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キリストの血-汚れたもの、あるいは、尊いもの? R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて THE BLOOD – COMMON OR PRECIOUS? by Dr. R. L. Hymers, Jr. A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles |
今朝私はあなた方に、キリストの血を書き表している、新約聖書からの二つの語句を見てほしいと思います。 最初に、へブル人への手紙第10章29節を開いてください。 キリストの血はその節の中ほどに記されています、
“汚れたもの”(ヘブル10:29)。
では、ペテロの手紙第一の第1章19節を開いてください。 ここでキリストの血はこのように言い表されています、
“キリストの、尊い血”(ペテロ第一1:19)。
この聖書のページをそのまま開いておいてください。
一昨日の晩、私はこれらの語句に関して考えていました。 それらの語句を熟慮している際、この世は二つのグループに分けられるという思が私の心に浮かび上がりました。 すなわち、(1)キリストの血を“汚れたもの”と考える人達、そして(2)キリストの血を“尊い血”というように考える人達です。 これの語句のどちらが、イエスの血に関するあなた方の見解を言い表しているでしょうか?
I. 最初に、あなた方は“汚れたもの”として、イエスの血を考えますか?
プルードホーム氏が先ほど読んだ、ヘブル人への手紙第10章26節から31節の聖句を読むならば、“汚れたもの”の語句の二つ後に続く聖句に現れる、今朝の私達のテキストで理解するように、それは“罪を犯し続け”、神の裁きに値する人達を表している事が判断できるしょう。 へブル人への手紙第10章31節をみてください、
“生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです(ヘブル10:31)。
着席してください。
バーノン・マックギー博士はこの節についてこのように言っています、
・・・神の裁きは、“契約の血を汚れたものとみなし(た)・・・”全ての人達の前に置かれている。友よ、もしあなた方が十字架であなた方の為に成された事を侮るならば、あなた方の前方には裁き以外は何も無い。あなた方には全く望みは無い(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1983, Volume V, p. 578; note on Hebrews 10:31)。
あなた方は、“イエスの血は汚れたものであったとは思いません。 それは単に全ての人の血と同じものだったと思います。 イエスの血に関して、別に何も特殊なものではなかった”と言うかも知れません。 もしあなた方がそう思うのであれば、あなた方は非難されるべきです。 なぜなら、“汚れたもの”と訳されたギリシャ語は、“koinos”であり、それは“平凡な”(Strong, number 2839)と言う意味だからです。 ジョージ・リッカー・ベリー(George Ricker Berry)は、それは“平凡な、すなわち、多くの人に共通した”と言う意味であると言っています。 それが“汚れたもの”の意味なのです。 それは、ジョージ・リッカー・ベリーが言い表しているように、イエスの血は平凡なもので―単に全ての人の血と同然の、“多くの人に共通した”という意味なのです。
ジョン・マッカーサー博士(Dr. John MacArthur)が、“イエスの血は救いにとって価値観は無い”と言う時、彼はキリストの血は、“平凡なもの”(MacArthur Study Bible、ヘブル人への手紙第9章14節の注解)と危うくも呼んでいるように、私には思えます。 ヘブル人への手紙第9章14節での“キリストの血”の言葉に関するマッカーサーの注解で、彼は、“血は死の代用語として使われた”(同書、ヘブル人への手紙第9章14節の注解)と言っています。 彼の神学的概観(同書、p. 2192)で、マッカーサー博士は、聖書は“すべて神の霊感によるもの”であると言っています。 しかし、ヘブル人への手紙第9章14節のギリシャ語の用語は、“haima”、そしてそれは文字通り“血”を表します。 “血”が死の代用語であるという見解は、“すべて神の霊感によるもの”と言う聖句を否定しています。 マッカーサー博士が、“イエスの血は、救いにとって価値観は無い”と言う時、マッカーサー博士は、キリストの血を“汚れたもの”(ヘブル10:29)と、非常に近い言い方で呼んでいるように私には思えます。 そしてヘブル人への手紙第10章29節は、その様な事に対して強く警告しています! その様な教えには何の命もありません。 それは致命的であると私は思います。 マーティン・ロイド・ジョーンズは、このように書いています、
全てのリバイバルにおいて、例外無く、キリストの血が非常に強調されている事をあなた方は見出すであろう。リバイバルが起こる時に、何よりも多く歌われている賛美歌は、血に関しての賛美歌である。私は幾つかの言葉でそれらをあなた方に示す事もできる。それ以上に特徴づけられるものは無い。使徒パウロがコロサイ人への手紙第1章で、“平和をつくり・・・”-彼はどのように平和をつくられたのか、“十字架の血によって”である(20節)と書かれているを我々は見出す。
当然私がその様に言うのは、今日では普通の事では無く、全く人気の無い事である事は十分承知している。血の教義に対して嘲りを投げかける事で、自分達は巧妙であると考るクリスチャンの説教者達がいる。彼らは嘲笑しながらそれを避けている。・・・今日の教会の状態は、それ故なのである。しかしリバイバルの時には、教会は十字架を称え、教会は血を誇るのである。なぜなら、ヘブル人への手紙の著者が書いているように、我々が真の聖所へ大胆に入る事が出来る唯一の道があり、それはイエスの血によってである。ヘブル人への手紙第10章19節を参照せよ(Martyn Lloyd-Jones, M.D., Revival, Crossway Books, 1994 edition, page 48)。
私はあなた方に真実を伝えなければなりません。 もしイエスの血があなた方にとって重要で無いならば、あなた方は失われており、永遠の苦しみの所へと向かっているのです。 あなた方は真の意味でのクリスチャンではありません。
これは私達の教会に出席する、ある二十代の女性の信仰告白の一部です。 彼女はこう語っています、
私は落胆と絶望に拉がれていました。心中では自分が罪人である事を知っていました、しかし罪に対し、自分を哀れむ事にからまりすぎていました。最終的に、聖霊が私の過去の罪を悟らせました。それらの罪は私を苦しませ、それらの思いから逃れる事が出来ませんでした。“何とも、自分はその様な罪を犯してこれたのか?どうして、そんなにも罪の中に陥ってしまったのか?”と私は感じ始めました。聖霊が、その様な罪は邪悪で、よこしまな心、そして私の断固とした、完全に堕落した本性から来たものである事を私に示してくれました。心の陰険さと醜さの光景を知らされた事がどんなものであるか、を完全に口で言い表す事は出来ません。私は、自分に愛想がつき、神がご覧になった事を知って、非常に恥入りました。全てをご覧になられる神、すなわち、私の思いともくろみを知っておられる神、私が成した全て、教会での奉仕さえもが、自己本位なる罪によるものであった事を知っておられた神の御前に自分が下劣な生物のように感じました。教会へ行くたびに、私は清いクリスチャンの間の一人のらい病患者のように感じました。それでもなお且つ、私はキリストを信頼しないのです。“イエス”は単なる言葉、教義、もしくは過去に存在し、遠くに感じる人物でした。私は、キリストに対して無情な反感を抱いていました[キリストを望んでいなかったのです]。キリストを[求め]ようと奮闘するのでは無く、私は救いへのフィーリング、もしくは自分の信仰を[証明する]“体験”を探し求めていました。
この若い女性は、哀れな状態にいました。 彼女は非常にじょうずに自分を装っていました。 ほとんどの人達は彼女の心中に、そのような猛烈な奮闘があった事に気がつきませんでした。 内面、彼女はジョン・バニアンが貫いたような、非常な苦痛を感じていました。
私は五十年以上もの間、高校生や大学生の年代の若者達 へ助言して来ました。 彼らの多くが―彼らの大多数が―この女性のように、不安と恐れ、そして心の混乱を抱いているのを、私は見出しました。 彼らの多くは、彼らの内面的な苦痛を和らげる為に、麻薬やアルコールへと逃避しています。 他の若者達は、彼らの思いを白紙にする為に、際限なくビデオゲームを続けます。 彼らの思いがセックスなどに引き付けられる事で、彼らがどんなにも悲惨な状態であるかを考える事を、彼らから遠ざけます。 私は最近、自殺が大学生の死因の二番目から一番へと上がってきた事の記事を読みました。 彼らは非常に困惑し、不安を感じ、自殺するのです。 ある若者が、“私の思いを逃避させる他の道を思いつかなかった”と自殺の書き置きをしています。 15才から25才までの若者達が、今日における多くの人々の中で、最も困難な年代である事を私は見出しました。 ボーイフレンドやガールフレンドはあなた方から立ち去って行き、あなた方を一人ぼっちに残します。 学校は耐え難く、集中する事も困難になります。 他に行き所が無いように彼らは感じるのです!
神はあなた方の罪を取り除く道を用意されました―しかし、あなた方には理解出来ません。 神は、あなた方の罪を洗い流す為に、ご自分の唯一の御子を、十字架で死にやり、彼の血を流すために送られました。 しかし、あなた方には理解出来ません。 あなた方の何人かは、“二千年前に生きていた人の血がどのようにして、今日の私の罪を清める事ができますか?”と思うかも知れません。 そうして先ほど私が読んだ若い女性のように苦しみ続けるのです。
私達の教会に出席しているある女性は、四つの大学の科目を教えています。 彼女は父親に、彼女が教えているクラスの若い学生達は、何かが狂っているのを感じていると言いました。 彼らは、政治家達が物事を変える事は出来ないのを知っている、と彼女は言いました。 彼らは、この世が狂っている事、そして真の望みは無い事を感じているのです。 しかし彼らはどうするのでしょうか? 彼らはビデオゲームに没頭し、あるいは、彼らの頭脳を麻薬やマリワナなどで麻痺させています。 ある人達は、自らの困難を無視し、際限なく全てを仕事に投げ込み、仕事に病み付きになります。 それら増大する人達が、自殺を犯しているのです。 何という無駄死でしょうか! 彼らを滅ぼしているのは罪である事を、彼らが自覚してくれさえすれば! “御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます”(ヨハネ第一1:7)、を彼らが信じさえすれば! しかし、この邪悪な世に住むほとんどの人達のように、彼らはイエスの血は平凡なものと見なし―考慮に値する価値は無いと考えているのです。 それが次の要点へと導きます。
II. 次に、あなた方はイエスの血は“尊い”と思いますか?
使徒ペテロはその様に見なしています。 彼は言いました、“・・・銀や金のような朽ちる物にはよらず、・・・キリストの、尊い血によったのです”(ペテロ第一1:18, 19)。 彼は、罪人である事がどんなものであるかを自覚しました。 彼は、すべての友人を失う体験をしました。 彼は、良心が咎められ、孤独な体験をしました。 彼は、神への信仰を失う体験をしました。 彼は、一番親しい友人を裏切り、その様な自分に愛想がつき、暗闇で泣いた体験をしました。 彼は罪人である事がどんなものであるかを体験したのです!
ですから、彼は“キリストの尊い血”によって(ペテロ第一1:19)、あなた方が贖われる事を、そして、あなた方が罪による悲嘆から救われる事を知っていました。 “尊い”は、偉大な価値がある事を意味します。 “尊い”は、それは金や銀よりも重要である事を意味するのです! この賛美歌が全てを言い表しています、
ダイヤモンドの原野 黄金の山々
銀の大河、無数の宝石
これらすべてをもってしても
買うことのできないもの
こころの平安 満たされた思い
これらは金銭で買うことのできない宝
もしイエスを知るならば
ダイヤモンドの原野 黄金の山々にまさる 富を持つ
(“Acres of Diamonds” by Arthur Smith, 1959).
そしてグリフィス氏が先ほど歌ったように、
失われし、望みなき、罪びとよ来たれ
イエスの御血はあなた方を罪より解き放す
彼は私のような哀れなものを救い
あなた方をも救われる
私は知っている 私は知っている
イエスの御血は 最も恥ずべき罪びとを清められる
私は知っている 私は知っている
イエスの御血は 最も恥ずべき罪びとを清められる
私は知っている 私は知っている
イエスの御血は 最も恥ずべき罪びとを清められる
私は知っている 私は知っている
イエスの御血は 最も恥ずべき罪びとを清められる
(“Yes, I Know!” by Anna W. Waterman, 1920).
私が先ほど引用した、若い女性がこのように続けて語ったように、
私の罪は、底なしの海のように広がって行きました。私はこれ以上我慢できなくなりました。キリストが無くてはなりませんでした。 私にはキリストの血が無ければなり$ませんでした!私は膝まづき、・・・イエス様ご自身を信頼しました。私のアイドルとしていた感情、精神分析、そして確信への追及から、[私は]解放されました。・・・私はそれらを捨て、救い主にもたれ掛かりました。キリストは、私の罪を彼の尊い血でもって完全に浸され;彼は私の罪の重荷を取り去ってくださいました!・・・私の罪の前科は彼ご自身の血によって“無罪”と証印されました。・・・私は罪の許し、そして神の怒りが譲歩された事によって生じた、満足感と平安を十分に口で言い表す事は出来ません。私は今、全ての、特に私のように苦しんでいる人達が、イエスによる許しを体験する事が出来るように望みます!イエスは私の罪に対する非難を容認してくださいました。イエスは全てを償ってくださいました!以前は不明瞭で、活気の無かった福音、“良い知らせ”は、今では私の心を高ぶらせ、イエスについての説教を聞く時、私の心は喜び、そして感謝の気持ちで満たされます。
これ以上付け加える言葉があるでしょうか? もしあなた方がイエスに来るならば、あなた方はイエスの血を“汚い血”とは思わないでしょう。 そうです! そうしてあなた方は、“キリストの尊い血”(ペテロ第一1:19)について、非常な喜びと熱意をもって話すでしょう。
もしイエスの血によって、あなた方の罪から清められる事に関して相談したいのであれば、今、席を立って、この集会場の後方に出て行ってください。 ケイガン先生が、話しと祈りの出来る別の部屋にあなた方を案内します。 チャン先生、今朝、誰かがイエスを信頼するようお祈りして下さい。 アァメン。
(説教終了)
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アベル・プルードホーム氏による説教前の聖書の朗読:へブル人への手紙第10章26-31節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Yes, I Know!” (by Anna W. Waterman, 1920).
要 綱 キリストの血-汚れたもの、あるいは、尊いもの? R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 “汚れたもの”(へブル人への手紙第10章29節、新改訳) “キリストの、尊い血”(ペテロの第一の手紙第1章19節、新改訳) I. 最初に、あなた方は“汚れたもの”として、イエスの血を考えますか? II. 次に、あなた方はイエスの血は“尊い”と思いますか?。 |