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真のリバイバルの主要な特徴(リバイバルについての説教 その9) R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて THE MAIN FEATURES OF TRUE REVIVAL (SERMON NUMBER 9 ON REVIVAL) by Dr. R. L. Hymers, Jr. A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles |
ペテロは聖霊降臨祭の日に立ち上がり、ヨエル書から引用しました、
“『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する”(使徒2:17, 18)。
神は、ご自身の御霊“から(of)”リバイバルの際に霊を注がれます。 神は、“その日、・・・わたしの霊を注ぐ”と言われました。 奇妙な事に、ほとんどの現代翻訳は、“of (から)”の言葉を省いています。 その言葉はギリシャ語の原本に確かに記されているのです。 それはギリシャ語で(apó) です。 古くからのジュネーブ・バイブルには、その言葉が“of my Spirit”と記されています。 キング・ジェイムズ版(KJV)も“of my Spirit”と訳しています。 しかし、現在翻訳では、(NASV)訳 と(NKJV)訳だけにその言葉が記されています。 ですから私は、キング・ジェイムズ・バイブル・スコーフィールド版を買うようあなた方に薦めているのです。 あなた方はそれを信頼することができます! 昔の翻訳者達は言葉を省く事、もしくは、いわゆる“ダイナミックな同意語”を使う事はありませんでした。 “その日、・・・わたしの霊を注ぐ”。 リベラル主義者は、“それは七十人訳聖書である”と言っています。 ばかげた事です! それは、神の御霊がギリシャ語の新約聖書のページに記した言葉です―御霊は偽りません! 神の御霊が、七十人訳聖書を引用する時、新約聖書のギリシャ語は、 霊感によって“吹き付けられた”と意味します。 なぜそれはそんなに重要なのでしょうか? 私はその理由を説明しましょう。 神は、ご自分の御霊の全てを注がれません。 神は、私達が必要とするほどを送られるのです! 1882年にさかのぼり、ジョージ・スミートンは、“人々に[与えられた]手段、そして泉からの資源による[限りない]充満感を区別する(apó)の言葉で失われてはならない微妙な意味合いがある”と言いました(George Smeaton, The Doctrine of the Holy Spirit, 1882; reprinted by the Banner of Truth, 1974; p. 28)と言いました。 使徒たちによる教会は、繰り返される聖霊のほとばしりを受けました。 なぜなら常に豊富にあるからです! ギリシャ語の“apó”(of)に関して、A・T・ロバートソン博士(Dr. A. T. Robertson)は、“聖霊全体が神と留まる”と言いました(Word Pictures in the New Testament, volume 3, Broadman Press, 1930, p. 26; note on Acts 2:17)。
私は三つのリバイバルを体験する事で、常に無い祝福を受けました。 私は、“リバイバルの目撃者達は、以前に体験しなかったような事について常に語る”(Iain H. Murray, Pentecost Today? The Biblical Basis for Understanding Revival, The Banner of Truth Trust, 1998, p. 22)と語った、イアン・H・ムライに完全に同意します。 北アイルランドのアルスター地方での1859年のリバイバルのある一人の目撃者は、“人々は、あたかも主が彼らに息を吹きかけられたように感じた。 彼らは、最初に、恐怖と畏敬で心を動かされ―彼らは涙を流し―そうして言葉に表す事の出来ない愛で満たされた”(William Gibson, The Year of Grace, a History of the Ulster Revival of 1859, Elliott, 1860, p. 432)と言いました。 1860年2月29日に、D・C・ジョーンズ牧師(Rev. D. C. Jones)は、“我々に、通常には無い、心を動かす大規模な御霊の訪れがあった。 それは、教会がさほど期待していなかった時に、‘いきなり来る大風の様に’やって来た・・・”(ムライ、同著, p. 25)と言いました。 私が目撃した最初と三番目のリバイバルは、そのように来ました。 聖霊が突如として、非常に思いがけなくやって来ました。 私は生涯その事は決して忘れないでしょう!
さて、真のリバイバルでは、中心的では無い、また重要では無い幾つかの出来事が起こるかもしれません。 全てのリバイバルの主要な特徴では無く、或るリバイバルにおいて起こる出来事があります。 私はそれらの幾つかを挙げましょう。 それらの点はマーティン・ロイド‐ジョーンズ博士の著作、『Revival』(Crossway Books, 1987)、そして私自身が目撃したリバイバルからの体験と観察から幾つかの箇所を引き抜きました。
1. 他国の言葉。聖霊降臨祭での最初のリバイバルで、彼らは、“御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした”(使徒2:4)と私達には告げられています。私達のペンテコスト主義派の友人達の何人かは、それが中心的な特徴であり、全てのリバイバルはそれを含まなくてはならないと教えています。しかし、その主張を拒絶する主な二つの理由があります:(1) 使徒の働き第2章の“他国のことば”は熱狂的な言葉ではなく、それらは実際の他国の言葉である。それは使徒の働き第2章6から11節で非常に明白である。“それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて”(使徒2:6)。“私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう”(使徒2:8)。そうして、“私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは”(使徒2:11)と言って、言語の長い一覧が挙げられた。従って、現代のペンテコスト主義者やカリスマ主義者達が為すような、熱狂的な言葉を彼らが語ったのではない事が明白です。 彼らがこの行いに関して他の聖句を挙げている事を私は知っていますが、ここではそれについて触れません。私は単に、聖霊降臨祭にいた人達は、“御霊が話させてくださるとおりに”(2:4)、他国の言葉で話したと言っているのです。それが奇跡であったことに、疑う余地はありません。しかし、それはリバイバルの中心的なことではありません。なぜなら、使徒の働きの中に出てくる他のリバイバルでは、それは起こりませんでした。(2) 熱狂的な言葉は、二十世紀の初めに起こった偽(にせ)のリバイバル以前のプロテスタント主義のリバイバル、またフィニーの教えにでさえも現れてはいません。ここで注意を払う事を止めないように。私が言う事に最後まで注意を払うならば、あなた方はそれに同意するでしょう。偽のリバイバルは、ペンテコスト主義とカリスマ主義運動による現代の誤った一部の“リバイバル”だけで無く、“決断主義”の全ての形態をも含みます。現代の偽のリバイバルは、様々な形態による“決断主義”に根源があるのです。私は或るペンテコスト主義者やカリスマ主義者達が救われている事も十分理解します。 しかし、他国の言葉を語る事は、ペンテコスト主義の学者たち自身が認めているように、二十世紀以前のプロテスタント主義派のリバイバルの歴史の箇所には決して存在しませんでした。
2. “炎のような分かれた舌”(2:3)。それは一度限りの出来事であり、使徒の働きの書、またキリスト教史の中の、どこにも記録されていなません。
3. 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行き(使徒8:7)、そして多くの癒しがあった(8:7)。聖霊降臨祭でのリバイバルは、それらの特徴は現れなかった!従って、それはリバイバルの中心的な特徴ではありません。使徒の働きの書で、その他多くのリバイバルではそれは記録されていない。私は、(いわゆる)“ラーフィング・リバイバル”では、それらが中心とされている事を知っています。しかし、彼らは誤っています。キリスト教史の中には、これらの出来事が起こっていない何百ものリバイバルが記録されている―そして、使徒の働きの書での多くのリバイバルにおいても同様である。
4. 使徒の働きの書第4章1‐4節で記されている偉大なリバイバルで、使徒たちは説教した後に留置された。しかし、監禁された事は、使徒の働きの書の中での全てのリバイバルでは起こりませんでした。時折そのような事がクリスチャンの歴史の中で起こったけれども、常時では無かった。 従って、説教による監禁はリバイバルの中心的な特徴では無い事を私達は判断します。
5. 使徒の働きの書第4章31節での、集まっていた場所が振るい動いた事。1940年代末に、ダンカン・キャンベルが説教した際、ルイス島のリバイバルの始まりでそれが起きた。しかし、それは使徒の働きの書の中のどこにも起こっていません。そしてリバイバルの歴史中でも、それがしばしばは記録されていない。従って私達は集会所の振るいは、リバイバルの中心的な特徴ではないと判断します。
6. エペソで書物を焼き捨てた事(使徒19:19, 20)。エペソでのリバイバルの間に、人々は魔術に関する書物を持ってきて焼き捨てました。こうして“主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った”(19:20)。私はバージニア州のファンダメンタル・バプテスト教会のリバイバルで、そのような出来事を体験しました。しかし、チャイニーズ・バプテスト教会で私が体験したリバイバルでは、人々が本などを焼き捨てるような事はありませんでした。それは使徒の働きの書の他のリバイバルでは起こりませんでした。従って私は、これも重要な出来事では無く、リバイバルの中心的な特徴ではないと判断します。
7. 公での罪の告白。或るリバイバルでは、人々は罪を公に告白します。それは時折ありました―ウェールズ地方での1904年のリバイバル、1960年代に起こったケンタッキーのアズベリー大学、ファースト・チャイニーズ教会、そしてその他の教会など。しかし、聖霊降臨祭の日、もしくは第一大覚醒時には、人々はそうしませんでした。従って私達は、会衆の前で公に罪を告白する事は、重要な事では無く、リバイバルの中心的な特徴ではないと判断します。
8. 叫び声を上げる事、そして床に倒れる事。ジョナサン・エドワードの教会に於ける、ノースハンプトンのリバイバルの間、また、第二大覚醒に於けるアシエル・ネーテルトン博士によって導かれた幾つかの集会でそのような事が起こりました。しかし、スコットランド、カンバスラングでの偉大なリバイバルの際、ジョージ・ホウィットフィールドが説教した幾つかの集会でそれは起こったけれども、彼の奉仕の下では、通常そういう事は起こらなかった。ロンドンでのC・H・スポルジョンの下での第三大覚醒では、それは特徴づけられるものでは無かった。 私が聖書から学ぶ限り、それらは聖霊降臨祭の日には起こっていません。ですから、叫ぶ事や床に倒れる事は、リバイバルでの中心的な特徴ではありません。それは起こりうることですが、リバイバルで必ずしも起こるべき事ではありません。伝道者によって額に触れられて、人々が“聖霊によって倒される”事は、私が目撃したリバイバル、また歴史の中のほとんどのリバイバルで起こってはいません(chapter six of Iain H. Murray’s book, Pentecost Today? The Biblical Basis for Understanding Revival, Banner of Truth, 1998, pp. 134-169参考)。
私はこれらの事が全く起こらないと言っているのではありません。 しかし、それらは確かに中心的な事では無く、何世紀にも渡って起こった全てのリバイバルでは真実ではありません。 私達がそれらの出来事を求めるならば、通常、過激主義もしくは悪魔自身によって、私達が惑わされていた事に気が付くでしょう! マーティン・ロイド‐ジョーンズ博士は、“重要でない事を、主要な事と中心的な事に持ち上げてはならない”(Revival, Crossway Books, 1987, p. 60)と言いました。 私が出席した最も卑劣な集会は、笑う事がリバイバルの中心的な特徴として考えた、フロリダ州の“ラーフィング・リバイバル”と呼ばれた集会でした! アーサー・B・ハウク先生と私は、カリフォルニア州のパサデナ市で、ある晩、人々がライオンの様にうなり、猿の様に悲鳴を上げ、“リバイバル”をひどく曲解させた出来事を間の当たりにしました! なぜそれが彼らに役に立つと考えられたかが、私には理解出来ません! それは単に、最低次元の集団ヒステリーの様にしか思えないものでした。 それらの中の、どこにキリストがいるのですか?
9. リバイバルを“起こす”事は出来ない。それは“決断主義”から来ているのです。更に、断食と祈りさえもリバイバルは約束出来ません。リバイバルは、クリスチャン達の行いによるものであるという教えは、チャールズ・G・フィニー(Charles G. Finney, 1792-1875)から出たものです。それは非常に害を与えている、なぜなら、それは人々に、リバイバルは神からでは無く、彼らによるものであると思わせるからです。神ご自身のみが、リバイバルを送られる時を定めます。私達は、リバイバルの為に祈る事が出来ます、また祈るべきです。しかし、神ご自身のみが、リバイバルを送る時を定められるのです。私達の為す事は何もリバイバルを約束しません。それは完全に神の御手の中にあるのです。“力は、神のものであることを”詩編62:11(Iain H. Murray, Pentecost Today?, The Banner of Truth Trust, 1998, pp. 8-16、参照)。
では、真のリバイバルでは、何が起こるのでしょうか? 何が真のリバイバルの主要な特徴なのでしょうか? ロイド‐ジョーンズ博士は、真のリバイバルに伴う、幾つかの事柄を挙げました。 彼は、自身が書いた偉大な本『Revival』の中の聖霊降臨祭の日についての研究で、これらの事項を主要な特徴の基いとしています(同著, pp. 204-211)。
1. 神が彼らの間に降りて来られる。全ての人が神の存在、神の光栄、そして神の力を感じる。それが、教会が体験した全てのリバイバルにおいて、多少なりとも、そしてある程度において起こる事である。(神がそこにおられる事を、告げられる必要は無いのです。神がそこにおられるのを知る!それがかつて体験したリバイバルでの私自身の体験でした。その集会には、畏怖と驚嘆の念がありました。人々は、聖なる神の存在そのものを感じ、畏敬の念に打たれました)。
2. 教会はその結果として、真実に関して大いなる保証が与えられる。人々は、絶対的な、そして確かな聖書の真実を保証される。それが、リバイバルが起る時の共通した体験である。
3. 教会は大いなる喜びと称賛の意で満たされる。人々は突如として、主が彼らの間に降りて来られたことを悟る。“彼らの表情自体にそれが現れ出る。彼らは変えられたのである。彼らの顔に現われる美しさがある、それは喜びと全人格を刺激する御霊を賛美する表現である、 そして賛美する事は、‘ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜び’である”(Lloyd-Jones, 同著, p. 206)。
4. リバイバルが起こる時、人々に礼拝へ来るよう、賛美するよう、そして御言葉を聞くよう勧める必要は無い。彼らはそれを求めて来る。彼らは毎晩の様にやって来る。そして何時間も、そして朝方までも。それは毎晩続くであろう。
5. 新たな力と大胆さが説教に与えられる。力強い福音の説教が全ての真のリバイバルの特徴である。新たな力が説教の中で体験される。人々は、彼らの命がそれに懸っているかのように聞き入る。リバイバルが起こる時、説教自体が群集を引き寄せるであろう。
6. リバイバルが起こると、人々は罪を自覚する。失われた人々は、罪を非常に自覚し苦悩に陥る。私は、これが恐らく、神が教会にリバイバルを送られる一番の証明であると思う。冷淡で無関心な人々が、彼らの罪によって“恐れ、おびえ”させられる(Lloyd-Jones, 同著, p. 209)。これが、聖霊が来て、彼らを“罪について、義について、さばきについて”(ヨハネ16:8)認めさせる証明である。聖霊降臨祭で、人々は罪を悟らされ、彼らは“兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか”(使徒2:37)と叫んだ。この様な事がすべての真のリバイバルで起こるのである。罪の自覚の無いところに、偽(にせ)のリバイバルがあるのである。全ての真のリバイバルに於いて、真実である深い罪の自覚が無くてはならない(Lloyd-Jones, 同著, p. 209)。
7. 人々は、キリストを信頼し、罪のゆるしを見出すであろう。彼らは、突如としてイエスが唯一の望み、そして救いである事を悟る。彼らは単に、“決断をする”のでは無い。そうでは無く、むしろ彼らはキリストに逃避し、新たな力を“受け”、そして今までの生活を去る。彼らはイエスによって救われたからである。彼らはキリストの愛とキリストの御血について多くを語る。キリストの血による贖いが、真のリバイバルの中心である。
8. 回心者達は教会へ加わる。彼らを“仲間に加えてくださった”(使徒2:47)のである。リバイバルを“追及する”必要はもはや無い。回心者達は反射的に教会へ加わる―そして、彼らを教会の集会から切り離すことはできない!私は、最初に、そして他で目撃したリバイバルで、それが起こるのを目にしました。あなた方は回心者達を追い求める必要は無い。彼らは、神の力によって教会の親睦へと引き寄せられる。ジョーンズ博士は、“聖霊が力を伴い来られる時に、あなた方と私の奮闘の結果として五十年もしくは百年間に起こる以上に、更に多くの事が一時間の間に起こるであろう。神が我々を哀れんで下さるよう、情けをかけて下さるよう、そして我々に神聖なる聖霊を再び注いで下さるように祈りなさい”(Lloyd-Jones, 同著, pp. 210, 211)。
親愛なる方達、私達の教会は現在リバイバルの状態ではありません。 しかし、聖霊は今朝にも何人かの人達をイエスへと引き寄せられています。 あなた方がイエスを信頼するよう、私は祈ります。 イエスは、あなた方の全ての罪を清める為に、ご自分の永遠なる御血を流されました。 イエスは、あなた方に永遠の命を与える為に、死からよみがえられました。 リバイバルが起こる前でも、私はあなた方に、イエスを信頼するよう懇願します。 チャン先生、私達を祈りに導いて下さい。 アーメン。
(説教終了)
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アベル・プルードホーム氏による説教前の聖書の朗読:使徒の働き第8章5-8節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“O Breath of Life” (by Bessie P. Head, 1850-1936).
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