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これがリバイバルで起こる事!(リバイバルについての説教 その8) R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて THIS IS WHAT HAPPENS IN REVIVAL! by Dr. R. L. Hymers, Jr. A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles |
使徒の働き第8章5節を開いて下さい。
“ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた”(使徒8:5)。
では、8節を見て下さい。
“それでその町に大きな喜びが起こった”(使徒8:8)。
着席してしてください。
私はサマリヤの町で起こった詳細な出来事の内容は省きました。 しかしあなた方は、それが聖霊降臨祭の日にエルサレムで起きた事によく似た状況であったと理解できるでしょう。 ピリポは人々にキリストを宣べ伝えました。 人々は熱心に彼の説教に聞き入り、多くの人々が回心しました。 “それでその町に大きな喜びが起こった”(使徒8:8)のです。
これが正に、聖霊降臨祭で起こったのと同じ事でした! ペテロは、“声を上げて”キリストについて宣べ伝えました。 彼らは喜んで“彼のことばを受け入れ”、そして回心しました。 彼らは喜んで毎日心を一つにして集まりました。 使徒達が、“イエスのことを例にあげての復活を”(使徒4:2, 4)説教した時に、群集が救われたように、同じ出来事が起こったのです。 使徒の働きを読む事で、私達は聖霊降臨祭で起こった出来事が何度も何度も起った事を知る事が出来ます。 ですから私達は、聖霊降臨祭で体験したことは“一度”の体験では無かったという結論を下す事が出来ます。 また、私はある人達が教えているような、それが“教会の誕生”であったとは信じません。 弟子達と他の兄弟達は、聖霊降臨祭の以前にすでに救われていました。 使徒の働き第1章15節で、聖霊降臨祭の以前に屋上の間で祈っていた120人の人達は、“弟子”や“兄弟”と呼ばれました。 それらの人々は、教会として、聖霊降臨祭の十日前に集まりました。 ですからその教会は、聖霊降臨祭がやって来た時にはすでにあったのです! 更に聖霊降臨祭は、確かに今日の人達が教えているような、繰り返される事の無い“一度の体験”では無かったのです。 聖霊降臨祭の本質的な特徴は、使徒の働き書の中で―そしてクリスチャンの歴史を通しても、幾度も繰返されました。
では、聖霊降臨祭とは何だったのでしょうか? マーティン・ロイド‐ジョーンズ博士はこのように言っています、
教会がこれまで体験してきた全ての宗教上のリバイバルは、ある意味では、聖霊降臨祭で起こった事の繰り返しのようなものである事は明白の理である。・・・そして宗教上のリバイブルは全て、真に、聖霊降臨祭の日に起こった事の繰り返しであると私は断言する・・・聖霊降臨祭の日に起こった事は、一度だけのものであると[いう事は、止めなければ]ならない。そうではなかった;それは単に一連の初まりであった(Martyn Lloyd-Jones, M.D., Revival, Crossway Books, 1987, pp. 199, 200)。
私は、.聖霊が罪を悟らす為に下される時(ヨハネ16:8)、そして二番目に、罪人にキリストを生きた現実性とさせ、聖霊が罪人をキリストに引き寄せる時に(ヨハネ16:14, 15)、リバイバルは来ると以前の二つの説教で述べました。 昨年を通してそのような事が、私達の教会でほぼ一か月に一度起こりました。 それは一か月にほぼ一人が回心したと云う事です。 しかし、リバイバルがやって来る時、更に多くの人達が、短期間の内に回心するでしょう。 イアン・H・ムライは、“聖霊降臨祭以降、聖霊の働きは二つの[方法]、より通常な方法、そして通常では無い方法、で見なすことが出来る” (Iain H. Murray, Pentecost Today? The Biblical Basis for Understanding Revival, The Banner of Truth Trust, 1998, p. 18)と言いました。 私達は、四週間無いし五週間にほぼ一人の回心によって、“通常”な聖霊の働きを体験しています。 しかし、神が私達の間にリバイバルを送られる時、短期間の内10人無いし12人(もしくはより多く)の、“通常では無い”数の回心が見られるでしょう。
私達の教会の何人かの人達は、リバイバルについて、もっと懸命に働き、罪人達にもっと懇願し、そして骨を折って、もっともっと伝道に力を入れなければならない時、と考えているのではないかと思います。 それは実際、フィニーから浸透してきた考えです。 それは、神がリバイバルを送られる時、実際に起こる事とは正に逆なのです。
聖霊降臨祭での最初のリバイバルを考えて見て下さい、そうすればあなた方は、すぐにもそれが誤った発想である事を理解するでしょう。 私は、それは悪魔からの発想であるとも言えると思います。 悪魔は彼らにそのように思わせないでしょうか? 悪魔は、“あなたが救われたなら、今よりももっと困難になるであろう。 もっと働かなくてはならない、そして、休息や楽しみも無くなるであろう”と囁きます。 しかし悪魔は偽りものです。 全くその逆が真実なのです! あなた方が回心するならば、今よりももっと容易になるでしょう! 悪魔は偽りものです。 しかしイエスは決して偽る事はしません! イエスは常に真実を告げられます! イエスは、“わたしがあなたがたを休ませてあげます”(マタイ11:28)と言われました。 またイエスは、“そうすればたましいに安らぎが来ます”(マタイ11:28)とも言われました。 それを調べて見ましょう。 マタイの福音書第11章28-30節を開いて下さい。 起立し声を上げてそれを読んで下さい。 スコーフィールド・スタディー・バイブルの1011ページです。
“すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです” (マタイ11:28-30)。
着席して下さい。 ボールペンで28節の最後の語句“わたしがあなたがたを休ませてあげます”に線を引いて下さい。 そして29節の、“そうすればたましいに安らぎが来ます”にも線を引いて下さい。 そうして30節の“わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです”にも線を引いて下さい。
私はしばしば、回心したばかりの人が、“こんなに簡単な事なんですか! クリスチャンになったらもっと大変になるかと思いました。 でもイエス様を信頼して、安息を感じます”などと口にするのを聞きます。 これらの思いは、私達の全ての讃美歌を通して表現されています! ある人達はそれらの讃美歌を歌いますが、未だそれらの体験をしていません!
のりのようきゅうに
たええぬわれは
こころあつくし
なきしずむとも
いかでかつみを
あがないうべき
(『かくせやわれを』“Rock of Ages, Cleft For Me”
by Augustus M. Toplady, 1740-1778).
この世に見つけることはなく
悩める魂のための平安
キリストに来て、信じよ
平安と喜びを受けるであろう
なぜ今でないのか? なぜ待つのか?
なぜ今イエスに来ないのか?
なぜ今でないのか? なぜ待つのか?
なぜ今イエスに来ないのか?
(“Why Not Now?” by Daniel W. Whittle, 1840-1901). (直訳)
イエスは疲れし苦悩の中にいる者を呼ばれる
今日呼ばれる 今日呼ばれる
汝の疲れし悩める思いを彼に
彼は汝を拒まず
(“Jesus is Calling” by Fanny J. Crosby, 1820-1915). (直訳)
つみおもいださする
なみだの夜よゆけ
えみとかんしゃのあさを
われはまてり
(『つみおもいださする』“Jesus, I Come”
by William T. Sleeper, 1819-1904).
悩み労する魂よ
闇の中に光を見ることなし
救い主に光あり
より豊かに、そして苦悩から放たれる生
あなたの目をイエスに
素晴らしき彼の御顔を仰げ
この世のことは奇妙に消えん
彼の栄光と恵みの光の中に
(“Turn Your Eyes Upon Jesus” by Helen H. Lemmel, 1863-1961). (直訳)
私は、それらの素晴らしい讃美歌を歌い続ける事が出来ます!
イエスがわが罪を洗い清められた、幸せな日
祈りと生き方、日々喜びを持って生活をする事を教えられた
幸せな日、イエスがわが罪を洗い清められたその日
(“O Happy Day” by Philip Doddridge, 1702-1751). (直訳)
悪魔はあなた方に、クリスチャンになるのは難しく、耐えられないことであろうと囁くでしょう。 しかしそれらの讃美歌は、幸いな日となるであろうと告げています! そしてイエスは、“わたしがあなたがたを休ませてあげます。・・・わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです”(マタイ11:28, 30)と言われました。
リバイバルの時にはそのような事が起こるのです! “それでその町に大きな喜びが起こった”(使徒8:8)。 そのことが聖霊降臨祭で起こりました。 それがサマリヤで起こりました。 それが全ての真のリバイバルで起こるのです。 “それでその町に大きな喜びが起こった”。 ロイド‐ジョーンズ博士は、“・・・リバイバルは全て、真に、聖霊降臨祭の日に起こった事の繰り返しであると私は断言する”(Revival, ibid., pp. 199, 200)と言いました。 ですから私達は、聖霊降臨祭で起こった事を思い出す必要があるのです。 もし私達が聖霊降臨祭について考えるなら、私達は何の為に祈るか、そしてリバイバルで何を求めるかを理解するでしょう。
ペテロは、聖霊降臨祭の日に立ち上がり、ヨエル書の聖句を引用しました、
“わたしの霊をすべての人に注ぐ・・・その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する”(使徒2:17, 18)。
神は、リバイバルで御自身の霊を 注がれる。 神は、“その日、・・・わたしの霊を注ぐ”と言われました。 奇妙な事に、ほとんどの近代の翻訳者たちは、“of (からの)”の言葉を省いています。 しかし、その言葉は確かにギリシャ語の原本には載せられている言葉です。 それはギリシャ語で(apó)です。 古くからのジュネーブ・バイブルには、その言葉“of my Spirit”が載せられています。 キング・ジェイムズ版にも“of my Spirit”と載せられています。 しかしNASV だけがそれを載せているので、近代の翻訳者たちによるものを私は信頼しません。 ですから私はキング・ジェイムズ・バイブル、スコーフィールド版を買うようにあなた方に薦めているのです。 あなた方はそれを信頼することができます! それらの昔の翻訳者たちは言葉を省く事、もしくはいわいわゆる“ダイナミックな同意語”などを使う事はありませんでした。 “その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ”。 リベラル主義者は、“それは七十人訳聖書である”と言います。 私は“でたらめだ!”と言います。 ばかげています! それは、神の御霊がギリシャ語の新約聖書のページに書きつけた事です―そして御霊は偽りをつきません。 神の御霊が、七十人訳聖書を引用される時、そのギリシャ語自体が、霊感によって新約聖書に“吹きかけられた”のです。 “私の霊から注ぐ”。 なぜそれは重要なのでしょうか? その理由はこうです。 神は、御自分の御霊の全ては注がれません。 神は、私達が必要とするほどの御霊を送られるのです! 1882年にさかのぼり、ジョージ・スミートン(George Smeaton)は、“人々に[与えられた]手段、そして泉からの資源による[限りない]充満感を区別する(apó)の言葉で失われてはならない微妙な意味合いがある”と言いました(George Smeaton, The Doctrine of the Holy Spirit, 1882; reprinted by the Banner of Truth, 1974; p. 28 )。 使徒たちによる教会は、繰り返される聖霊のほとばしりを受けました。 なぜなら常に豊富にあるからです! 私は三つのリバイバルを体験する事で、常に無い祝福を受けました。 私は、“リバイバルの目撃者達は、以前に体験しなかったような事について常に語る”(同著, p. 22)と言った、イアン・H・ムライに完全に同意します。 北アイルランドのアルスター地方での1859年のリバイバルのある一人の目撃者は、“人々は、あたかも主が彼らに息を吹きかけられたように感じた。 彼らは、最初に、恐怖と畏敬で心を動かされ―そうして彼らは涙を流し―そうして言葉に表す事の出来ない愛で満たされた”(William Gibson, The Year of Grace, a History of the Ulster Revival of 1859, Elliott, 1860, p. 432)と言いました。 1860年2月29日に、D・C・ジョーンズ牧師(Rev. D. C. Jones)は、“我々に、通常には無い、心を動かす大規模な御霊の訪れがあった。 それは、教会がさほど期待していなかった時に、‘いきなり来る大風の様に’やって来た・・・”(ムライ、同著, p. 25)と言いました。 私が目撃した最初と三番目のリバイバルは、そのように来ました。 聖霊が突如として、非常に思いがけなくやって来ました。 私は生涯その事は決して忘れないでしょう! ロイド‐ジョーンズ博士によって引用された、幾つかのリバイバルで起こる事柄を示します、
もはや彼らは、神の存在を信じることはない。神が彼らに真実となったからである。神が降りて来られた、言わば、彼らの間へと来られたと・・・全ての人々は、神の存在と神の栄光を知る(Revival, p. 204)。
教会はその結果として、真実に関しての大いなる確信を与えられる(同著)。
教会は、大いなる喜びと称賛の意で満たされる・・・教会がリバイバルの状態にいる時、人々に称賛を勧め必要は無い。あなた方は彼らを止める事が出来ない。彼らは神に満たされる。彼らの表情自体にそれが現れ出る。 彼らは変えられたのである・・・“ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた”喜びを捧げる(同著、p. 206)。
人々に礼拝へ来るよう、賛美するよう、そして御言葉を聞くよう勧める必要は無い。彼らはそれを求めて来る。彼らは毎晩の様にやって来る。そして何時間も、そして朝方までも。それは毎晩続くであろう(同著、p. 207)。
[リバイバルでは]、同じ説教が[宣べられる]。しかしそれらは同じではない。そこには御霊と御力の実証がある(同著、p. 208)。
あなた方の教会に多くの人達がやって来る事を望むならば、リバイバルの為に祈りなさい!なぜなら、リバイバルが起こるとすぐにも、群集がやって来るからである(同著)。
説教者が説教を終わる前に、彼らは“我々はどうすべきか?”と泣き叫んで言う・・・彼らは、この根底からの罪の回心に苦しむ魂の苦悩の状態にいるのである(同著、p. 209)。
あなた方の間にリバイバルが起こる時、それは単に決心をするかどうかの問題では無い。それは切実な悔い改め、それは改革である。人々は新たな命を受け、彼らは古い生活を去るのである・・・実話を読みなさい;それらは事実である。それは私の発想では無い、それは理論では無く、実際に起きた出来事である(同著、 p. 209)。
そして回心者達は教会へと加わる・・・そのようにして神は、教会を建てられたのである。そのようにして神は、教会を活気づけられて来られたのである・・・これが今の時代における極度な必要性ではなかろうか?では、もしあなた方がそれを信じるならば神に絶え間なく祈りなさい・・・私は、あなた方の全てのを努力を止め、ただ待期せよと語っているのでは無い。そうでは無い、あなた方の為すべき努力を熱心に続けなさい。しかし私はこう言います―あなた方がリバイバルの為に祈る時間を作る事を、そして何事以上にその時間に費やすかどうかをよく確かめなさい。なぜなら、聖霊が力を伴い来られる時に、あなた方と私の奮闘の結果として五十年もしくは百年間に起こる以上に、更に多くの事が一時間の間に起こるであろう。 聖霊の力―それが聖霊降臨祭の日の意味である・・・我々を哀れんで下さるよう、情けをかけて下さるよう、そして我々に神聖なる聖霊を再び注いで下さるように祈りなさい(同著、pp. 210, 211)。
起立してソングシートの七番の讃美歌、第一大覚醒時に、あの偉大な尊敬すべき詩人、チャールズ・ウェスリーによる、『あいするイエスよ』を開いて下さい。
あいするイエスよ かくまいたまえ
あらしのなかの かよわきわれを
なみかぜやみて あまつみなとに
ついにやすらに おちつくまでは
ほかにかくれが もたぬわがみは
ただなれひとり たのみとぞなす
よるべのなきみ おきざりにせず
おおいたまえや ながつばさもて
イエスはもとむる わがすべてなり
すべてのものは みななれにあり
われはけがれて よこしまなれど
なれはめぐみと まことにてみつ
わがつみとがは いとおおけれど
ゆたけきあいは おおいつくせり
いずみなる主よ われにわきいで
ひたしたまえや とわのいのちに
(『あいするイエスよ』“Jesus, Lover of My Soul”
by Charles Wesley, 1707-1788).
あなた方がイエスに来ることをお祈りします。 チャールズ・ウェスリーが、イエスはあなたの魂を愛されると歌ったように! イエスはあなた方の罪の償いをする為に十字架で死なれました。 イエスはあなた方の全ての罪を清める為に、御自分の尊き御血を流されました! イエスはあなた方に永遠の命を与える為に、死から身体ごとよみがえられました! イエスに来なさい。 イエスを信頼しなさい。
ただ主を ただ主を
たよれかし
いま主は いま主は
すくいたもう
(『つかれしよびとよ』“Only Trust Him” by John H. Stockton, 1813-1877).
チャン先生、私達を祈りに導いて下さい。
(説教終了)
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アベル・プルードホーム氏による説教前の聖書の朗読:使徒の働き第2章40-47節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Thy Holy Spirit, Lord, Alone” (by Fanny J. Crosby, 1820-1915).
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