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群集に拒絶された―キリスト (イザヤ書第53章からの説教、その3) R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて CHRIST – REJECTED BY THE MASSES by Dr. R. L. Hymers, Jr. A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles “私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない”。 (イザヤ書第53章1-2節) |
預言者イザヤは、わずかな者達が神の苦しむ僕についてのメッセージを信じるであろう、そして、わずかな者達が彼の救いの恵みを体験するであろう、と告げています。 使徒ヨハネは、キリストの時代の大多数のユダヤ人の不信を表す為に、イザヤ書第53章1節を引用しました。
“イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった”(ヨハネの福音書12:37-38)。
また、使徒パウロは、キリストが昇天された三十年後に、大多数の異邦人も、ユダヤ人よりは多少なりとも主イエス・キリストに注意を払うが、彼らの不信を示す為に、この節を引用しています。 パウロはこのように告げています、
“ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。・・・しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています”(イザヤ書10:12, 16)。
主イエス・キリスト御自身も同じ事を告げられました。 彼は、救われる為に彼を信じる者達の数はわずかであろう、と言われました、
“いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれですいのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです”(マタイの福音書7:14)。
次のように言われた時、キリストは同じ事を指摘されました、
“努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから”(ルカの福音書13:24)
この世では、ほとんどの人達が天国への道を見つけると思っています。 しかし、イエスは正にその逆の事を告げられたのです。
“・・・それを見いだす者はまれです”(マタイの福音書7:14)。
“努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから”(ルカの福音書13:24)
この心を乱すような真実は、イザヤの悲嘆の中で共鳴します。
“私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか”(イザヤ書53:1)。
私達は、なぜそれが真実であるかと問うかもしれません。 ユダヤ人達は、偉大な力強い支配者、壮麗で裕福な王を彼らの救い主として求めました。 そして、異邦人は救い主など全く求めませんでした! ですから、一般の人達は、キリストが御自分の権威を低くされ、苦しむ僕として来られ、彼らの罪の償いの代わりとして十字架につけられ死なれる事を期待しなかった、と理解します。
使徒行伝の第8章において、エチオピアの宦官は、ユダヤ教の祭司やパリサイ人達と同様これらの事実について盲目でした。 伝道師のピリポがその宦官が乗っている馬車に追いついた時、その宦官はイザヤ書の第53章を読んでいました。
“そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。すると、その人は、・・・”(使徒行伝8:30-31)。
このアフリカ人はユダヤ教への改宗者でした。 彼は旧約聖書を熟知しているようでした。 しかし、この聖句に遭遇した時、まだユダヤ教の祭司のように彼は盲目でした。
“悲しみの人で、病を知っていた”人、そして、“侮られて人に捨てられ”るように来られるというこの聖句から、救い主(メシア)が来る時、壮観に人の栄光に満たされ、裕福で名高い人として来るのではない事を、誰であろうと理解する事が出来たのではないか、と私には思えます。 且つ、この真実が聖書に明白に書かれているにもかかわらずです。
“この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった”(ヨハネの福音書1:11)。
聖書のこの預言で、イエスについて完璧に説明されているにもかかわらず、 イスラエルの国全体は、イエスを彼らの救い主として受け入れませんでした。 そして、その預言者は第2節で、彼らがイエスを受け入れなかった理由をこのように挙げています、
“彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく[美しさ、Strong]、輝きもなく[荘厳さ、Strong]、私たちが慕うような見ばえもない”(イザヤ書53:2)。
しかし、私達はそのようなイエスを拒んだユダヤ人達を、同じようにイエスを拒んだ異邦人達以上に厳しく裁いてはなりません。 スポルジョンはこのように言いました、
ユダヤ人にとって真実である事は、異邦人にとっても等しく真実であることを心に留めよ。イエス・キリストの福音は、世界中で最も簡単明瞭な事柄であるが、神に[よって]悟らされない限り、誰もそれを理解する事は出来ない・・・罪は人類に霊的な事柄に関して知的無能をもたらし・・・あなたはどうであろうか?あなたも同じく盲目であろうか?・・・あぁ、もしあなたもそうであるならば、[神が]あなたをキリストへの信仰へと導いてくださるように(C. H. Spurgeon, “A Root out of Dry Ground,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1971 reprint, volume XVIII, pages 565-566)。
では、私達のテキストの第2節を開いてください。 そこにイエスが拒絶される三つの理由を見る事が出来ます。 その聖句を朗読してください。
“彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない”(イザヤ書53:2)。
I. 最初に、キリストは拒絶される、なぜなら、彼は若枝、若木のように人に思われるからである。
次のような理由でわずかな人だけが信じます、
“彼は主の前に若枝のように芽ばえ”(イザヤ書53:2)。
もしくは、ギル博士が述べるように、“小さな若枝、その言葉が表しているように・・・関心も注意も払われず、またそこからは何の期待もおこらないような木の根から育ち;そして、その[比喩的]表現は、彼の[誕生]にして、身分の[低い]キリストには期待されない姿を示している;それが、ユダヤ人一般は彼を信じず、拒否し、そして、さげすんだ理由に挙げられる(John Gill, D.D., An Exposition of the Old Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume I, pp. 310-311)。
“彼は主の前に若枝のように芽ばえ”(イザヤ書53:2)。
これは、キリストに注意を払われ、彼を力づけられた父なる神の“前に”、キリストは生まれ育ったということを現わしています。 さらにヤング博士は、“しかしながら、人々にとって、その僕(イエス)は若枝のように思えた・・・人々は若枝を切る、なぜなら彼らは木からその命をとり、人から見れば、若枝は切られるべきものである”(Edward J. Young, Ph. D., The Book of Isaiah, William B. Eerdmans Publishing Company, 1972, volume 3, pp. 341-342)。
それが大祭司達やパリサイ人達がイエスを殺そうと企んだ本当の理由ではありませんか? 彼らはこう言いました、
“もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」”(ヨハネの福音書11:48)。
“人々は若枝を切る、なぜなら彼らは木からその命をとり、人から見れば、若枝は切られるべきものである”(Young、同著)。 もし彼らがイエスを信じれば、ユダヤの国民としての自分達の独自性を失なってしまう事の恐れを彼らは感じていました。 “若枝”、すなわち若木として、彼らはイエスが自分達の国民の“木から命をとる”であろうと恐れていたのです。
そして、その事実が、あなた方がイエスを拒絶している同じ理由ではありませんか? その事をよく考えて見てください! もし、あなた方が、イエスに来て彼を信じるならば―あなた方にとって非常に重要と思われる物事を失う事を恐れているというのが、あなた方にも同様な現実ではありませんか? キリストは“木から命をとる”、すなわち、彼はあなた方にとって大変重要な何かを奪ってしまうことをは恐れているのではないですか?
私はケイガン先生に、1929年の雑誌『サタデー・イブニング・ポスト(The Saturday Evening Post)』に載った記事をコピーするようにお願いしました。 それは偉大な物理学者アルバート・アインシュタインのインタビューの記事でした。 記者は彼に、“イエスの歴史的な存在を受け入れますか?”と尋ねました。 アインシュタインは、“疑いない。 誰もイエスの存在を感じさせられずに福音を読む事は出来ない。 彼の個性は全ての言葉で・・・”(The Saturday Evening Post, October 26, 1929, p. 117)と答えました。 アインシュタインはキリストに対して非常に好奇心を注がれていましたが、悲しいかな彼は回心しませんでした。 彼をそうさせたのは何だったのでしょうか? それは決して知的な問題ではありませんでした。 彼は姦通者だったのです。 彼はそれを諦められませんでした。 真のクリスチャンになるためには、ある事柄を諦めなければならないのです。 単純明快です。
では、もし私があなた方にそれが真実でないと言うならば、私は偽教師となるでしょう。 もし私が、何も失う事無くキリストに来る事が出来ると教えるならば、私は誤まった教えを説教している事になるでしょう。 当然キリストに来るには何かが犠牲となります! あなた方自身の人生が犠牲となります! どのようにキリストはそれを明白にされたでしょうか? イエスはこのように言われました、
“それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう”(マルコの福音書8:34-37)。
それは十分に明白なことではありませんか? キリストに来る為には、あなた方自身を否定し、あなた方自身の意見、あなた方自身の計画、あなた方自身の大志を諦めなければなりません。 あなた方自身をキリストにゆだねなければなりません。 それがキリストを信頼するという事です。 あなた方自身ではなく、キリストを信頼する事です。 あなた方自身を―自分自身の考えや目標にではなく―キリストにゆだねるのです。 あなた方は彼にゆだねる事によって、あなた方の生き方を“失う”のです。 キリストへ自分を引き渡す事により、あなた方が自分の生き方を無くす時のみに、あなた方の命は永遠に救われるのです。
ですから、“若木”と表されたその言葉は、神の御前に、キリストは命を与えることを意味しているのです。 しかし、人の目には、キリストは命を奪う者なのです。 それゆえにほとんどの人達は彼を拒絶するのです。 彼らは、キリストが彼らの生き方を“奪う”事を望まないのです。 彼らは自分達の生き方を手放す事を、そして彼に導かれる事を恐れているのです。
II. 次に、キリストは拒絶される、なぜならキリストはかわいた土から出る根のように、人には思われるからである。
“彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った・・・”(イザヤ書53:2)。
最初の要点に時間を取り過ぎて残りの時間がなくなってしまいましたが、私達はどのようにキリストが“かわいた土から出る根”のように現れたかを容易に理解できます。 ヤング博士はこのように述べています、
かわいた土とは、僕[キリスト]が現れてきた身分の低い状態、そして、その背景を示している。それは僕の送った生涯の環境の哀れな状況を暗示している・・・渇ききった土にある根は、生命を保持する為に奮闘せねばならない(Young, 同著、p. 342)。
この預言は、キリストが生まれた環境の貧しさを表しています。 彼の養父はただの大工にすぎませんでした。 彼の母親マリアは貧しい家庭の娘でした。 キリストは馬小屋で生まれ、貧しい“かわいた土から出る根”のような環境で育ちました。 彼は、生涯の奉仕を貧しく身分の低い者達の間でなさいました。 彼の弟子達もただの漁師でした。 彼はヘロデ王、ローマ総督のピラト、そして学識のある律法学者やパリサイ人達によって、“かわいた土から出る根”として拒絶されました。 彼は半死になるまでむち打たれ、彼らは彼の手足を十字架に釘付けました。 彼らは、彼の砕け死んだ身体を借りた墓に置きました。 彼のこの世での生涯、彼の苦しみ、そして彼の死は、“かわいた土から出る根”として送られました。 しかし、神に感謝すべきかな、彼は“かわいた土から出る根”として、三日目に死からよみがえられました! 予期しなかった大雨の後に突如として出てきた若枝のように、キリストは躍り出て、“かわいた土から出る根”のように、死からよみがえりました。 ハレルヤ!
それでも、大多数の人達は彼を信じません。 彼らはキリストを“おめでたい人”、そして“無価値なユダヤ人”のようにみなしています、
“私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った・・・”(イザヤ書53:1-2)。
III. 最後に、キリストは拒絶される、なぜなら彼には見るべき姿がなく、威厳もなく、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもないからである。
起立をして、第2節を声を上げて読んでください。
“彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない”(イザヤ書53:2)。
着席してください。
イエスには“見とれるような姿もなく”、威厳、そして壮麗な外見的な姿はありません。 ヤング博士は、このように述べています。 “我々がその僕[キリスト]を見る時、私たちが慕うような見ばえもない。 言い方を変えれば、我々の判断は、表面的な姿によってであり、公正で真実ではない。 それは哀れな描写である。 その僕[キリスト]は御自分の民の中で住まわれ、そして彼の実際の姿の裏には、信仰なる目は真実の栄光を見ることが出来たはずである;しかし、彼の表面的な姿を見て、イスラエルの人々は、彼らの目に喜ばすような美しさを何も探し出さなかった・・・そのような人は、その僕[キリスト]の姿を誤った眺望により判断し、彼を完全に誤って判断するであろう”(Young、同著)。
外見的には、キリストはこの世の人々を引き寄せるような美しさや威厳はありません。 彼は大多数の人達を引き寄せるような物事を提供されません。 彼は成功、名声、金銭、またはこの世の快楽などは約束されません。 全くその逆です。 この教会の執事であるプルードホム氏が、キリストが提供された事を語っている聖書の箇所を読みました。
“それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう”(マルコの福音書8:34-37)。
キリストは個人犠牲を申し出ました。 キリストは、あなた方自身の人生と宿命の支配を諦めるよう語っています。 キリストは魂の救い、罪のゆるし、そして永遠の命を提供しています。 これらは、実体の無い事柄であり、人の感覚には触る事も見ることも出来ない事柄で、霊的な事柄なのです。 ですからキリストは、神によって心の目が開かれていない人達によって拒絶されるのです。 なぜなら、
“生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです”(コリント人への手紙第一2:14)。
しかし今朝、神があなた方の心に話しかけられていられるのではないでしょうか。 神があなた方に、“彼には、われわれの慕うべき美しさもないけれども、私はあなたをわが子に引きつけている”というように言われていられるのではないでしょうか。 あなた方はそのように感じていませんか? この世は、瞬く間に消えていく快楽や成功を与えているだけに過ぎないと感じた事がありますか? あなた方は、自分の魂について考えたことがあります? もしイエスがあなた方の罪を、イエスの御血で清めてくださらなければ、自分の魂は永遠にどこをさまようのであろうか、などと考えた事がありますか? あなた方は、最も重要なこれらの事柄について考えた事がありますか? もし、そうであるとしたら、純粋な信仰をもって“私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見みばえもない”(イザヤ書第53章2節)イエスに来ませんか? ナザレのイエスの御前にひざまずき、心から彼を信頼しませんか? 私はあなた方がそうする事を願っています。
起立をしてください。 グリフィス氏がこの説教の前に歌った賛美歌シートの第二番目を歌います。
この世のすべての欲は要らず、しかしイエスという御名
彼の愛は永久に変わらず
我が頼みはイエスの十字架に
我は、主にお会いし、輝かれる御顔を見る
あぁ、深遠なる恵み! あぁ、計り知れない愛!
あぁ、完全なる贖い、天なる永久の命!
(“Take the World, But Give Me Jesus” by Fanny J. Crosby, 1820-1915).
もし神があなた方の心に語りかけ、あなた方がこの過ぎ去る世の栄華と楽しみを離れようとするのであれば、また、もしあなた方が自分自身をイエス・キリストに投げ出し、信仰でもって彼に来、あなた方の罪をイエスの御血でもって洗い清めてもらいたいと思うのであれば、そして、もしあなた方が私か教会の執事の人とカウンセリングを希望するのであれば、今部屋の後ろへ行ってください。 ケイガン先生が、このことについて話ができる静かな場所へ連れて行きます。 あなた方が信仰を通して救い主に来、救われることを私は祈ります。 チャン先生、彼らのために祈ってください。 アーメン。
(説教終了)
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アベル・プルードム氏による説教前の聖書の朗読: マルコによる福音書第8章34-37節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Take the World, But Give Me Jesus” (by Fanny J. Crosby, 1820-1915).
要 綱 群集に拒絶された―キリスト (イザヤ書第53章からの説教、その3) R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて “私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない”。 (イザヤ書第53章1-2節) (ヨハネの福音書12:37-38; I. 最初に、キリストは拒絶される、なぜなら、彼は若枝、若木のよう II. 次に、キリストは拒絶される、なぜならキリストはかわいた土から III. 最後に、キリストは拒絶される、なぜなら彼には見るべき姿がなく、 |