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イサクによるいけにえ (創世記シリーズ、その70) R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 THE OFFERING OF ISAAC ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて |
この説教は、過去何ヶ月間における創世記からの70番目の説教です。 この説教が今朝、あなた方一人一人に祝福と成ることを望みます! では、一緒に起立して創世記22章1節を開いて下さい。
“これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい” (創世記22:1-2、新改訳)。
着席して下さい。
これは単純な記述ですが、これには大変重要なメッセージが含まれています。 非常に深遠であり、私は何年もの間それを説教するのを躊躇していました。 それについては詳しく説明しますが、最初にその概略をあなた方に伝えます。 アブラハムは、彼の息子イサクが生まれた時、非常に年老いていました。 神が彼に一人の息子を約束された時、彼は75才でした。 彼は75年も待ったのです。 そして彼の一人息子が生まれた時、彼は100才でした。 その章での、イサクは約26才ないし27才でした。 そこで神はアブラハムを試みられました。 神は、アブラハムが愛した一人息子イサクを連れてモリヤの地へ行き、“一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい”(創世記22:2)と告げられました。 彼らはその場所へと出かけました。 アブラハムは祭壇を築き、いけにえの火の為にたきぎを並べました。 そうしてイサクを縛りその祭壇のたきぎの上に彼を置きました。
“アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた”(創世記22:10-13)。
それがそこで起った事の記述です。 先に私が言ったように、それは単純な話なのです。 しかしその話の中に、私がこれまで説教を躊躇していた多くの箇所があります。 そうして私はこの話に関してルーポルド博士(Dr. H. C. Leupold)の解説を読みました。 彼は、“その章からの説教で、少なくとも二つのアプローチの仕方が可能である”(. C. Leupold, D.D., Exposition of Genesis, volume II, Baker Book House, 1985 edition, p. 637)と書いていました。
この記述に関しての説教で“少なくとも”二つのアプローチの仕方があると言う考えは、私の躊躇を開放しました。 ですから私はこの偉大な話から四つの応用をあなた方に伝えます。
I. 最初に、この話は試される信仰について告げている。
第1節は、“神はアブラハムを試練に会わせられた”(創世記22:1)と書いています。 “tempt/誘う(英語訳)”のヘブライ語の主要な語源は、“test/試めす”(Strong)を意味しています。 マックギー博士は、“tempt/誘う、は多少強すぎる、ヤコブは彼の弟子達に、神は決して誰も悪を行うよう誘われることは無い事を明白にしています。 神は人々を、彼らの信仰を試すように試みかれるのです。 神はアブラハムを試されました”(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1981, volume I, p. 90)。
私達の今日のテキストは、神がアブラハムを試される四つの大いなる試練を示しています。 それぞれの試練は、彼が慕っている物事の放棄が伴っています。 最初に、彼は自分の家族と彼の生まれ故郷を去るように告げられました(創世記12:1)。 二番目に、彼の甥ロトから別れるように告げられました(創世記13:1-18)。 三番目に、彼はイシュマエルへの計画をあきらめるよう告げられました(創世記17:17-19)。 四番目に、ここで彼は愛する我が子イサクを全焼のいけにえにするよう告げられました。 アーサー・ピンク(Arthur W. Pink)は、このように書いています、
信者の生涯は試練の連続である、なぜなら試練によってのみクリスチャンの特性が成熟されるからである。しばしば、一つの究極の試練がある、全ての他の試練は準備であると見る。アブラハムにとっても同じであった。彼は何度も何度も試された。神の要求は“わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ”(箴言23:26)であった。我々の知性、我々のタレント、もしくは金銭ではなく、我々の心である。 神は、われわれの応答の真実性を証明する為に、我々にとって特別に身近な、そして愛する物事に御自分の手をかけられる、なぜなら神はただ口先だけではなく、心からの真実を要求されるからである。そのように神はアブラハムを取り扱われた(Arthur W. Pink, Gleanings in Genesis, Moody Press, 1981 edition, p. 226)。
人が福音を聞く時、常に、初めに大きな試練があります。 イエスは、“あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません”(ルカの福音書14:33)と言われました。 それは、あなた方は何よりもキリストを求めなければならないと言うことです。 あなた方の愛する罪を放られなければなりません。 この世の所有物は二の次とならなければなりません。 隠された道楽はあきらめられなければなりません。 あなた方はそれらの事に仕えながらクリスチャンになる事はできません! ある人は、“しかしそれは私の出世の妨げになるかも知れない”というでしょう。 イエスは、“あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません”(ルカの福音書16:13)と言われました。 またイエスは、“だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい”(ルカの福音書9:23)とも言われました。 これが、多くの人々がつまずく箇所です。 彼らは何も犠牲にしないでクリスチャンになりたがるのです。 彼らの生き方を変えずに救われる事を願うのです。 彼らは罪を続けながら、同時に回心したいと願っているのです! それは不可能なことです! そうすることは出来ません! 思いもよらない事で、疑問の余地もあません。 そして道理に合わない矛盾した事です! “あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません”(ルカの福音書14:33)。
それが正に、モリヤの山でアブラハムが直目した事では無いですか ? 神はアブラハムを試されました。 彼は、この世において最も彼が慕ったもの、彼の一人息子を断念しようとしましたか? 神は、“あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、・・・そして・・・全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい”(創世記22:2)と言われました。 その様にあなた方もそのような試練に直面するでしょう。 あなた方の慕う罪をとり、それを全焼のいけにえとして捧げなさい。 あなた方はそう出来ますか? そうしなければあなた方が真のクリスチャンになる事は無いでしょう。 それを保持するならば、あなた方は決して回心しないでしょう―決して! ああ、あなた方の祈りがこの古くからの賛美歌に共鳴しますように!
主よこのみいままたくし
すみたまえわがこころに
すべての偶像をくだきて
かたしめよ あしきものに・・・
・・・ささげていのるわがみに
なしたまえきよきみわざ・・・
(“Whiter Than Snow” by James Nicholson, 1828-1896).
II. 二番めに、この言葉は神の愛について語っている。
アブラハムが愛する息子イサクを神へのいけにえに捧げるときに、彼が感じた心痛を考えて見て下さい!
“あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、・・・全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい”(創世記22:2)。
アーサー・ピンクは、“この節は、神の御子だけではなく、父なる神を私達に示している数少ない旧約聖書の典型(タイプ)の中の一つである。 ここで[旧約聖書のどの箇所以上に]、私達は御父の思いが暗示されている。 ここで、私達はカルバリーでの神の立場からのその様なすばらしい予示を知る事が出来るのである”(Pink, 同著, p. 222)。
“私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が”(ローマ人への手紙8:32)。
その時に、創世記22章で、私達は神がどうのように感じられたを知ることが出来ます。
ピンク氏は、“何と神の御魂はいけにえと捧げる者を求められるであろうか、典型[アブラハム]、そして非典型[父なる神]、 そこには完全なる[相似]があるように―‘あなたの子’-‘あなたのひとり子’―‘あなたの愛している!・・・真にこれが創世記第22章の心髄である。 この章にて、アブラハムはイサクよりも更にもっと重要視されている・・・それは、ここで最も著しく示されている父親の心からの[愛]である”(ピンク、同著)。 イエスが十字架につけられた時、父なる神が感じられた悲痛と悲哀が、父なる神の典型(タイプ)であるアブラハムを通して示されている。
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである”(ヨハネの福音書3:16)。
その章は、私達に信仰の試練と父なる神の愛を示しているのです。 しかしそれだけではありません。 なぜならこの章は非常に深みのある章だからです。
III. 三番目に、この章はキリストの死への服従について語っている。
“イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした”(創世記22:7-10)。
イサクがどんなに従順にいけにえと進んで行ったかを知るでしょう。 イサクは典型(タイプ)で、イエスは典型(タイプ)の成就、非典型(アンチ・タイプ)なのです。 イサクは、キリストのように従順に彼の死へと進みました。 預言者イザヤは、キリストは、“ほふり場に引かれていく羊のように”と言っています。 イサクは、彼の父親が彼を縛った時、自分を防御しませんでした、そうして彼を“祭壇の上のたきぎの上に置いた”(創世記22:9)。 ピラトがイエスに尋ねた時、“イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた”(マタイの福音書27:14)。 そしてイザヤは、“彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない”(イザヤ書53:7)と書いています。
イサクがたきぎを背負った事に注目して下さい。 この章は、“アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ”(創世記22:6)と書いています。 何と、十字架をはりつけの場まで背おられたキリストを描写しているではありませんか! ここで私達は、“自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われ”た(ピリピ人への手紙2:8)キリストを思わされます。
“悲しみの人”何と言う御名か
神の御子!
堕落した罪人を 取り戻される
ハレルヤ!救い主よ!
(“Hallelujah! What a Saviour!” by Philip P. Bliss, 1838-1876).
更にもう一つの要点が挙げられます。
IV. 最後に、この章 は罪人の代わりとなったキリストの死について語っている。
アブラハムは刀を取って自分の子をほふろうとしました。 それについて私達が読む時、それは、あなた方と私にとっても同様、アブラハムにも不思議に思えました。 アブラハムは人間のいけにえは不正であると信じていました。 それまで、人間をいけにえにするなどとは彼の思いにはまったくありませんでした。 それはアブラハムの心中の真の危機を示しています。 最初に彼はウルのカルデア人の彼の親戚を去るように命じられました。 彼の全家族を去らなければなりませんでした。 アブラハムにとってそれは大きなな試練でした。 あなた方がクリスチャンになった時、頭がおかしくなったのでは、と考えるクリスチャンでない家族を持つ事はどんなものであるかを私は知っています。 ですから私はアブラハムが彼等を去る事に感じた悲痛が理解できます。 そうして、彼の甥ロトとの間に起きた試練がありました。 ロトは彼が一緒にいた最後の親戚でした。 しかし彼とも別れなければならなかった時がやって来ました。 そしてロトはソドムの町へと行きました。 それからハガルによって生まれた彼の息子に関しての試練がありました。 アブラハムは若きイシュメルを愛しており、彼から別れたくありませんでした。 アブラハムは神に、“どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように”(創世記21:12)と願いました。 アブラハムは、神が長い間約束されていた息子を殺さなければならなかったか理解できませんでした。 しかしアブラハムの信仰は非常に強く、彼は“神には人を死者の中からよみがえらせることもできる”(ヘブル人への手紙11:19)と信じました。
分かりますか、あなた方が試練を乗り越える度に、神はあなた方により信仰をお与えになり、あなた方の信仰を増してくださいます。 私の人生の内で数回クリスチャンとして乗り越えられないと思ったことがあります。 それらの時は、大きな失望感と、実際に非常に、非常に重い試練の時でした。 しかし振り返って見ると、神は理由をもって私を試練に会わされていたのだと確信できます。 もし神がそれの大変な試練を乗り越えるために慈悲を与えてくださらなかったとしたら、今の私はなかったでしょう。 それがアブラハムが経験したことなのです。
しかし今、アブラハムが彼の息子をささげるためにナイフを取ったとき、神は突然彼にこう呼ばわりました、
“「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」”(創世記22:12)。
神はこのことの前に、アブラハムは神を恐れることをご存知でしたが、彼の家族とイサク自信は、彼らが、アブラハムが忠実にこの並外れたいけにえを捧げるのを見るまでは、確かではありませんでした。 それが、使徒ヤコブが、アブラハムは“・・・行ないによって義と認められたではありませんか”(ヤコブの手紙2:21)と言った理由です。 彼の信仰は彼のよい行いを醸し出したのです。 ヤコブが、“信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです”(ヤコブの手紙2:17)と言った理由です。 アブラハムは、イサクをいけにえに捧げることによって、神に忠実であるその行いによって自分の信仰を証明しました
しかし待ってください! これが、私が過去にこの章を読んだときに困惑したことです。 その典型(タイプ)がどのようにイサクから雄羊に代わったのか、ということです、なぜなら聖書にはこのように書かれています、
“アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた”(創世記22:13)。
私達の身代わりのいけにえとしてのキリスト典型(タイプ)は、イサクからその雄羊に代わりました。 ルーポルド博士が、“その章からの説教で、少なくとも二つのアプローチの仕方が可能である”と言われたとき、私は閃きました。 実際には、少なくとも四つのアプローチを私は見つけました。
その典型(タイプ)はここで代わりました、そして、イサクは、罪人を死にとがめる神の律法にとがめられた、罪人の典型(タイプ)になりました。 そうです、イサクはすべての人がそうであるように罪人でした。 聖書は、
“罪から来る報酬は死です”(ローマ人への手紙6:23)と言っています。 これは何とすばらしい典型(タイプ)でしょうか! 罪人のイサクは、アブラハムが“行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげ・・・”(創世記22:13)、その雄羊によって神の律法のさばきから免れられたのです。 新約聖書は、“キリストは、・・・私たちの罪のために死なれた”(コリント人への手紙第一15:3)と語っています。 そして使徒ペテロはこう言いました、
“キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです”(ペテロの手紙第一3:18)。
創世記22:14に注視してください、“そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた”と言う意味は、“「主の山の上には備えがある」”という意味です。 神は、罪を負うものとして、あなた方に代わるためにイエスをご提供なされました。 ちょうど神が雄羊をイサクに代わるためにご提供されたのと同じです! イエスを信頼しなさい、そうすれば彼はあなた方の代わりになって、あなた方の罪の罰を十字架で贖うのです! 私の祈りは、あなた方が罪に背を向け、イエスを今信頼することです。 彼は、あなた方の罪をゆるすために、そしてあなた方を神に連れて行くために、あなた方に代わって死なれたのです!
あなた方は、キリストを信頼したら多くのことを変えなければならなくなると、恐れるかもしれません。 もしその試練に合格しなければ、あなた方は決して救われることはないでしょう! あなた方はその恐怖に立ち向かい、大胆にキリストに来なければなりません。 躊躇ってはだめです! 信仰でもって自分自身を救い主に投げ入れなさい。 彼はあなた方を神の怒りから、そして罪の裁きからお救いになられるでしょう。 イエスの御血は、あなた方をすべての罪から清められます。 十字架でのあなた方に代わる彼の死は、あなた方の罪の代価を支払い、あなた方は決してさばかれないのです。
もしあなた方が真のクリスチャンになる興味を持っているのでしたら、席を立ってこの集会場の後ろへ行ってください。 ケイガン先生は、私があなた方の持っている質問に答え、祈りを挙げられる静かな部屋へ案内します。 チャン先生、これらの人達の回心のために祈りをしてください。 アァメン。
(説教終了)
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アベル・プルードム氏による説教前の聖書の朗読:創世記22:1-13。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“He Bought My Soul” (by Stuart Hamblen, 1908-1989).
要 綱 イサクによるいけにえ (創世記シリーズ、その70) R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 “これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」”。 (創世記22:1-2、新改訳) (創世記22:10-13) I. 最初に、この話は試される信仰について告げている。 II. 二番めに、この言葉は神の愛について語っている。 III. 三番目に、この章はキリストの死への服従について語っている。 IV. 最後に、この章 は罪人の代わりとなったキリストの死について語 |