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聖書で預言された、教会の背教

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

APOSTASY IN THE CHURCHES –
FORETOLD IN BIBLE PROPHECY

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2012年6月10日、主の日の晩の説教

“だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教(反逆、新共同訳)のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。”(テサロニケ人への第二の手紙第2章3節)

テキサス州ダラス市のファースト・バプテスト教会で、長年牧師を務めた有名なクリスウェル博士(Dr. W. A. Criswell)はこのように言いました、

‘反逆(新共同訳)’という語句は‘背教(口語訳)’とも訳されるであろう。その定冠詞[すなわちthe]は、使徒パウロがある特定の一つの背教を考えていた事を示唆している。それは、‘主の日’が来る前に、信者と名乗る人々の明白なる背教が起こるであろうと言うことである(The Criswell Study Bible, Thomas Nelson Publishers, 1979; note on II Thessalonians 2:3)。

“背教(apostasy)”という言葉は、ギリシャ語の“apostasia”から来ています。 それは、“聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰”(ユダの手紙第 3節)からの、“反逆”もしくは“見捨てること”という意味です。 使徒パウロは“まづ”、不法の者、反キリストが“出現”する前に、それは起こらなければならないと言っている事に注目して下さい。 ですから、大いなる艱難の時、反キリストが出現する前に、ある特定の信仰からの背教が“まづ”起こらなければなりません。 チャールズ・ライリー博士は、その背教は“神に対する侵略的な・・・反逆が、不法な者の出現への進路を備えるであろう”(The Ryrie Study Bible, Moody Press, 1978; note on II Thessalonians 2:3)と言っています。

この最後の背教は、大艱難の時に突然やって来るものではありません。 それは18世紀に起こり、“理性の時代(the Age of Reason)”として特徴付けられている“啓蒙思想 ”と呼ばれる動きによって起りました。 その動きによって、神の啓示された御言である聖書の信仰が、人間の理性に取って代えられたのです。 ハロルド・リンゼル博士(Dr. Harold Lindsell 、1913-1998)の著作、『The New Paganism』の中で、その啓蒙思想は、“・・・初期の教会がなした事を裏返して、新たな異教信奉を、ヨーロッパや西洋一般にもたらすであろう;この新たな異教信奉が、教会を主要な宗教と文化的地位から異動させ、現在私達が呼んでいるポスト‐クリスチャン時代へともたらされた。 西洋世界での[啓蒙思想による影響の結果として]クリスチャンの信仰は、非常に多くの異教の中に存在しており、その状態は改善されていない。 それはむしろ悪化しつつある”(Harold Lindsell, The New Paganism, Harper and Row, 1987, p. 45)と書いています。 過去300年間、“啓蒙思想は、生死を駆けた奮闘によってキリスト教に挑んできた”(リンゼル、同著)。 今日、私達は未だに、その“生死を駆けた奮闘”の中に生きています。 

三人の人物が啓蒙思想の動きから現れ出ました。 すなわち、ヨハン・セムラ (Johann Semler, 1725-1791)、チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin, 1809-1882)、そしてチャールズ・フィニー(Charles G. Finney, 1792-1875)です。 セムラーは、聖書の権威を蝕む、歴史的・批判的方法の確立者でした。 ダーウィンは、特別な創造物としての聖書の中での人間の見解を取って代えた、進化論の提唱者でした。 フィニーは、恵みによる救いを、人の努による救い、すなわち古代ペラギウス(354-418 AD)異端へと戻る決断主義の父でした。

聖書への批判、進化論の受け入れ、そして決断主義の出現などが、過去200年間にわたり信仰からますます離れ、回心していない人々によって教会を満たし、英語圏の国々の今日の背教を結果として生じさせています。 この説教の中で私は、“主流”の教会での完全なる背教、そして福音主義派内で増しつつある背教について手短に論じます。 “まず背教(反逆、新共同訳)のことが起り”(テサロニケ人への第二の手紙 第2章3節)。

I. 最初に、“主流”の教会での完全なる背教。

“主流”とは、長老教会、メソジスト教会、英国教会、(バラック・オバマを生み出した)アメリカ基督教団、ルター主義派から発生した主な宗派、アメリカン・バプテスト宗派、そして(ジミー・カーターのような人間を創り上げた)“穏健な”南部バプテスト宗派のような、重要な宗派を意味しています。 ペテロの第二の手紙第2章1節では、 

“しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている” (ペトロの第二の手紙第2章1節)。

その聖句に関して、ジョン・ウォルボード博士(Dr. John F. Walvoord, 1910-2002)は、このように語っています、

      この預言は、ただ単に不信仰な世の中での不信を予測しているのではない。それは教会の歴史の過程で、見せ掛けの教師達の中に、主要な教義を否定する人達が現れるであろうことを予言している。この聖句[ペテロの第二の手紙第2章1節]の中で、我々の注目は、彼らが、信仰や彼らを贖われた主を否定する有害な異教を教えるという事実に、向けられる。(1)人なるイエス・キリストを否定する人、(2)そして、キリストは我々の罪の為に十字架で死なれ、彼御自身の尊き御血でもって我々を贖われたことを否定する人は、ある些細な、もしくは二次的なキリスト教の教えをもてあそんでいるのではなく、正にその真髄なる教えに対応しているのである。聖書の定義によるキリストなる人、そして御業を否定する人は、全くクリスチャンではない。彼は反キリストであり、彼は福音に対抗しており、彼は異端者、不信者である・・・。
      彼らは、イエス・キリストは神の御子ではなく、彼の十字架での死は、我々の罪の神のゆるしとは関わりがないと教えている・・・大学等での聖書学科の教授達は、障害なしに、彼ら自身を無神論者と宣言している。教会の学校の聖書学科における無神論は、今世紀における新たな教えである。多くのクリスチャン達は、教会に潜入して来た不信者の度合い、深刻さ、そして人間なるキリスト、また十字架における私達の為に成された彼の行いなどの主要な教義に対する広範囲に及ぶ否定に気がついていない。ペテロは随分前からこの事を予期していた。[ペテロの予期の]成就を今尚待つ必要は無い。それはすでに成就されたからである。 
      神学者達が、彼らは無神論者である事を公表するだけでなく、彼らは聖書の神は死んでおり、存在しない、なぜなら実際神は存在しなかったからである、と宣言している。 また、彼らは聖書の道義は滅びているとも教えている。彼らは、現代に適切な道義が 今日必要であると主張している。特にセックスなどに関するような古くからの道義をはねつけるよう主張し、現代的なもしくは自由な道徳上の規範を導入している。今日の人々は、教会の代弁者と自称する人達からこのような教えに非常に熱心に耳を傾けている。なぜなら、それは神に模られて創造された人間のようではなく、動物的な水準で生きるような自由奔放さを彼らに与えているからである。我々は、不道徳が道徳のように言明され、聖書の教えを無視した生活を、新たな水準としている世代に生きている(John F. Walvoord, Th.D., in Prophecy and the Seventies, edited by Charles L. Feinberg, Th.D., Ph.D., Moody Press, 1971, pp. 112-115)。


ウォルボード博士はそれを40年以上も前に書きました。 彼は非常に有名な神学者であり、ダラス神学セミナリーの会長を務めました。 私は彼を個人的に知っており、私達の教会でも彼は話されました。 彼が言った事は正にその通りである事を私は知っています。 なぜなら、私は二つのリベラル主義派の神学セミナリーを卒業したからです。 “主流”と称する教会が現在、同性愛の人達の聖職授任やゲイ同士の結婚を主張している事は人々を驚かせるでしょう。 しかしそういう事に私は驚きません。 彼らがそのように向かって行く事を、40年前から私は気がついていました。

ですから、今日私達は“主流”の宗派での完全なる背教を目の当たりにします。 それらの教会の中には、数人の真のクリスチャン達が見られるかも知れませんが、年が経つにつれますます減っいきます。 ウォルボード博士が福音の主要な教えを否定している人について言っている様に、“[彼は]全くクリスチャンではない・・・彼は異端者、不信者である”のです。 あなた方がカリフォルニア州パサデナ市の通りに行って大きな古い教会の建物を目にする時、それらはほぼ全て、救われていない男性(そして女性)によって導かれ運営され、それが神学リベラル主義の邪悪な状態へと陥ってきたのです。 パサデナ市にあるフラー神学セミナリーの教授達についても、それはますます真実なこととなっています、

“だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教(反逆、新共同訳)のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない”(テサロニケ人への第二の手紙第 2章3節)。

19世紀にスポルジョン(Spurgeon, 1834-1892)は、“教会は、近代の異端の激怒した愚かな人々のもとで埋められた状態である”(“The Blood Shed for Many,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1974 reprint, p. 374)と言いました。 1901年に、当時の救世軍創立者ウィリアム・ブース(William Booth, 1829-1912)は、このように書いています、

      20世紀の最も主要な危機は、聖霊なしの宗教、キリストなしのキリスト教、悔い改めなしの罪の許し、再生のなしの救い、神なしの政治、そして天国なくしての地獄となるであろう(The War Cry, 5 January, 1901, p. 7)。

19世紀に生きたこれら二人の聖職者は、今日の私達の教会の中で真実と成った事を予期しました。

II. 次に、福音主義派の教会 などで増えている背教。

福音主義者達は、最近まで、人なるキリストと彼の御業に関する根本的な聖書の教義を宣言してきました。 しかしながら、今日多くの福音主義派の間で、皆がそうではありません。 自分自身の目で、過去50年間の内に真実となってきたこれら六つの預言を私は見てきました。 多くの福音主義派の教会で増えているこのような廃れた状態を挙げていく事は、非常な苦痛を私に与えます。

1.  多くの福音主義者達は、回心していません。 十人のおとめのたとえ話は、終わりの時のひどい真実を描写しています。 “五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった”(マタイによる福音書第25章2節)。 彼らの中の五人は、油によって示されているように、聖霊に満たされていませんでした。 花婿であるキリストが戻ってきた時、彼は思慮の浅い者たちに、“わたしはあなたがたを知らない”(マタイによる福音書第25章12節)と言いました。 哀れにも、今日の邪悪な時代には、多くの福音主義者達は回心しておらず、イエス・キリストが再臨される時、会う用意が出来ていないのです。 クリスウェル博士(Dr. W. A. Criswell)は、75パーセントの教会員は不信者であると言いました。 トーザー博士(Dr. A. W. Tozer)は90パーセントが救われていないと言いました。 若きビリー・グラハムは、福音主義者達の85パーセントは失われていると言いました。 クリスチャンの指導者達によるこれらの推定は、今日の福音主義派の嘆かわしい状態を表しています。 

2.  “花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった”(マタイによる福音書 第25章5節)。 キリストが、“彼らはみな居眠りをして、寝てしまった”と言われた事に注目して下さい。 ジョン ・ウォルボード博士は、“かっては午後の集会も活気があった教会でも、今日日曜日の午後の集会は冷たく廃れている。 今日多くの教会は、週に一度の集会、日曜日の朝の礼拝しかない・・・。 我々は、教会が多くの問題を抱えている時代に生きている”(同著、p. 112)。 また伝道する人達はどこにいるのでしょうか? ロスアンゼルスでは、私達の教会以外に、全ての教会員が出て行く伝道のプログラムのある教会を一つも知りません。 そのような状態ではなかった時の事を覚えています。 しかし現在はそうなのです。 神が我々を助けてくださいますよう!! “彼らはみな居眠りをして、寝てしまった”(マタイによる福音書第25章5節)。

3.  “また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう”(マタイによる福音書第24章12節)。 ほとんどの教会はフェローシップをもちませんし、週ごとの伝道にも出かけません。 それは、教会員の間でお互いを思う気持ちがないからで、失われた人たちへの愛が欠けているからです! 私の長年の牧師で、神学校の教授で学長でもありましたティモシー・リン博士は、“我々の主を信頼するということは、しなければならないことだが、お互いを思いやる愛もまた、なければならないことである・・・終わりの時の教会が、このことを三度考えるように”(Timothy Lin, Ph.D., The Secret of Church Growth, First Chinese Baptist Church, 1992, pp. 28, 29)と言われました。 “また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう”(マタイによる福音書第24章12節)。

4.  “しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」”(ルカによる福音書第18章8節)。 リン博士は言いました、“この聖句の文脈は明白に、ここでの‘信仰’とは祈りの中の信仰に言及している。 そして、我々の主のこの御言葉は、再臨の際には教会には祈りの信仰が見られないであろう、という悲嘆の御声である”(同著、pp. 94, 95)。 再び博士は、“人はしばしば、家で一人で祈りをすることと、教会で信者と一緒に祈りをするこことは・・・違いはないと言う。 そのような発言は、怠惰な自己的な考えか、祈りの力を無視するものの考えである!”(同著、p. 92)と言いました。 ルカによる福音書第18章8節は、終わりの時のクリスチャンは、個人的な祈りと同様、祈祷会を軽視することを表しています。 多くの今日の教会は、週中日の祈祷会ではなく、聖書の勉強会を催しています。 終わりの時代に、このことが事実であることは、何と悲しいこでしょうか!

5.  “主の来臨の約束はどうなったのか”(ペテロの第二の手紙第3章4節)。 ペテロの第二の手紙第3章1-9節の文脈で、ペテロは、“主の来臨の約束はどうなったか”と聞く者たちに影響させられないよう、再臨の預言に“心を配る”ようクリスチャンに書いています。 エド・ドブソン博士(Dr. Ed Dobson)は、終わりのときのしるしとして、“イエスの来臨を軽視する風潮が広まるであろう”(Dr. Ed. Dobson, The End, Zondervan Publishing House, 1997, p. 160)との事実を与えています。 私の同僚のケイガン博士は、40年前には伝道主義派の信者の間には、大いなるキリストの再臨に対する興味があったことを思い起こしてくれました。 “しかし今日、数々のしるしが文字通り日々成就されているが、背教というなか、それらはほとんど全く興味を注がれていない”。 伝道主義派の信者の間でみられるキリストの再臨のしるしを軽視することは、それ自体終わりのときのしるしなのです! そして、この邪悪なときにおける教会員の世俗化のしるしなのです。

6.  “自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め”(テモテへの第二の手紙第4章3節)。 使徒パウロは、“御言を宣べ伝えなさい”(第4章2節)と言いました。 しかし、終わりのときの教会の人々は、しっかりとした御言の説教に“耐えられなく”なり、“耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め”ます。 50年前には、私達の多くの教壇から偉大な説教が聞かれました。 今日の教壇では、聖句ごとの聖書の“教え”だけが聞かれます。 リン博士は、“西海岸の神学校の組織神学の一教授が、‘教えと説教は全く同じものであると思う!’と指摘した。 私はその指摘に同意できない。 教えと説教は異なったカテゴリーに属する。 あの神学校の教授は、教えと説教の違いさえも理解できていない。 そのようなことで、彼の生徒は説教できるのであろうか? その答えは明らかに、‘ノー’である。 今日の多くの神学校卒業生は、教壇で講義だけをすることができ、説教をすることはできない。 説教の仕方を知らない牧師は、料理を知らないシェフと同じであろう! 終わりの時の教会の衰退は、牧師の数が欠けているのではなく、[神から使命を受けていない]牧師が非常に多くいるからなのである”(同著, pp. 20, 21)。


今日、私達は恐ろしいほどの背教の状態を教会の主流派にみます、そして、哀れむべき状態をほとんどの伝道主義派の教会にみます。 もしこれらの状態が聖書の中で預言されているのを知ることがなかったならば、私達は大いに落胆させられることでしょう。 一般に主の来臨のしるしを語るならば、主イエス・キリストはこのように言われました、

“これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」” (ルカによる福音書第21章28節)。

キリストの再臨のしるしは、今日の暗く背教の日々に生きる私達を勇気付けてくれます。 “あなたは教会に多く行き過ぎる”と人が言うのを聞いたなら、彼らの文句は、イエスがすぐに来られるしるしであることを思い出しなさい。 “あなたは祈りすぎる”とか、“あなたは伝道し過ぎる”と人が言うのを聞いたなら、これもまたイエスが来られるしるしであることを思い出しなさい! そのような人達は、あのむすめたちのように、眠らせておきなさい、しかし私達は目を覚ましていましょう! 祈祷会で目を覚ましていなさい! 伝道で外に出るとき目を覚ましていなさい! 説教のときに、目を覚ましていなさい!

“これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」” (ルカによる福音書第21章28節)。

起立して、ソングシートの第4番を歌ってください。

夜は更け 罪は我々に戦いを挑む
   重い悲しみを 我々は耐え
しかし 主の来臨のしるしを 我らは見る
   我らの心は高揚し 喜びの杯は満たされる
主は再臨される 主は再臨される
   人に拒絶された まさにそのイエスが
主は再臨される 主は再臨される
   御力と栄光を携えて 主は再臨される!
(“He is Coming Again” by Mabel Johnston Camp, 1871-1937).

もしあなたはまだ救われていないのでしたら、正に今が罪から目を覚ますときです、イエスを信頼しなさい、そして救われなさい! 聖書はこう語っています、

“「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」”(エペソ人への手紙第5章14節)。

眠っている者よ、起きなさい、そして、救い主を信頼しなさい。 彼はあなたの罪の贖いとして十字架で死なれました。 彼は天国におられ生きています。 彼を信頼しなさい、そうすれば、彼は今あなたを救われるでしょう、たとえ今日のように暗く邪悪な時代でも!

イエスに汝のまなざしを向けなさい
   彼のすばらしい御顔を望みなさい
そうすれば、この世の事は奇妙にもかすむでしょう
   彼の栄光と恵みの輝きの中に
(“Turn Your Eyes Upon Jesus” by Helen H. Lemmel, 1863-1961).

私達がその合唱の部分を歌っているとき、部屋の後ろに行ってください。 ケイガン先生が、祈りとカウンセリングをするために静かな場所へ案内します。

イエスに汝のまなざしを向けなさい
   彼のすばらしい御顔を望みなさい
そうすれば、この世の事は奇妙にもかすむでしょう
   彼の栄光と恵みの輝きの中に

(説教終了)
ハイマーズ博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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You may email Dr. Hymers at rlhymersjr@sbcglobal.net, (Click Here) – or you may
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: マタイによる福音書第25章5-13節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“In Times Like These” (by Ruth Caye Jones, 1902-1972).

要 綱

聖書で預言された、教会の背教

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教(反逆、新共同訳)のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。”(テサロニケ人への第二の手紙第2章3節)

(ユダの手紙第3節)

I.   最初に、“主流”の教会での完全なる背教。 ペテロの第二の手紙第2章1節。

II.  次に、福音主義派の教会などで増えている背教。
マタイによる福音書第25章2-3, 12, 5節;第24章12節;
ルカによる福音書第18章8節; ペテロの第二の手紙第3章4節;
テモテへの第二の手紙第4章3, 2節;
ルカによる福音書第21章28節; エペソ人への手紙第5章14節。