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罪人のためにパンを請うこと R. L. ハイマーズ Jr. 神学博士 著 ASKING BREAD FOR SINNERS ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて |
聖書のルカによる福音書第11章5節を開いてください。 神の御言葉を読むために、起立してください。
“そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」”。(ルカによる福音書第11章5-13節)
着席して下さい。
私は先週、宗教とパブリック・ライフに関するピュー・フォーラム(Pew Forum)による調査を読みました。 それにはアメリカのプロテスタント教徒の数が過去40年間で14パーセント減少したという事が書いてありました。 1972年に、アメリカ人の62パーセントがプロテスタント教徒でした。 現在その数は48パーセントに落ち、その間に14パーセント減少したのです。 ユナイテッド・メソジスト教会は、過去10年間だけで約80万人減少しました(Los Angeles Times, October 10, 2012, p. AA1) 。 そのレポートは、教会に行く事を止めてしまった人達が、“宗教組織が金銭、権力、支配、そして政治にあまりにも関わりすぎている事に対する落胆を強烈に表している”と書いていました。 そのレポートは、多くの人々が、彼らの霊的な必要性はプロテスタント宗派の教会で今日満たされていないということを暗示しています。 それは特に、群れを成して教会去っていく若者達に対して真実とされています。
私達が読んだ聖句は、多くの若者達が教会を去っていく理由を挙げています。 6節でイエスはこのような理由を挙げています、
“友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから”(ルカによる福音書第11章6節)。
何と言う自白ではありませんか! “何も出すものがありませんから”。 それが多くの若者達が、今日教会へ訪ねて来た時に感じる事なのです。 彼らは単に、教会は彼らに必要なものは何も与えていないと感じるのです! 彼らが全て耳にする事は金銭、支配、そして政治なのです! 教会には、政治的な気づかい、もしくは活気の無い聖句ごとの聖書研究以外、彼等を満足させるものは何一つなく、彼らに差し出すものは何もないのです! 何も出すものはありません! 力もありません! 現実性もありません! 活気もありません! 何も出すものはありません!
私が十代の時に初めて教会へ行った時、その様に私は感じました。 私が13才の時に、隣近所の人達が私をバプテスト教会に連れて行ってくれました。 そこの若者達の活動の為に何年かその教会へ私は通いました。 しかし、神についてほとんど何も考えませんでした。 その教会には私を霊的に引き寄せるようなものは何一つありませんでした。 最終的に、私は完全にその教会へ通うのを止めてしまおうかと考えました。 しかし、中国への草分け的宣教師ハドソン・テイラーの自伝とジョン・ウェスリーの日誌の短縮版を読み、彼らの生きたキリスト教信仰のために心を奪われました。 キリストを求めて滅びの町から逃げ出した時に、“いのち! いのち!”と叫んだ、『天路歴程(Pilgrim’s Progress)』で描かれた若者のように私は感じました。 霊的な活力を捜し求めて、私はチャイニーズ・バプテスト教会に加入しました。 その教会に加入してまもなく、ティモシー・リン先生が牧師となられました。 リン先生は、祈り、キリストの来臨、そしてその他の霊的な主題を強調されました。 その頃、バイオラ・カレッジのチャペル集会で、チャールズ・ウッドブリッジ博士によるキリストの来臨ついての力強い説教を聞いた時に私は回心しました。 その集会で、そしてチャイニーズ・バプテスト教会で、私は霊的な食物をやっと見出しました。 それ以前にも、私は他のバプテスト教会に通いましたが、彼らは私に何も与えてくれませんでした! 教会はただ習慣に従い、説教や聖書研究には全く活力がなく、私の魂に与えてくれるものは何もありませんでした。 それは精力的で挑戦に値するような宗教ではありませんでした。 その教会に行く事は、退屈で無駄な体験でした。 私のような若者を魅了するようなものは何もありませんでした。 そこで、スコーフィールド・スタディ・バイブルが“しつこい友人の喩話”と言っている私達の今朝の聖句へ導きます。
このたとえ話の中で、ある人の友人が夜中に彼を訪ねてくるのですが、その人には友人に与えるものは何もなく、パンもありません。 それで彼は近所の友人の家に行き、扉を叩き、“友よ、パンを三つ貸してください”と頼みました。 閉ざされた扉の内側から、もう床に入っているので出ていきたくないというのを聞きました。 しかしその人は断りの言葉を聞き入れませんでした! 彼は近所の人が起きて、友人に必要なパンを彼に与えるまで扉を叩き続けました。 イエスはこのたとえ話をこのように応用されました、
“そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである”(ルカによる福音書第11章9-10節) 。
そしてイエスは、“天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか”(ルカによる福音書第11章13節)と、そのパンが聖霊を指していることを告げられてこのたとえ話を終えられました。
あなた方の多くは、今朝初めてここに来ています。 そして、あなた方の多くはこの教会に一週間しか来ていません。 私達自身も、キリストの弟子になるかもしれないあなた方の魂を満足させるものは何一つない事を打ち明けなければなりません。 このたとえ話の中に出てくる人のように、あなた方の霊的な飢えを満たすものは私達には何一つないのです! もし私達が自分達自身に頼っているならば、幾つかの賛美歌、説教、そして誕生日パーティ以外に、あなた方に与えるものはありません。 私達には、何の力も、そして生活を変えるようなものは何一つありません。 ですから私達は神に打ちあけなければならないのです。
“友だちが・・・わたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから”(ルカによる福音書第11章6節)。
そして私達があなた方の為に祈る時、神は私達に、“面倒をかけないでくれ。 もう戸は締めてしまったし、・・・いま起きて何もあげるわけにはいかない”(ルカによる福音書第11章7節)と神は私達に言われているように思われます。 神は私達が毎週土曜日に、断食をし祈っていても、私達に答えられません。 時にはあきらめたいと思うことを、私達は認めなければなりません。 私達があなた方にパンを差し出せるように祈る時、悪魔は様々な障害を私達の前に投げつけます。 悪魔は私達の祈りが聞き入られる事をやめさせようと、毎週新たな壁を作っているように思えます。 先週末には、悪魔は、絶え間のない祈りについての説教を止めさせようと、正に私を交通事故で殺そうともしました。 “悪魔の策略に対抗して立ちうる”(エペソ人への手紙第6章 11節)事は、非常に困難であることを見出しました。 そして神は、未だ私達のあなた方の為の祈りを聞き入れていないように思われます。
しかし、クリスチャンである兄弟姉妹はこのたとえ話の中でイエスが私達に語られていることを思い出さなくてはなりません。
“しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう”(ルカによる福音書第11章8節)。
ギリシャ語の“しきりに願う”は、“羞恥心なく固執すること”という意味です。 レンスキ博士(Dr. R. C. H. Lenski)は、このように書いています、
この物乞いは、友人関係以上のやり方でその友人に面倒を掛けることも恥としなかった。けれども彼の恥知らずなやり方のゆえに、彼はよい結果を遂げた。この描写は祈りへの強固な激励である、何も祈ることを留まらせないように;そしてその激励はイエスが9節で明白に告げられたように、私達の祈りが聞かれる事の暗黙の約束に置かれている(R. C. H. Lenski, Ph.D., The Interpretation of St. Luke’s Gospel, Augsburg Publishing House, 1961 edition, pp. 625-626)。
“[恥も外聞もないしつこさ]のゆえに、 起き上がって必要なものを出してくれるであろう” アァメン! 私達は、恥も外聞もなく祈り続けなければなりません! 9節と10節で、イエスは明白にこのように話されました、
“そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである”(ルカによる福音書第11章9-10節)。
力強い祈りの“恥も外聞もないしつこさ”が、祈ったとおりに聞かれるのです! キリストは祈りの中で、求め、探せ、そして叩くように私達に告げられました。 ジョン・ライス博士(Dr. John R. Rice)は、“私達はこれらの聖句を‘私はあなた方に言う;求め続けよ、そうすればそれは与えられるであろう。 叩き続けよ、そうすれば、開けてもらえるであろう。 なぜなら、求め続ける者はみな与えられ;叩き続けるものに、それは開かれるであろう’と解釈すべきである。 ギリシャ語の表現では、求め続け、探し続け、叩き続けることを含めている。 恵みなる確信で、神は求め続ける者はみなすべてに与えられ、捜し続ける者は全て見出すであろう、そして罪人へのパンの為に、門を叩き続ける者はみなすべて開けてもらえ、パンが与えられるであろう。 その通り、彼が罪人に必要なパンはいくらでも、神は彼に送ってくださるであろう!”(John R. Rice, D.D., Prayer: Asking and Receiving, Sword of the Lord Publishers, 1970 edition, pp. 94, 95)。マーティン・ロイド・ジョンズ博士(Dr. Martyn Lloyd-Jones)は、こう言われました、
私は特に、リバイバルに関し何世紀を隔てて神が用いられた人達の伝記を読むことをあなた方に勧める。そこにおいて、あなた方はその同じような清い大胆さを見出すであろう・・・あぁ、それが祈りの完全なる秘訣であると私はしばし考える。[清教徒]トーマス・ グッドウィン(Thomas Goodwin )は、エペソ人への手紙第1章13節の聖霊の証印に関しての解説で、すばらしい表現法を用いている。彼は“それを彼に訴えよ、それを彼に訴えよ”と言っている。[神]を忘れてはならない。それが神の約束であったように、神にうるさくせがめよ。神が成すと言われた事を、神に告げよ 。聖句を彼に引用して述べよ。それは神を喜ばすであろう。子供は多少無礼かも知れない、気にしてはならない。それにも関わらず父親は子を好む。神は私達の父であり、彼は私達を愛しておられる、そして神は私達が御自身の約束を主張する事を好まれる。神に向かって御自身の御言葉を引用し、そしてそれに照らして言う、[私を聞かれることを]差し控えられるであろうか?それは神の心を喜ばせる。神に訴えよ![それは、神があなたの祈りを聞かれる事の要求である、なぜなら、神は祈りを聞かれる事を約束されたからである!](D. Martyn Lloyd-Jones, M.D., Revival, Crossway Books, 1987, p. 197)。
では、9節と10節を引用して、説教を続けましょう、
“そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである”(ルカによる福音書第11章9-10節)。
そして、こう言いなさい、“神よ、もし求め続けるならば、あなたは私が求めたものを与えてくださると約束されました”。 もし祈りの中で叩き続けるならば、あなたは門を開け、私が求めているものを与えてくださると約束されました。 神よ、今あなたはご自身の言われた言葉を守られることを、私はあなたに問います。 私は求めています。 私は叩いています。 あぁ、神よ、私はあなたが門を開け、私が求めているものを与えてくださることを知っています。 あぁ、神よ、あなたは言われました、求め続けるものはすべて与えられると。 今わたしは、あなたが言われたことをしています、神よ。 私はあなたに求め続けています。 あなたは、ルカによる福音書第11章10節で、私が求めるものを私は受ける、と約束されました。 あぁ、神よ、あなたはその聖句で約束されたことをされることを、私は知っています! 私の求めているものを与えてくださることを確信します。 あなたは、ご自身の約束により、そうされることを私は確信しています! あなたはそうされることを私は確信します! あなたはそうされることを私は確信します! 私が祈り求めているものを下さるまでは、私はあなたを困らし続けるでしょう! それが、神が天国の門を開けリバイバルを注ぎ下されたときの、古き時代の祈り方だったのです。 それが、今日の中国で祈られている祈り方なのです。 毎週数万人の人達が回心をしているのも不思議なことではありません! そこではクリスチャンは、神が彼らの求めているものを与えてくださるまでは、恥も外聞もなく天国の門を叩いているのです!
夜半、友のために諦めずに求めている“パン”とは何なのでしょうか? 彼が求め、探し、叩き続けている、そのパンは聖霊なのです! 罪人に必要なものは他にありますか? 13節の終わりのところでキリストは、“天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」”(ルカによる福音書第11章13節)と言われました。 スコーフィールドの注釈は、この的を射ていません。 祈りのひとは、自分自身のために聖霊を求めているのではありません。 6節にあるように、彼はまだ救われていない友のために聖霊を求めているのです。
“友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』・・・”
実際、あなた方の祈りに答え、もし神が聖霊を下さらないならば、あなた方には、失われている罪人へ与えられる物は何もないのです! ジョン・ライス博士はこう言いました、
イエスはこの説教の終わりになるまで、祈りについての教えを正確な言葉で言われなかった。彼は弟子たちに、真にリバイバルを齎し、罪人を悟らせ、彼らを回心させる、そして、知恵を与え、神の人へ力とリーダーシップを与える聖霊のために祈ることを教えていた!われわれが罪人のためにパンを祈るとき、われわれに・・・神の聖霊が必要であることを、本当に意味するのである(ライス、同著、p. 96)。
今私は、まだ救われていないあなたに話をしています。 聖霊は、そのたとえ話の中でパンによってシンボル化されています。 聖霊があなたにとって最も必要なものなのです! もし聖霊が、私達の日曜礼拝中にあなたに降り下らなければ、あなたは決して罪を悟らないでしょう。 イエスはこう言われました、
“それがきたら、罪・・・について、世の人の目を開くであろう”(ヨハネによる福音書第16章8節)。
私達は、聖霊が降り下って、あなたのような罪人がこころの中の恐ろしい罪を感じ、また、あなたが惨めで罪深いものであることを感じさせるよう祈っています。 もし聖霊が決してあなたをそのように感じさせないならば、あなたは決してキリストが必要であることを感じないでしょう。
それからまた、私達は神の御霊が完全な救いのためにあなたをキリストに引き寄せられることを祈っています。 イエスはこう言われました、
“わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない”(ヨハネによる福音書第6章44節)。
ですから私達は、あなたをイエスに引き寄せるために、神が聖霊を送られることを祈っているのです。 なぜなら、イエスだけが、あなたを罪と地獄から救うことが出来るからです。
今までのところ、あなたは福音の事実を聞いただけです。 あなたは、イエスはあなたの罪の罰を贖うために十字架で死なれたことを聞いただけなのです。 あなたは、イエスの御血はあなたのすべての罪を洗い清め、神の御前に義とされることを聞いただけなのです。 あなたは、イエスは死からよみがえり、次元の異なった天国へ昇天し、あなたのために祈られていることを聞いただけなのです。 あなたはこれらの事実を聞くだけで、実際には決して体験をしていません。 もし毎週日曜日にただ座ってそれらのすばらしい事実を聞いているだけならば、あなたは決してそれを体験することはありません。 それらの事実を聞く以上の何かがあなたに起らなければ、あなたは決して救われることはありません!
聖霊は降り下り、あなたを罪深いものと感じさせなければなりません。 聖霊は降り下り、あなたをイエスに引き寄せなければなりません。 聖霊は、生きているキリストとの神聖な出会いをあなたに与えなければなりません。 あなたがキリストに引き寄せられるには、奇跡を要します。 あなたが生まれかわるには、奇跡を要します。 そして、神の御霊だけが、あなたの人生に奇跡を起こすことができるのです。 もし私達の礼拝で、聖霊があなたの霊的な必要に見合うために降り下らないならば、私達はこのように祈ります、
“友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』・・・”(ルカによる福音書第11章6節)。
昨日、あなたの救いのために断食をし祈りをしたのは、そのためだったのです。 私達は求め続けます。 私達は探し続けます。 私達は、神が天国の門を開け、あなたを回心させるために聖霊を送られるまで、叩き続けます。 イエスは言われました、“天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」”(ルカによる福音書第11章13節)。 そして、私達はあなたのために祈ります。 私達は、聖霊が降り下りあなたを罪の悟りに置かれ、キリストに引き寄せ、奇跡の回心をあなたが体験するよう神に求めています!
起立してください。 リーさんが、神は聖霊を送られてあなたを罪の悟りに置き、イエスの尊い御血でもって罪から洗い清められるために、彼に引き寄せられるよう祈ります。 (リーさんの祈り) 『すくいぬしにましませど』の合唱の部分を歌いなさい。
われいのれり われいのれり
われいのれり ながために
(『すくいぬしにましませど』“I Am Praying for You”
by S. O’Malley Clough, 1837-1910).
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の祈り:
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“I Am Praying for You” (by S. O’Malley Clough, 1837-1910).