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キリストによって得られる (イザヤ書第53章からの説教、その13) R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて SATISFACTION AND JUSTIFICATION – by Dr. R. L. Hymers, Jr. A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles “彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。 わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう”。(イザヤ書53:11、新改訳) |
このテキストは、多くの意義で満ちており、その全ての言葉は私達の注目に値します。 ですから、私はこのテキストから逸れずに、また、多くの例証も挙げません。 一つの説教の中でこのテキストのすばらしい真実さに専念する事;その主な要点をあなた方に知らせ、この言葉を簡単に、そして分かりやすくして、今晩初めて私達の教会を訪れた方々が、これらの言葉について深く、また、そのわかりやすい意味をよく理解して、この集会から出て行かれますように。
“彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう”(イザヤ書53:11)。
この聖句の真理を受け入れるよう、神があなた方の心を開いてくださいますように。 なぜなら、このテキストについて説教する時、“耳を傾け、わたしのところに出て来て聞け。 そうすれば、あなたがたは生きる”とあなた方に臨んでいるからです。
この聖句は三つの事柄に関して述べています。 最初に、神の報いを償うキリストがおられること。 次に、多くの人を義とするキリストの知識があること。 最後に、信じる罪人に完全なる償いをもたらす、罪を担うキリストがおられること。 これらの三つの事柄について述べています。
“彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう”(イザヤ書53:11)。
I. 最初に、キリストの苦しみは神の報いを満足させる。
“彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。・・・”(イザヤ書53:11)。
ジュウゲン・モルトマン博士(Dr. Jürgen Moltmann, 1926-)は、第二次世界大戦の終戦後三年間、英国の刑務所に戦犯として監禁されたドイツ人です。 監禁の間、彼は聖書を学び始めました。 その監禁生活と聖書を読んだ事の体験から、彼はHistory and the Triune God: Contributions to Trinitarian Theology『歴史と三位一体なる神:三位一体説の神学への貢献』(Crossroad,1992)を書きました。 モルトマン博士はリベラルな神学者です。 ですから、私は疑いもなく彼の書いたほとんどの事は認めません。 しかし、彼にはいくらかの洞察力があります。 たとえば、モルトマン博士は、十字架を、神が“邪悪な”人類との彼の結束を表現された行いとして理解しています。 神は十字架の上で罪人への彼の愛を示され、御子なる神は、父からの分離を蒙り、“内面から外見まで”の苦痛と苦しみを受けるよう、父なる神に御自分を任されました。 モルトマンは、全てを正しく理解したわけではありませんが、十字架で三位一体の二位の人としての苦しみを明らかにしています。 そしてそれが、私は重要な点だと思います。 私の意見は、その事―すなわち、十字架につけられた時の三位一体の二位の人としての苦しみ―は考察する価値のある事なのです。
“彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。・・・”(イザヤ書53:11)。
スポルジョンはこのように述べています、
これらの言葉によって、私達は、父なる神が彼の御子について語られ、そして彼が魂の苦しみを耐えられたので、父は子に満足なる報酬を確かなものにすることを言明されている。救いに関し、聖なる三位一体の互いに異なる方々の共同の働きを観る事は、何ともすばらしい事ではなかろうか!(C. H. Spurgeon, The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1980 reprint, volume LXI, p.301)。
“彼は”、すなわち父なる神である方は、“自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て”とは、御子の魂の苦しみについてであり、スポルジョンはそれを“これらの言葉によって、私達は、父なる神が彼の御子について語られ”と表しています。
“彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。・・・”(イザヤ書53:11)。
“自分のいのちの激しい苦しみ”とは、キリストが私達の罪の為に体験された彼の心痛と苦しみを表しています。 私達はキリストの肉体による苦しみを軽視してはいけません。 私達は決してキリストがピラトによって半死に至るまで鞭打たれた事を軽視してはいけません。 私達は決してキリストがつばを吐きかけられ、棘の冠をかぶせられた事を軽視してはいけません。 そして私達は、彼が私達に代わって十字架につけられた時に、彼の手足が釘づけにされた事の重大さ、その苦痛とのどの渇きなども軽くあしらってはいけません。 “かつ”、スポルジョンは、“彼の魂の苦しみは主要な事であり、そしてそれについてこのテキストは述べている・・・イエス・キリストは[非常]に苦しまれ、彼の苦しみを想像することに、また、それらをいかなる言い方でもってしても、あなた方に伝えることに、私は絶望を感じる”と言っています(Spurgeon, 同著、pp. 302-303)。 “キリストの精神的苦悩が、彼の本質的な苦しみであり”(同著、p. 302)、彼の苦悩の心髄、彼の苦しみの主要なもの、と言われています 。
“苦しみ”と言う言葉は、人間の罪の重荷を負われた時、そして、父なる神による裁きが彼に下った時、“彼の魂”に体験された悲嘆、苦悩、苦痛を表しています。 これは、彼が捕らわれる前、彼がむち打たれる前、そして彼が十字架につけられる前に、すでにゲツセマネの園で、彼は明らかにこれを体験されました。 そして、それは十字架の上で彼が更に体験された、魂の悲嘆と苦痛をも含んでいます。 ギル博士はこのように示しています、
彼の魂の苦しみは、彼の民に救いをもたらす為に、彼が耐えられた苦役と苦しみである;彼の従順と死、彼の悲しみと苦しみ;特に神の怒りの意向の下での彼の魂の陣痛、その引喩は、女性の苦痛[子供を生み出すときの苦痛]と比べられる;そして、彼が貫かれた全ての苦しみと死に至る苦痛である(John Gill, D.D., An Exposition of the Old Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume 5, p. 315)。
“彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。・・・”(イザヤ書53:11)。
“・・・満足する”は、神の怒りの贖罪について語っています。 父なる神は、“満足”されます、あるいは、なだめられる、と言えましょうか、
“神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました”(コリント人への手紙第二5:21)。
“この方こそ、私たちの罪のための・・・なだめの供え物です”(ヨハネの手紙第一2:2)。
“神は、キリスト・イエスを・・・なだめの供え物として・・・”(ローマ人への手紙3:25)。
ジョン・マッカーサー博士(Dr. John MacArthur)は、キリストの血については間違った見解をもっていますが、以下のことは正当に述べています、
[供え物]という言葉は、“沈静”もしくは“満足”を意味する。十字架でのイエスの犠牲は、神の、罪に対する神聖な要求を満足させた・・・であるからにして、イエスは神を沈静もしくは満足させたのである(John MacArthur, D.D., The MacArthur Study Bible, Word Publishing, 1997, note on I John 2:2)。
彼が、イエスの血に関して間違った見解を持ち、贖罪に関しては正しい見解を持っているという事に、私は異様な思いを感じます。 従って、私達は、贖罪、すなわち、神の、罪に対する怒りの沈静は、イエスの苦悩によって、彼ご自身体験された、という事を理解します。 イエスの苦悩は、罪に対する神の怒りを沈め、なだめて、神の報いを“満足させた”のです。
“神は、罪を知らない方[御子キリスト]を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです”(コリント人への手紙第二5:21)。
“彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。・・・”(イザヤ書53:11)。
キリストの苦悩は、私達が救われる事を可能にする為に、神の正義を満足させたのです。
II. 次に、キリストを知ることは、多くの人に義をもたらす。
起立して、そのテキストを“多くの人を義とし”という言葉まで声を出して読んで下さい。
“彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし・・・”(イザヤ書53:11)。
着席してください。
預言書イザヤは、イザヤ書52:13で、キリストを神の“僕”と表しています。 そして、この私達のテキストでは、キリストは神の“私の正しいしもべ”と呼ばれています。 キリストは義なる方です。 なぜなら、彼は“罪を知らない方”(コリント人への手紙第二5:21)であるからです。 彼は罪のない神なる御子、父なる神の“義なるわがしもべ”なのです。
キリストは、“多くの人を義とし”(11節)。 ここに福音の心髄があるのです。 私達は、神の律法に従うことによって、自分達を義とはしません。 なぜなら、
“律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです”(ローマ人への手紙3:20)。
私達は自分たちを義とすることは出来ません、なぜなら、私達は生まれつき罪人であるからです。 私達はキリストの義の転嫁によってのみ義とされるのです。 “転嫁(負わせる)”は法的な言葉です。 私達はキリストの義の身代わりによって法的に義とされるのです。 彼らにキリストの義を帰せることによって、神の“私のただしいしもべは・・・多くの人を義”(イザヤ書53:11)とするのです!
“彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし・・・”(イザヤ書53:11)。
ジョン・トラップは、枢機卿コンタレヌス(Cardinal Contarenus)が、他の枢機卿ピギウス(Pighius)によって処刑された事を私達に思い起こさせます。 なぜなら、コンタレヌスは、この節を文字通り信じていたので、彼は“新教徒(プロテスタント)”と呼ばれ、“人の義は、神の代償を求めない哀れみ、そして、キリストの功徳によるものである”と言う彼の信仰ゆえに処刑されました(John Trapp, A Commentary on the Old and New Testaments, 1997 reprint, volume III, pp. 410-411, note on Isaiah 53:11)。 しかし、枢機卿コンタレヌスは正しかったのです! そして、他の残りの枢機卿は間違っていたのです!
“わたしの正しいしもべは、多くの人を義と[するであろう]”。 それらの言葉は、死ぬに値する価値があったのでしょうか? 正にその通りです! それが正にバプテストやプロテスタントの信仰の心髄なのです! フィニー(Finney)に従う決断主義者やローマ・カトリックは、私達は自分達を義とする事ができるように教えていますが、全くそうではないのです!
“しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる・・・”(ガラテヤ人への手紙2:16)。
“こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです”(ガラテヤ人への手紙3:24)。
多くの人を義とする神の“正しいしもべ”はキリストです。
しかし、それはどのようにして起こるのでしょうか? キリストはどのように“多くの人を義とする”のでしょうか? 幾つかの罪をあきらめるような、彼ら自身の人の行いによって、キリストは彼らを義とされるのでしょうか? そうではありません! それはカトリックや決断主義の教えです! 説教の終わりに“罪人の祈り”をしたから、あるいは“前方へ出て”行ったから、キリストは彼らを義とするのでしょうか? そうではありません! それもカトリックや決断主義の教えです! 彼らが“救の計画”を学び、ヨハネの福音書3:16を暗記し、“罪人の祈り”をしたから、彼は彼らを義とするのでしょうか? そうではありません! それもまた カトリックや決断主義の教えです!
それでは、どのようにしてあなた方は義とされるのでしょうか? 人はどのようにしたら神の御前に清く、そして義とされるでしょうか? それは永遠なる問いかけです! それはヨブ記にあるビルダデのおおいなる質問です! 彼は言いました、
“人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか”(ヨブ記25:4)。
そして、私達のテキストの言葉を通して、その答えは私達に鳴り響きます、
“・・・わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし・・・”(イザヤ書53:11)。
あるいは、スポルジョンが解釈しているように、“わたしの正しいしもべは、キリストの知識によって、多くの人を義とし”(C, H. Spurgeon, The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1980 reprint, volume 63, p. 117)。 スポルジョンは言いました、
私の、キリストの犠牲の成果を得る完全な方は、知る事、そして信じる事によってであり―すなわち、行うことによってではない・・・“人が義とされるのは律法の行いによるのではなく”、“律法は罪の認識をうみ”、“恵と平安がイエス・キリストにより来”、そして、それらは信じる事により、あるいは知る事によって―すなわち、彼を知る事によって・・・彼を通して・・・我々は義とされる(同著)。
“何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです”(ローマ人への手紙4:5)。
“「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも・・・救われます」と言った”(使徒行伝16:31)。
“・・・わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし・・・”(イザヤ書53:11)。
キリストの苦悩は神の正義を満足させます。 キリストご自身を知ることは、多くの人に義をもたらします。 そして―
III. 最後に、罪を負われるキリストは、罪人に完全なる償いをもたらす。
起立して、そのテキストをもう一度、最後の箇所に注意を払って読んで下さい。
“彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう”(イザヤ書53:11)。
着席してください。
キリストは、“多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう”。 それは、キリストが彼らの罪を負うということなのです。 私達の義とされること、私達の贖いと救いの完全な基盤は、これらの言葉、“彼らの不義を負う”で明らかにされています。 イザヤ書53:5はこう語っています、
“しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた”(イザヤ書53:5)。
イザヤ書53:6はこう語っています、
“しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた” (イザヤ書53:6)。
イザヤ書53:8はこう語っています、
“・・・彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ・・・”(イザヤ書53:8)。
ペテロの手紙第一2:24は、こう語っています、
“そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました”(ペテロの手紙第一2:24)。
スポルジョンが“わたしの正しいしもべは、キリストの知識によって、多くの人を義とし”と解釈しているように。
最初に、明白で分り易い、キリストの福音のポイントが上げられます。 キリストの苦悩は神の報いを満足させるのです。 キリストご自身を知る事が、神の報いに対する義認をもたらすのです。 キリストは罪を負われるという事の信仰が、キリストを知る罪人達に完全な救いをもたらすのです。 何と驚くべき福音! 驚くべき罪の贖いではありませんか! その様なことは歴史上かって、前にもまた後にも無かったことです!
“彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう”(イザヤ書53:11)。
何日か前に、ウェスリーと私は俳優ジョン・キャラディンについてインターネットで読んでいました。 彼はどの俳優よりも多くの映画(300以上)に出演しました。 彼がイタリアのミラノで死んだ時、死体は棺桶に置かれ、彼の息子の一人の家へ送られました。 その時、その息子は酒に酔っていて、その棺桶を開け、父親の口にお酒を流しいれました。
では、あなた方に尋ねますが、死人はそのお酒を味わえるでしょうか? 当然味わえません! そして、私達を救う為に成されたすばらしい事に関して、私があなた方に告げる時、 それを味わう事があなた方には出来ないのです。 何故でしょうか? 何故なら、あなた方は霊的に死んでいるからです。 聖書が示しているように、 あなた方は、“罪過の中に死んでいた”(エペソ人への手紙2:5)からです。 それが正に罪の本質なのです。 あなた方はキリストについての事柄に対して死んでいるのです。 あなた方はそれらを感じることは出来ないのです。 神に関する事柄に対して、あなた方は、棺に横たわっているジョン・キャラディンの死体のように、あなた方は死んだも同然なのです。 キリストがあなた方に命をくださらなければなりません。 そうで無かったならば、あなた方は永遠に地獄へと向かうでしょう! あなた方は、“私は、ほんとうにみじめな人間です。 だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか”(ローマ人への手紙7:24)と哀願するよう、仕向けられなければなりません。
男性もしくは女性が、その様に心の底から哀願する時、彼らは救いに近づいています。 その様に哀願した事がありますか? あなた方は神に対して死んでおり、キリストのみがあなた方を救って下さる事が出来る、と感じた事がありますか? あなた方はキリストに回心していますか? もしそうで無かったならば、世の罪を取り除く神の小羊、キリストに視線を向けませんか? 今、彼を見て、彼を信頼しませんか? グリフィス氏の歌った賛美歌の歌詞に耳を傾けて下さい。
もし罪から自由になりたいならば
神の小羊をみよ
彼はカルバリーの丘で、あなたを贖う為に死なれた
神の小羊をみよ
神の小羊をみよ、神の小羊をみよ
彼のみがあなたを救うことができる
神の小羊をみよ
(“Look to the Lamb of God” by H. G. Jackson, 1838-1914).
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読:イザヤ書第53章1-11節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Look to the Lamb of God” (by H. G. Jackson, 1838-1914).
要 綱 キリストによって得られる (イザヤ書第53章からの説教、その13) R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 “彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。 わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう”。(イザヤ書53:11、新改訳) I. 最初に、キリストの苦しみは神の報いを満足させる。 II. 次に、キリストを知ることは、多くの人に義をもたらす。 III. 最後に、罪を負われるキリストは、罪人に完全なる償いをもたらす。 |