに及んで、彼はその試練を乗り越えたのです。 12節に注目して下さい、

“御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた”(創世記22:12)。

マックギー博士は、「神はアブラハムを試練に会わせた。 神が召し出す人は誰でも…神が用いられる人は誰でも、試練に会わされるであろう…我々の信仰を強める為に、我々を定かにさせる為に、そして我々を神に役立たせる為に”(同著、創世記22章12節の解説)。 ハリス女史による賛美歌をもう一度聞いて下さい、

道はまっすくで狭いが、
   私が求めた全ては捨てられ、
私の志し、計画、そして願いは
   私の足元で、灰と帰す。

彼女は、続けてこう書いています、

そうして、私の心の祭壇に
   神の火が、燃え立たされ;
私は決して神への賛美を止めない!
   神の御名に栄光あれ!
私は神に栄光を捧げる! 私は神に栄光を捧げる!
   罪人達の為に打たれた小羊に栄光あれ
神に栄光を帰せよ、全ての者よ
   イエスの血が全ての汚れを清めるゆえに。

それは、彼女の信仰告白であると私は思います。 彼女が求めたものは全て捨てられました。 彼女の志し、計画、そして願いは、彼女の足元で焼き捨てられ灰となりました。 「そうして」―ああ、ここが素晴らしい! 「そうして、私の心の祭壇に神の火が、燃え立たされ;私は決して神への賛美を止めない! 神の御名に栄光あれ!」。 ホフマン氏の歌の主旨のように、あなた方がイエスを拠りどころとする時、あなた方は祝福を受け、心の平安と心地よい安らぎを持つことができるのです。

私達の教会を破産から救った忠実な人達について考えて見てください。 彼ら一人一人が、神が彼らに与えた試練を乗り越えなければならなかったのです。 他の人達は教会の分裂の間に教会を去って行きました。 しかし、彼らにとって大いなる犠牲となったけれども、忠実な人達は教会に残りました。 そして試練を貫き通したのです。 サラザー姉にとって犠牲となった事、プルードホム氏にとって犠牲となった事を私は覚えています。 私の妻に犠牲となった事、チャン先生、ケイガン先生、ケイガン姉、ビーボ姉、そして他の皆さんにとって犠牲となった事も、私は知っています。 彼らは、「私が求めた全ては捨てられ、私の志し、計画、そして願いは、私の足元で灰と帰す」と言う事が出来ます。 それが、父なるアブラハムが、自分の命以上に愛した息子を刀でほふろうとした時に起きた事です! 彼の全ての野心、計画、そして願いは、彼の足元で灰となったのです! そのように、アブラハムと他の人達は試練を貫いたのです。 サラザー姉がどうしてそんなにも聖人なのかと疑問に思いませんか? 彼女の全ての志し、計画、そして願いは、彼女の足元で灰となったのです!

あなた方は単に聖書を学ぶだけで、素晴らしいクリスチャンにはなりません。 あなた方の志し、計画、そして願いを、神に犠牲にする事によって、あなた方は素晴らしいクリスチャンになるのです。 あなた方はアブラハムがした同じ方法で素晴らしいクリスチャンになるのです! 他に方法はありません! 起立して讃美歌の4番『十字架をイエスより(Jesus, I My Cross Have Taken)』を歌って下さい。

十字架をイエスより うけたるわれは
   いまよりすべてを すててしたがわん
たからもめいよも あくたのごとし
   のぞみをかなたに つなぐわれは

またきみすくいに よくせしわれは
   つみのたのしみに 日はうばわれじ
イエスはわがために とうときいのち
   すてたまいしかと ひびおもいつつ

いざわがたましい いのりのつばさ
   はりてのぼれかし かがやくそらに
よをさる日きなば あいするイエスを
   まのあたりあおぎ たからかにほめん
(『十字架をイエスより』“Jesus, I My Cross Have Taken”
      by Henry F. Lyte, 1793-1847).

着席して下さい。

ああ、説教がこの様になる事は全く計画していませんでした! 私は説教を書き始める前に、素晴らしいアウトラインを書きました。 私はそれに金曜日の一日を費やしました。 しかし最後には、私の素晴らしいアウトラインは、「捨てられ、私の足元で灰となりました!」。 起立して下さい! そうであっても、この説教はアブラハムとイサクのメッセージを挙げており、おそらく私の素晴らしい説教のアウトラインに沿ったものよりも良いメッセージだったのではないかと確信します!

デハーン博士は、「ここで、典型論は変化する。 そして、二重典型の実例が挙げられる。 イサクはそこまではキリストの典型であったが、それ以降はそうではない。 なぜなら、イサク自身、彼の代わりにほふられなければならない身代わりを必要とする[罪人であったからである]からである。 従ってそれは、キリストを描写したイサクから、イサクための代わりとしての雄羊に変わる」(同著、p. 141)と言いました。

“アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた”(創世記22:13)。

“自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた”という表現に注目して下さい。 それは罪人の代わりとなった、キリストの身代わりの死の描写です。 イサクの代わりのいけにえとなった雄羊は、十字架の上であなた方の罪を償う為に、あなた方の代わりに犠牲となったイエスです。 “十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた”(ペテロ第一2:24)イエスの純然たる描写です。

私はあなた方にイエスを信頼するよう懇願します。 あなた方がイエスを信頼するその瞬間に、十字架のイエスの死は、あなた方の全ての罪の報酬を償います。 そして、あなた方がイエスを心から信頼するその瞬間に、十字架の上でイエスが流された血は、あなた方の全ての罪を清めます。 ただイエスを信頼しなさい。 ただイエスを信頼しなさい。 今イエスを信頼しなさい。 イエスはあなた方を救います。 イエスはあなた方を救います。 今救うでしょう。 アーメン。


もしあなたがこの説教で祝福を受けられたのであれば、あなたのご意見をお聞かせ下さい。ハイマーズ博士に電子メールを送られる際は、どこの国から送っているのかをいつも明記して下さい。そうでなければ、ハイマーズ博士はあなたの電子メールに答えられません。もしあなたがこれらの説教で祝福されたのでしたら、ハイマーズ博士に電子メールを送って下さい。送られる時は、どこの国から送っているのかをいつも明記して下さい。ハイマーズ博士の電子メールの住所は ― rlhymersjr@sbcglobal.net (ここをクリック)。 (ここをクリック)。どんな言語でもかまいませんが、もし出来るのであれば、英語で書いてください。また、普通郵便で送りたい方は、P.O. Box 15308, Los Ángeles, CA 90015に送って下さい。ハイマーズ博士の自宅電話番号は(818)352-0452です。

(説教終了)
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You may email Dr. Hymers at rlhymersjr@sbcglobal.net, (Click Here) – or you may
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これらの説教文書はコピー権で守られていませんので、ハイマーズ博士の許可無く使用
できますが、ハイマーズ博士の全てのビデオメッセージはコピー権で守られており、許
可無く複製・使用はできません。

アベル・プルードホーム氏による説教前の聖書の朗読:創世記21:1-14。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Is Your All on the Altar?” (by Elisha A. Hoffman, 1839-1929).

要 綱

アブラハムとイサクから学ぶ人生の教訓

(創世記シリーズ その85 )
LIFE LESSONS FROM ABRAHAM AND ISAAC
(SERMON #85 ON THE BOOK OF GENESIS)

R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著

“するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。・・・」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた”。(ルカの福音書第24章25, 27節、新改訳)

(イザヤ7:14)

I.   最初に、この聖句は、クリスチャン達への試練を描写している。
創世記22:1, 2;ヤコブ1:13;創世記12:1;13:1-8;17:17, 18;
22:1, 2。

II.  二番目に、アブラハムは父なる神を描写している。
創世記22:9;ローマ8:32;ヨハネ3:16;創世記22:2。

III. 三番目に、イサクはイエスを描写している。
ピリピ2:8;創世記22:6;ヨハネ19:17, 18;創世記22:7, 8, 9;イザ
ヤ53:7;創世記22:10, 12, 13;ペテロ第一2:24。