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罪びとのためにパンを求めるR. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて ASKING BREAD FOR SINNERS by Dr. R. L. Hymers, Jr. A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles “してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう”。 (ルカの福音書第11章13節、新改訳) |
たとえ話は、霊的な真実を描写する話です。 このたとえ話は、非常に簡単明瞭な話です。 弟子の一人が、“私たちにも祈りを教えてください”(ルカ11:1)と言いました。 イエスは、彼らに主の祈り(天にましますわれらの父よ)を教えられました。 それは、私が今までに少なくとも日に一回は祈っている祈りです。 そしてイエスは、この短い話を彼らにされたのです、これは簡単明瞭なたとえ話です。
キリストは、真夜中にある友人が家に訪ねて来た、その人について話されました。 しかしその人の家にはもてなすパンがなかったのです。 ですから彼は隣人の家へ三つのパンを借りに行きました。 彼はその隣人に、遠くから友人が彼の家へやって来たと言いました。 しかし、“出してやるものがないのだ”と言いました。 その隣人は、面倒をかけないでくれとその人に答えました。 隣人の彼と彼の子供達はすでに床に入っていました。 しかしその人は戸をたたき続けました。 最終的にその隣人は戸を開け、彼に必要なだけのパンを与えたのです。
そうしてイエスは、その話の“モラル”、その話をされた理由と呼ばれる、このたとえ話を理解する鍵を挙げられました。
“わたしはあなた方に言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます”(ルカ11:9)。
原語のギリシャ語は、持続して頼む事、求める事、たたく事の意味を含みます。 ジョン・R・ライス博士は、この聖句は、「求め続けなさい、そうすれば、それはあなたに与えられるであろう。 たたき続けなさい、そうすれば、それはあなたに開けられるであろう」とも訳されるであろう言いました(Prayer: Asking and Receiving, Sword of the Lord Publishers, 1970 edition, p. 94)。
そして、このたとえ話を理解する二番目の鍵があります。 その人は戸をたたいた時、“パン”を求めました。 この“パン”とは何でしょうか? 13節はその答えを与えています。 そなわち、“・・・とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう”です。 他にも応用はあることを私は知っていますが、主要なポイントは、罪びとに聖霊が下られ、彼らに明らかにされ、罪を悟らせ、そしてキリストに彼らが引き寄せられる事を、私達は神に求め、捜し、たたくことであると私は確信します。 それゆえ、私はたとえ話の中のその“パン”は、聖霊について告げていると信じます。 6節でパンを求めるその人は、“友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ”と言いました。 聖霊の実際にそこに存在すること(実在)なくしては、集会を訪れてくる失われた罪びとに私達が与える物は何もありません。
私は注意深く説教を準備していた時の事を思い出します。 しかし説教壇に立った時、私の口からはただ単に風が吹き出されているかのように、私は思えました! その説教には良い要点がありました。 そして失われ人々を助ける事が出来たでしょう。 しかし、その説教には力がありませんでした。 誰も祝福されませんでした。 この世の終わりの日の説教者達は、私が何について話しているのか全く思いつかないでしょう。 彼らは説教している時に、全く何の違いも体験しないのです。 それは嘆かわしい事です、なぜなら、それは彼らが全く聖霊を意識していないという事だからです。 彼らが説教している時、神の御霊の実在さえも判別する事が出来ないのです。
私はかつて不信者の父を、ニューオリンズのバーボン・ストリートから来た有名な説教者を聞きに連れて行きました。 人々は私に、彼は中年男性の耳を傾けさせるようなジョークを語り、福音に対応するから、この説教者が私の父の心を動かす事が出来るでしょうと言いました。 それは、私が父と一緒に教会に行った唯一の機会でした。 バーボン・ストリートから来たその説教者は、説教壇に立ちジョークを言い始めました。 彼はそれが得意でした。 実に上手でした! 彼の話の最後に、彼は一言ないし二言で、救われる事について話しました。 そうして彼は、救われるために前方へ出てくるように招きました。 私の父は、動きませんでした。 その集会の後、私達は車に乗り、数分後に私は父にどう思ったかを問いました。 私の父は、「彼はボブ・ホープほどうまくない」と言いました。(若い方へ―ボブ・ホープは、ジョークをよく語った有名なコメディアンです。) 父は、「彼はボブ・ホープほどうまくない」と言っただけでした。
その会衆は、バーボン・ストリートの説教者のメッセージに、笑いこけました。 私は、彼がその説教は成功であったと思ったかどうかは確かではありませんが、聖霊はそこには実在しませんでした! 全く! 私はその時それを知りました。 そして、今でもそれを知っています。 私の父は、私が願ったので来たのです。 確かに彼は来てくれました―しかし聖霊は降りて来ませんでした! 私の父は失われた罪びとでした―しかしダウニー市の近くのその教会には、父への“パン”はありませんでした。
“友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ”(ルカ11:6)。
私が立ってここで説教しても、聖霊がここに降りて来なければ、誰も助けられません、誰も救われません、誰もキリストの弟子にはならないでしょう。 ですから、これらの説教を準備する時に、私は一文毎に、そして一節毎に祈ります。 ですから、私達の週三回の祈祷会で、説教のために祈るように私はお願いしているのです。 ですから、私が説教している間に、他の部屋で二人の祈りの戦士が祈るように、私はお願いしているのです。 そうでなければ、説教壇から彼らに与える物は何ひとつないのです―“[彼らに]出してやるものがないのだ”。 それがこの世の終わりの日の、多くの教会の悲惨な状況なのです! それが私達の教会でも、起こらないようにお祈り下さい!
神が、“パン”を罪びとに送られために、私達はどのように祈るべきでしょうか? 聖霊が下されるために、どのように祈るべきでしょうか? 9節を見てください。
“わたしはあなた方に言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます”(ルカ11:9)。
求め続けなさい! 捜し続けなさい! たたき続けなさい! 諦めてはなりません。 止めてはなりません。 神が、あなた方の魂を燃やして下さるよう、熱心に祈りなさい―そうすれば、聖霊のために―罪びとを救うためのパンのために、祈る事が出来るのです!
そうしてまた、罪びとにパンを与えるために、神が私達の親睦を使われるよう、私達は求めなければなりません。 私達には、クック婦人、リー婦人、ロバート・ルイス氏、ディックソン氏、その他の人達によって用意されたすばらしい食事があります。 しかし聖霊がそこに実在しなければ、朝の集会の後、そして晩の集会の後での食事は、人々を助ける事は出来ません。 私は、集会の後で食事をもっていた教会を知っています。 そこの牧師夫人は、ワクワクしながらその事を私に話しました。 多くの人達がその食事を通して教会にやって来たと、彼女は言いました。 そして私は、“今でも食事を出すことを続けていますか”と尋ねました。 彼女は、“いいえ、食事は役に立たなくなったように思えます、ですから止めました”と答えました。 それに対して私は何も言いかえしませんでしたが、私はその理由を知っています。 役にたたなくなったのは、食事ではありません。 その実際の理由は、彼らが食事のために祈る事を止めてしまったからです! 聖霊の実在がそこになければ、なぜ失われた人々が食事のために来たがるでしょうか? そこに聖霊の実在が無ければ、それは単なる食事にすぎないのです! わざわざ来る必要は無いでしょう? ビッグ・マックでもいいでしょう? 家でも食事は出来るでしょう?
“友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ”(ルカ11:6)。
ある説教者は、私達の食事は素晴らしいと考ています! しかし、彼は多少それを変えようと思いました、なぜなら、私達のように大勢の人達へ食事を準備するのは、彼の教会では際立って大変だからです。 そこで彼は、“少しだけ”それを変えました。 食事を用意する代わりに、彼は、教会の女性達にアピタイザー(前菜)を用意させました。 アルフレッド・ヒッチコックが、ホラー映画の『サイコ』の封切の前に、スタジオに全ての映画界の重要な人達を招待しました。 彼はそこで彼らに“フィンガー・フード(簡単な前菜料理)”を用意したのです―“実際の指からの”と彼は言いました! そこに居合わせていた一人の女性は叫び声をあげ、それを床に落としたそうです!
アピタイザー(前菜)は、レセプションには良いでしょうが、教会での長い集会の間、座り通し、お腹を空かせた若者達には役に立ちません。 もし、その牧師と教会のメンバーが真剣に食事について祈っていたならば、彼はその間違いに気がついたと私は思います。 私達が用意する食事でさえも、聖霊が私達と共に実在しなければ、それは人々にとって祝福とはならないでしょう。 神の御霊がここになければ―私達は彼らに出してやるものはないのです!
“友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ”(ルカ11:6)。
東海岸から来たある説教者が私に、彼の教会は朝の集会の後に食事を用意していると言いました。 その食事の後彼らは、もう一回の短いバイブル・スタディーのため、集会場へ戻ります。 それ故、彼らは日曜日の晩の集会は必要ない、と彼は言いました。 彼は、昼食の後に続くバイブル・スタディーは、晩の集会に出席する事と同じである、と言いました。 “彼らは晩の集会をもつのと同じほどに聖書を学ぶ”と、彼はしわがれ声で話しました。
「彼は何とも惨めな説教者でしょうか? 彼が成功した説教者でないのも無理はない」と私は思いました。 晩の集会の目的は、聖書に反抗的な「教会で育った子供達」の頭にもっと聖書の言葉を詰め込むことではないのです。 彼はそれが判らないのでしょうか? 晩の集会を放り投げる事により、教会員達が、失われた人達を晩の集会に連れて来る機会を失うのです! 神よお助け下さい! もし、その牧師と彼の教会員達がその事について真剣に祈っていたならば、彼らが成している事の愚かさを、神は彼らに示されたであろう事は確かです。 失われた人々が教会に来て救われないのは、牧師を導き、人々を活気づけるために、聖霊がそこに存在しないからです! 神よ、この邪悪な世の中にいる私達をお助け下さい!
“友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ”(ルカ11:6)。
この世の終わりの日に、説教者と教会員達が暗闇の中でつまずいているように思えます! 私達が教会で成す全ての事は、祈りに浸されなければなりません。 そうでなければ、“あなたは、生きているとされているが、実はしんでいる”(黙示3:1)、と私達に対してもいえるのです。 特にこの世の終わりの日の、このような邪悪な世の中では、それは私達の教会にも起こりうるのです! もし私達の成す全ての事に、聖霊の実在を懇願しなければ、私達はすぐにもサルディス(古代のリュディアの都市)の教会のように死んでしまうでしょう!
“友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ”(ルカ11:6)。
私は今日のアメリカのほとんどの教会において、それが真実であるのではないかと心配します。 私達の教会員が、休暇で旅先の教会の集会に参加し、戻って来て、その教会に失望した事を私に語ります。 「彼らの歌には活気が無かった」。 「説教者は、私達を退屈させた」。 「教会の人達は親切ではなかった」。 「晩の集会が無かった」。 「祈祷会へ行ったけれども、真の祈りは聞かれなかった―単なるバイブル・スタディーであった」。 もし私達の教会員がそう感じたのであれば、当然、失われた人達も同じ事を感じているのです! 終わりの日の教会が、それほどまでに弱いのも不思議ではありません!
“友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ”(ルカ11:6)。
しかし私達は誇ってはいけません。 私達は、彼等にさほども優ってはいない事を覚えておいて下さい! 私達は、自分達の弱みを認めなければなりません、そうでなければ、私達は神の力を得る事は出来ません。 私達は断食と祈る事を学びました―なぜなら、断食をする事は、悪魔と悪霊に打ち勝つ強い力のための必須条件の一つだからです!(マルコ9:29)。 私達は断食をし祈りました、そして祝福を得ました。 しかし来週の土曜日の午後5時30分に教会で共に食事をする時まで、その日、私達は断食をしなければなりません。
今晩、私はあなた方に、私達の全ての奉仕活動において、聖霊が下るように祈る事をお願いしています。 神の御霊の実在なくしては、私達は失われた人達に“出してやるものがない”のです。 ですから、聖霊が私達の成す全てにおいて降りて来られるよう、細部にわたって祈らなければなりません。 聖霊は私達の必要とする“パン”なのです、そうでなかったなら、罪びと達は飢えたまま、救われないで、私達の教会を去って行くでしょう。
イエスは神の怒りから罪びとを救うために十字架で死なれました。 イエスは罪びとに新しい生を与えるために、そうして彼らの内に永遠の命さえも与えるために、死からよみがえられたのです! しかし、それらの事は、神の御霊の働きなしには、彼らに真実とならないのです。 ですからこの一週間あなた方が祈る時、罪びとのためのパンのために祈って下さい。 神が、彼らの邪悪な思いを照らし出し、彼らに罪の意識をもたせ、そして主イエス・キリストへの大いなる必要性を感じさせるために、聖霊を送って下さるよう神に祈って下さい。 では、ルカの福音書第11章13節に注目して下さい 。 起立してそれを読んで下さい。
“してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう”(ルカ11:13)。
ここに今週の、特に土曜日のための祈りのリストを記します。
1. あなたの断食を(出来る限り)人に知られ無いようにする。あなたが断食をしている事を人々に言いふらしてはいけない。
2. 聖書を読む時間をもつ。使徒の働きの幾つかの聖句を(初めの方が望ましい)読む。
3. 土曜日の断食の間にイザヤ書第58章6節を暗記する。
4. 神が私達に十人もしくはそれ以上の、私達と一緒に教会に留まる新しい人達を与えて下さるよう神に祈る。
5. 私達の教会の救われていない若者達の回心を祈る。神がイザヤ書第58章6節で告げられた事を、彼らにして下さるよう神に祈る。
6. 今日(日曜日)初めて来られた人達が、来週の日曜日に再び引き戻されるよう祈る。可能ならば名を挙げて祈る。
7. 来週の日曜日の朝と晩に、私が何を説教すべきかを神が教示されることを祈る。
8. 十分水を飲む。毎時間コップ一杯ほど。もしコーヒーを飲む事を習慣としているならば、最初に大きなカップ一杯のコーヒーを飲んでも良い。ソーダ類、パワードリンク等は飲んではいけない。
9. もし健康状態に疑問があるならば、断食を始める前に医師に相談する(私達の教会では、医師・クレイトン・チャン先生もしくは医師・ジュディス・ケイガン先生に相談する)。もし、糖尿病や高血圧等の異常のある人は断食をしない。土曜日は、これらの祈りのリクエストをただ祈る。
10. 金曜日の夕食の後に断食を始める。金曜日の夕食後から、土曜日の午後5時30分に教会で食をするまで何も食べてはいけない。
11. 祈りの最も重要な事は、私達の教会の若者達が回心する事、そしてまた、最近入って来た新しい若者達が教会にこのまま留まる事を念頭に置く。
もしあなたがこの説教で祝福されたのでしたら、ハイマーズ博士に電子メールを送って下さい。 また、あなたの国の名前も記してください。 ハイマーズ博士の電子メールの住所は―rlhymersjr@sbcglobal.net (ここをクリック)。 どんな言語でもかまいませんが、もし出来るのであれば、英語で書いてください。
(説教終了)
ハイマーズ博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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You may email Dr. Hymers at rlhymersjr@sbcglobal.net, (Click Here) –
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これらの説教文書はコピー権で守られていませんので、ハイマーズ博士の許可無く使用
できますが、ハイマーズ博士の全てのビデオメッセージはコピー権で守られており、許
可無く複製・使用はできません。
アベル・プルードホーム氏による説教前の聖書の朗読:ルカ11:5-13。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“I Am Praying For You” (by S. O’Malley Clough, 1837-1910).