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絶された預言・ことば (イザヤ書第53章からの説教、その2) R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて THE REJECTED REPORT by Dr. R. L. Hymers, Jr. A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles “だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 主の腕は、だれにあらわれたか”。 |
イザヤはキリストの福音について告げています。 “そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである”(イザヤ書第52章14節)と現れるキリストの苦しみを預言している52章の最後の三つの節から私は先週の日曜日に説教しました。 これは私達の罪のために殴られ、十字架につけられ、死からよみがえられた、“高められ、あげられ、ひじょうに高くなる・・・”(イザヤ書第52章13節)イエスの描写です。 しかし、ここの私達のテキストの中で、この預言者はわずかな人達がこの福音のメッセージを信じる事を深く嘆き悲しんでいます。
エドワード・ヤング博士(Dr. Edward J. Young)は旧約聖書の学者であり、私の以前の牧師、ティモシー・リン博士のクラスメイトで友人でもありました。 彼は私達のテキストに次のように注解しています、
“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか”。
ヤング博士は、これは“疑問よりもむしろ感嘆である。 それは否定的な答えは要求していない。 しかし、単にこの世の、 [わずかな]真の信者達の関心を引く為にもくろまれている・・・その預言者は、ごくわずかな者達が信じる事を告げ、また落胆を表現する彼の民を代表する者である”(Edward J. Young, Ph.D., The Book of Isaiah, William B. Eerdmans Publishing Company, 1972, volume 3, p. 240)。
“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか”。
“聞いたこと”とは、“公に告げられた言葉”という意味です。 ルターはそれを“我々の説教”とも訳しています(同著、Young)。 “だれがわれわれの説教を信じ得たか?” そのテキストでのこれに対応した表現は、“主の腕は、だれにあらわれたか”です。 “主の腕”とは、主の力を示した表現です。 だれがわれわれの説教を信じ得たか? 主の腕は、だれにあらわれたか? だれにキリストによる救いの力はあらわれたか?
“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか”(イザヤ書第53章1節) 。
この節は、あなたは最初に福音の説教を信じなければならない、そうして、キリストを通して神の力により回心しなければならない事を言っています。 且つ、この預言者のその疑問は、数少ない者が信じ回心するという事を示しているのです。
“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか”
(イザヤ書第53章1節).。
I. 最初に、キリストのこの世での奉仕の間にわずかな人達が信じ救われた。
イエスはラザロの墓に来られました。 その人は死んですでに四日経っていました。 イエスは彼らに、“石を取りのけなさい”(ヨハネによる福音書第11章39節)と言われました。 ラザロの姉妹は彼を止めようとして、“主よ、もう臭くなっております。 四日もたっていますから”(同著)と言いました。 しかし、彼らはイエスに従い、墓の戸口に覆っていた石をとりのけました。 そして、イエスは“大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。 すると、死人は手足を布でまかれ,顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」”(ヨハネによる福音書第11章43-44節)。
“そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を招集して言った、「この人が多くのしるしを行っているのに、お互いは何をしているのだ”(ヨハネによる福音書第11章47節).。
彼らはイエスのなされた多くの奇跡を見て、みんなが彼らにではなく、イエスに従う事を恐れました。
“彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した”(ヨハネによる福音書第11章53節)。
その祭司長達とパリサイ人達は共に集まり、イエスを殺す最適な方法、“殺そうと”考え始めました。 使徒ヨハネはこのように言いました、
“このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。 それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。 また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」”(ヨハネによる福音書第12章37-38節)。
彼らは、イエスが五千人の人々に食べ物を与えられた奇跡を目にしました。 彼らは、イエスがらい病者を癒し、盲目の目を開かれたのを目にしました。 彼らは、イエスが悪霊を追い出すのを見、なえた者を強健にされたのを目にしました。 彼らは、イエスがやもめの息子が死から生かされるのを目にしました。 彼らは、イエスが水をぶどう酒に変えられるのを目にしたたでではなく、イエスがこのように語られたのを耳にしました。
“諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった”(マタイによる福音書第9章35節)。
それでもなおかつ、イエスがラザロを死からよみがえらされた時、“彼らはイエスを殺そうと相談した”(ヨハネによる福音書第11章53節)のです。
“このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。 それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。 また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」”(ヨハネによる福音書第12章37-38節)。
そうです、少数の人々のみが、キリストのこの世での奉仕の間、信じ、そして回心しました。
II. 次に、十二使徒の時代には、わずかな人達が信じ回心した。
ローマ人への手紙第10章11-16節を開いてください。 起立して、そのすばらしい節を読んでください。
“聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いて あるとおりである。しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている”(ローマ人への手紙第10章11-16節)。
着席してください。
12節で、聖書のこの引用された文面は、次のように言っていることに注目してください。
“ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである”(ローマ人への手紙第10章12節)。
これは、イエスが天に上がられ後、30年より少し前に、使徒パウロによって書かれました。 ですから、パウロは使徒行伝の後方で書いています。 彼はユダヤ人と異邦人両方に向かって話していますが、イエスは特にユダヤ人にのみに向かって話されました。 パウロは、“ユダヤ人とギリシャ人との差別はない”と言っています。 すべての人はキリストが必要だからです!
且つ多くのユダヤ人ではない聴衆に向かって、パウロはイザヤ書の53章1節から引用し、比較的少数の異邦人のみが信じた事に深く嘆き悲しみ、そして、適用によって、その預言者が、大多数の異邦人は、この福音に対して、ユダヤ人よりもわずかに多く反応するであろう言った事を示す為に、イザヤ書の53章1節を引用して、イエスが語られた同じ言葉を語りました。 パウロは、この事を示すためにイザヤの訴えから引用しています。
“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか”(イザヤ書第53章1節)。
異邦人はユダヤ人よりも福音を受け入れやすかったのです。 且つ、比較的少数の異邦人のみがパウロや他の使徒達が説教をしていた時に、イエスを信じました。 使徒行伝で私達が理解するように、、十二使徒の時代には偉大なリバイバルがありました。 しかしこれらのすばらしいリバイバルは比較的少数の異邦人のみにキリストによる救いにもたらせました。 伝道はローマ人の間でさえも容易ではありませんでした!
キリストと十二使徒達は、ほんの小数の回心者のみを目にしました。 そして、第一世紀のクリスチャン達は、少数派ででした。 そして、彼らは迫害された少数派でした! ですから、キリストとパウロの両者が、福音に対してほとんどの人達が拒絶をするという、すなわち、彼らの説教を聞いたほとんどの人達が回心しないかを説明する為に、私達のテキストを引用しました。
“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか”(イザヤ書第53章1節)。
そして、この事はクリスチャンの歴史を通して真実なのです。 絶えず、常に、少数の人達だけが福音を信じ回心しました。 それは今日でも真実です。 何も変わってはいません。 それが私達の最後の要点へと導きます。
III. 最後に、今日、わずかな人達は信じ、回心する。
今日、私達はこの哀嘆な疑問なるイザヤの悲しみの現実性にしばしば直面します。
“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか”(イザヤ書第53章1節)。
残念な事に、今日わずかな人が私達の説教を信じ、そしてわずかな人がキリストの力によって救われると、私達は告げなければなりません。 私達の愛する家族もしばしばキリストの福音を拒否します。 そして、あなた方の多くは、説教を聞かせる為に私達が教会に招く人達の内の、わずかな人達のみが回心する事を知っているでしょう。 その事についてここで三つのコメントを上げます。
(1) 最初に、どの聖句が、ほとんどの人達が救われると告げていますか? 告げていません。 事実、イエスはその逆を語っています。 イエスはこのように言われました、
“狭い門からはいれ。 滅びにいたる門は大きく、その道は広い。 そして、そこからはって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない”(マタイによる福音書第7章13-14節)。
それを見出す者が少ないのです! 私達の伝道による努力がのぞんでいたよりもわずかな結果をもたらす時、私達は常にそれを心に留めておかなければなりません。
そして、次にこの事に関して私が言いたい事は、
(2) 次に、私達の伝道の目的は、何人の人が回心したかにあるのではありません。 その結果が多かろうが少なかろうが、私達の思いは、決して何人の人が回心したかに向けられてはなりません。 私達の目的は、神に従うという事にあります。 私達が伝道に出ていく際、私達の思いは常に神に、そして、彼への従順に向けられるべきです。 そして、私達が福音を説教する時、私達の思いは常に神に、また彼への従順に向けられるべきです! キリストは私達にこのように語られました、
“全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えよ”(マルコによる福音書第16章15節)。
それが、私達に成すようにキリストが告げられた事です。 そして、人々が聞こうが聞くまいが、彼らが回心しようがしまいが、私達はそれを成さなければならないのです。 私達は伝道しなければなりません、なぜなら、キリストがそうするように告げられたからです! 私達が成功したかどうかは、人の応答によるものではありません! けっしてそうではあってはなりません! 私達の成功は、いかにキリストに従順であったかにあるのです ですから、彼らが福音を信じようが信じまいが、私達は伝道を成すべきなのです!
そして、これらの事によって三番目の事が生じます。
(3) あなたはキリストを信じますか? あなたはキリストに回心していますか? あなたは信仰でもってキリストに来ますか? たとえ、あなたの家族や友人の誰一人回心していなくとも、あなたはキリストを追い求めますか? あなたは彼に来ますか? キリストがこのように言われたことを思い出してください。
“信じてバプテスマを受ける者は救われる。 しかし、不信仰の者は罪に定められる”(マルコによる福音書第16章16節)。
あなたはイエスに来て、回心し、そしてバプテスマを受けますか? あるいは、あなたは救い主を拒絶した大多数の一人になり、炎火の黄泉の中で永遠に滅びますか?
“信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる”(マルコによる福音書第16章16節)。
私達の祈りは、あなたが炎火の黄泉で永遠に滅びる大多数の一人になるのではなく、このローカルの教会で、私達に加わる事です! 俗世間から抜け出しなさい! 信仰を通してキリストに来なさい! このローカルの教会に来なさい! そして、すなわち本当のクリスチャンの小さなグループの仲間になることです。 この世界から抜け出しなさい! 信仰でもってイエスに来なさい! このローカルの教会へと加わりなさい! そして、イエスの御血と正義によって、常に、そして永遠に救われなさい。
“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか”(イザヤ書第53章1節)。
あなたが、信じそして回心する一人となりますように! あなたが、福音が説かれる時、そのことばを信じる数少ない者の一人となりますように。 あなたが、“イエスは私の罪を償う為にに死なれました。イエスは死から甦られました。 私は信仰でもって彼に来ます”と言う事が出来ますように。 “世の罪を取り除く神の小羊”(ヨハネによる福音書第1章29節)である、イエスを信頼することによって生じる救いを経験する時、あなたは主の腕があらわれた数少ない人の一人かもしれません。 あなたは、イエスに来て、彼の尊い御血でもって自分の罪から洗い清められ、彼の神聖な義を身につける、一人かもしれません。 あなたが私達の聞いたことを信じ、主イエス・キリストの救いの恵みを経験されますように! アーメン!
起立して、ソングシートの7番『きたれ、なれを清むれば』を歌って下さい。
きたれなれを きよむればと
のたもうみこえにききしたがわん
主よわれはいまぞゆく
十字架の血にてきよめたまえ
ゆくわがみの けがれとつみ
すこしものこさずあらいたまえ
主よわれはいまぞゆく
十字架の血にてきよめたまえ
(“I Am Coming, Lord” by Lewis Hartsough, 1828-1919).
もしイエスによって罪から洗い清められることについて私達と話がしたいのでしたら、今会堂の後ろに移ってください。 ケイガン先生が、話が出来る静かな部屋へ案内します。 今行ってください。 チャン先生、彼らのために祈りを捧げてください。
(説教終了)
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アベル・プルードム氏による説教前の聖書の朗読:イザヤ書第52章13-53章1節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“A Crown of Thorns” (by Ira F. Stanphill, 1914-1993).
要 綱 “だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 主の腕は、だれにあらわれたか”。 (イザヤ書第52章14, 13節) I. 最初に、キリストのこの世での奉仕の間にわずかな人達が信じ救わ II. 二番目に、十二使徒の時代には、わずかな人達が信じ回心した。 III. 最後に、今日、わずかな人達は信じ、回心する。 |