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ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 ONE TAKEN AND ONE LEFT ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて |
この説教は私の母に捧げます。 母は九十九年前の今日、オクラホマ州で生まれました。 母が八十歳で回心し真に救われたのを目にしたことは、私の今までの生涯の中で非常に喜ばしい出来事の一つでした。 私は1993年7月4日に母に洗礼を施しました。 母は、亡くなるまでのその後4年半の間、ほとんど毎日のように私と一緒に教会に来ました。 イエスがお約束されたように、私は再び母に出会うことを確信しています。 何という喜びでしょうか! 何という望みではありませんか! グリフィス氏が歌う際に、そのことを考えながら聴いて下さい(グリフィス氏よる賛美歌“Christ Returneth”)。
マタイによる福音書第24章40節を開いて下さい。 起立してそのテキストを朗読しましょう。
“ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう” (マタイによる福音書第24章40節)。
ある有名な聖書の教師がラジオ番組を通して、“それは、テサロニケ人への第一の手紙第4章16節と17節で示されている、信者が取り上げられる事の言及ではない事は明白である”と断言しました。 彼の父親はそうは言いませんでしたが、彼は自分の父親以上に知識がある思っています。 しかし、この男性は第43節と44節について、それらは“主の来臨”を示していると言っています。 それは真実をあいまいにしている言葉のように私には思えます! この聖句は明らかにキリストの来臨を示しています。 第42節がそれを非常に明白にしています。
“だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである”(マタイによる福音書第24章42節)。
誰もイエスが再臨される確な日は知りません。 ハロルド・キャンピング(Harold Camping )はほぼ一年前にその日を挙げました。 しかし、以前日を設定した他の全ての人達同様、彼もまた間違っていました。 マヤ文化のカレンダーが今年の12月で終止します。 ですから多くの人々はそこでこの世は終止符を打つであろうと思っています。 しかし彼らは間違えています。 イエスは、“いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである”と言われたのです。 しかし全てのしるしはそれがすぐにもやって来て、“ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される”のもそう長くはないように思われます。
多くのこの世の最後の預言が成就されようとするその時に、説教者達が、神の摂理からなる正しい預言的な事項を妥協するのに注意せよと言われています。 偉大な預言の真実を私達が注意して聞く必要性のある正にその時に、それらの説教者達は、全ての預言は第一世紀に成就されたと言う教義(プリテリズム)に影響を受けてしまっているのです。 何と嘆かわしい事でしょうか! 説教者の方々、これらの預言的な事柄に関して、私達はあなた方のお祖母さんが読んだ古き良きスコーフィールド・スダディ・バイブルに注目しなければなりません。 私達は聖書の預言に関して、邪悪へと走って行ったこの世で混乱している若者達に向かって、このような説教をする必要があるのです! 私達は、彼らに希望を持たせる為に、前兆、昇天、そしてキリストの来臨を説教する必要があるのです!
私達の今朝のテキストは、“ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される”と言っています。 これは、神の御国を設立する為のキリストの来臨、あるいは、最後の審判でキリストが救われている人と失われた人を分けている、ということに言及していると理解するのは不可能です。 なぜなら、キリストはその裁きについて語っているのではなく、“人の子の現れるのも”(マタイによる福音書第24章37節)について語っているのです。
“ひとりは取り去られ”は最も啓発しています。 “取られ”と訳したギリシャ語は、“自分に連れていく”(George Ricker Berry)という意味を指しています。 それと正に同様のギリシャ語(paralambanō)は、“迎えよう”と 訳されているヨハネによる福音書第14章3節に現れています。 その聖句でイエスは、“またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう”と言っています。 この同じギリシャ語は、マタイによる福音書第24章40節にも書かれているので、私は“またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう”は、その“ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される”を表していると確信します。 ジョージ・リッカー・ベリーが指摘したように、ヨハネによる福音書第14章3節の“迎えよう”と、マタイによる福音書第24章40節の“取り去られる”は、両方とも“自分に連れていく”という意味を持つ、同じギリシャ語からの訳なのです。 ジェイムズ・オー・コウム博士は、ヨハネによる福音書第14章3節(“またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう”)のキリストの約束についてこのように語っています。 コウム博士は、“これは聖書での昇天についての最初の教えである”と(Prophecy Study Bible, p. 1151; note on John 14:3)。 ですから、イエスはまた来て私達を迎えられるでしょう。 イエスは、雲へと、空中へと、“私達を御自分に連れていかれる”でしょう。
“またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう” (ヨハネによる福音書第14章3節)。
“ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう” (マタイによる福音書第24章40節)。
そのギリシャ語は同じ言葉です。 そして、“人の子の現れるのも”(マタイによる福音書第24章37節)の前後関係から、どちらの聖句も、テサロニケ人への第一の手紙第4章16節で語られている、その同じ出来事に関して言及していると考えられます。
“すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう” (テサロニケ人への第一の手紙 第4章16-17節)。
“迎えよう”、“取り去られ”、“引き上げられ”―それらは全て同じ出来事、すなわち、真のクリスチャン達が昇天の際に、キリストと“空中で”出会う為に引き上げられることについて言及しています。 私達は単に“悲しむ人達を慰める為の助言”としてテサロニケ人への第一の手紙の約束を当惑的に言い表している、ある学者に同意する事は出来ません。 いいえ、全ての聖書の御言は教義なのです。 “聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である”(テモテへの第二の手紙 第3章16節)。 ある聖書の御言を“教義”として、そして御言を単なる“助言”として分ける事は、聖書の御言の権威を衰えさせることです。 その様なことを私達は決して成してはなりません! 全ての聖書の御言には間違いが無く、完全に信頼できるのです。 全ての御言は霊感を受けてかかれたものであって、それは完全に信頼できるのです。
これらの聖句を54年間研究し、私は完全にそれらの三つの聖句が総て昇天について言及していることを悟りました。
“またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう” (ヨハネによる福音書第14章3節)。
“ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう” (マタイによる福音書第24章40節)。
“それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い” (テサロニケ人への第一の手紙第4章17節)。
私がこれまでに読んだ、マタイによる福音書第24章40節に関する他の全ての説明は、ある教授達の考えに、終末論的な推定に適切するよう取って付け、曲解しているように思われます。 私の中国人の牧師ティモシー・リン博士はしばしば、“あなた方の考えを聖書に合わせる様に向けなさい。 聖書をあなた方の考えに合わせて曲解してはならない”と言いました。 正にその通りです。
“ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう” (マタイによる福音書第24章40節)。
昇天によって、ひとりは取り上げられ、そしてひとりは地上に取り残されるのです。 エノクが“死を見ないように天に移された”(ヘブル人への手紙第11章5節)ように、また、エリヤが“つむじ風に乗って天にのぼった”(列王紀下第2章11節)ように、全ての真のクリスチャンは“引き上げられ、空中で主に” 出会うでしょう(テサロニケ人への第一の手紙 第4章 17節)。 エノクは取り去られました、エリヤも取り去られました、そして全て救われたあなた方も取り去られるでしょう。 ハレルヤ!
あぁ、喜び! あぁ、歓喜! 我らは死ぬことなく
病もなく、悲しみもなく、恐れもなく、泣き声もなく
雲をとおり取り上げられ、栄光の中で、主に出会う
イエスが“ご自分の選民”を迎え入れるとき
あぁ主・イエスよ いつ いつに
我らは 喜びの歌を声高に
キリストの再臨! ハレルヤ! ハレルヤ!
アァメン、ハレルヤ! アァメン
(“Christ Returneth” by H. L. Turner, 1878).
“ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう” (マタイによる福音書第24章40節)。
真のクリスチャン達が天に取り去られ、引き上げられ、空中で主に“会う時、どのようなことが起こるのでしょうか?
I. 最初に、真のクリスチャンはいなくなるでしょう。
“ひとりは取り去られ、・・・” (マタイによる福音書 第24章40節)。
どちらでしょうか? 真のクリスチャンです! それは全く罪人達を思い悩ますことは無いでしょう。 彼らは私達がいなくなるのを喜ぶでしょう! 彼らは今常に、私達に嫌がらせをしています。 私達がいなくなれば彼らは喜ぶでしょう。 彼らは、大苦難の際に、二人の神からの預言者達が殺害された時に喜んで踊っていたエルサレムの人々のようになるでしょう。
“地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである”(ヨハネの黙示録第11章10節)。
彼らは私達がいなくなることをうれしく思うでしょう。 なぜなら、今でも罪人達は私達が彼らを悩ませていると感じているからです。 彼らは私達がいなくなると喜ぶでしょう。 なぜなら、私達が“地に住む者たちを悩ましたからである”。 私達はどのように彼らを悩ましたのでしょうか? 預言者達がしたように、彼らに説教することによってです(ヨハネの黙示録第11章3節、参照)。 彼らが救われなければならないという私達の説教を聞くことを彼らは嫌悪しています。 彼らは地獄へ行くであろうと考えることだけの理由で、彼らは私達をさげすみます。
今朝この日曜日、罪人達は出来る限りのことをして、クリスチャンが教会へ行くのを止めようとしています。 彼らは、土曜日にスポーツの試合を催すことが出来ず、人々が教会へ行くのを止めさせる為に、日曜日でなくてはならないのです。 なぜなら彼らは神を憎んでいるからです! あなた方は“彼らが心から神を憎むようなことは無いでしょう?”というかも知れません。 彼らは確かに憎んでいるのです。 聖書は、“肉の思いは神に敵するからである”(ローマ人への手紙第8章7節)と言っています。 彼らは神を心から嫌悪しているがゆえに、人々が神を崇拝する為に教会へ行く事を止めさせようと、故意に日曜日の教会の集会の時間に、彼らの放蕩と試合などを支持するのです。 なぜなら、彼らは神に対して嫌悪感を抱いているからです。 なぜなら彼らは“神に敵するから”です。
ロスアンゼルス市のビララゴサ市長(Mayor Villaraigosa)は神を嫌悪しているのを知りませんか? 当然です! 彼はACLU(米市民的自由連盟)のローカル支局の会長でした。 彼は、教会がベルを鳴らす事を止めさせました。 彼は、全力を尽くして十字架を取り壊しました。 そして、現在彼は、マラソンを出来るだけ日曜日に計画しています。 すなわち、出来るものなら教会の出席を台無しにし、キリスト教を踏みにじろうとしているのです。 今朝彼は、伝統的な礼拝の時刻に、ロスアンゼルス市の中心街を通して自転車レースを計画しました。 彼は、アイスホッケーの試合を今日の午後12時に、ここからさほど離れていないステイプル・センターで開始しました。 そしてクリスチャン達の午後の集会に障害となるよう、ドジャーズの野球の試合を午後5時に開始させました。 そして午後の7時半には、クリッパーズのバスケットボールの試合がありました。 バスケットボールの試合、アイスホッケーの試合、自転車レース、そしてドジャーズの野球の試合等、すべては教会の集会の時間帯に計画されました。 これらの全ては、私達の教会からあまり離れていない場所で成されているのです。 街の通りは駐車場のように込み合い、歩道はビール腹にタンクトップを装った、ネアンデルタール人風の霊的に劣った人達でいっぱいでした。 彼らは、全て罪人で神に敵対した人達です。
大学の教室では、たった一人の真のクリスチャンでさえも彼らは堪えられないのです。 大学の授業中のクリスチャンに対する嫌悪感は、今に始った事ではありません。 それはここ何年間もの間に増えて来ました。 百年前の1912年に、ニューヨーク市のファースト・バプテスト教会の牧師、ハルダーマン博士(Dr. I. M. Haldeman)は、“毎日の如く、我々の大学と教育施設における30万人の学生は、宗教的な事柄に関しての不神聖さを教えられている”と言いました(The Signs of the Times, Charles C. Cook, 1912, p. 14)。
ここロスアンゼルス地区にある大学の一人の教授は、私達の教会の一人の女性がクリスチャンである事を知りました。 その女性は内気でおとなしく、教室内では一言も口答えすることはありません。 しかしその教授はクラス内の他の学生から彼女がクリスチャンである事を知らされました。 その大学の教授はすぐさまこの女性を非難し始めました。 情け容赦なくその教授は、出来る限りの方法で、彼女をばか者扱いし嘲笑しました。 そして理由なしに彼女の成績を下げました。 私は教会の若者達に教室ではおとなしくするように話しています。 これは私がカリフォルニアの州立大学に通っていた頃とは変わってしまいました。 当時もかなり悪い状態でしたが、現在ではクリスチャンの学生達はライオンの檻に投げ込まれたようです。 それが法律違反では無かったならば、それも成りかねないでしょう!
彼らは私をも嫌悪しています。 あなた方は、“ああ、あなたは好まれているでしょう”と言うかもしれません。 冗談ではありません! それらの罪人達が預言者ミカを憎んだほどに、彼らは私を嫌悪しています。 邪悪なアハブ王は、“われわれが主に問うことのできる人が、まだひとりいます。 イムラの子ミカヤです。・・・わたしは彼を憎んでいます”(列王紀上第22章8節)と言いました。 彼らはミカヤの頬を殴り、真実を説教したが為に彼を牢獄に閉じ込めました(列王紀上第22章24, 26節)。 “私は彼を憎んでいます!”、“私は彼を憎んでいます!” このような邪悪な時に、罪人達は彼らの心中で正当なクリスチャンに向かって言うのです。 イエスは、この世は“あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを・・・”(ヨハネによる福音書第15章18節)と言われました。 イエスは、“わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである”(ヨハネによる福音書第15章19節)と言われました。
妻と私は1983年6月に、南部バプテスト協会に出席する為にペンシルベニア州ピッツバーグ市に行きました。 私達は、ビル・パーウェル博士(Dr. Bill Powell)によって編集された、南部バプテスト・ジャーナルの無料報告書を配る為に出かけて行きました。 それにはSBCの学校でリベラル主義に関するパーウェル博士が称した、“否定できないな資料”が載せられていました。 彼がそれらの情報を書き挙げた彼の報告書を、その主題で呼ぶ事は正当でした。 それは“資料”でした。 彼がその資料を十分思慮して記録した事には疑問はありません。 それは“否定できないもの”でした。 そしてそれはリベラル主義者達に次から次へと打撃を与えました。 あなた方が多分に予期する様に、それはリベラル主義の教授達を立腹させたのです。
しかしながら、何よりも私の心を痛ませた事は、会議に代表者として使わされた人達の態度でした。 私の妻は当時双子の子供達をお腹にはらんでいました。 彼女は小柄な女性で、お腹の子供達で非常に辛かったのは明らかでした。 私の美しく小さな妻が無料の南部バプテスト・ジャーナルの報告書を代表者達に手渡した時の彼らの態度を私は一生涯忘れることは無いでしょう。 彼らの多くは、“あなたは南部バプテスト教派ではないだろう!”と怒鳴りました。 彼らはそのように彼女に向かって唐突に言いました。 私達は彼女がスパニッシュ系の女性だったからであろうと推測しました。 彼らの何人かの者たちが彼女に、“これはパーウェルとハイマーズのくだらないがらくただ!”と言って叫びました。 他の人達は、彼女からその報告書をつかんでしわくちゃにし、彼女の顔に投げつけました。 何人もの大人が彼女につばを吐きかけました。 彼らのむかつかせ、そして低俗な態度に対する思い出は、ほぼ三十年後の今でも私に涙をこみ上げさせます。
その晩私達が部屋に戻った時、私の妻は、“ロバート、何ゆえこれらの人達がクリスチャンと自分たちを呼べるのでしょうか? 彼らの多くは意地悪でした。 私達の友人でさえも冷たく私達をあしらいました。 彼らは説教者というよりも政治家のように思えました。 女性達は最悪でした。 どうしたら彼らがクリスチャンであると言えますか?”と私に語りかけました。 私は何と答えられるのでしょうか? 頭をたらす事しか出来ませんでした。
もしあなた方に対して誰も怒りの態度を示したことが無いならば、あなた方が真のクリスチャンであるかどうかを吟味してみなさい! イエスはこのように言われました、
“もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである” (ヨハネによる福音書第15章19節)。
もしあなた方が不信者であれば、この世はあなた方を愛すでしょう。 しかし、あなた方が真に救われているならば、彼らの多くは、彼らがイエスを憎んだように、あなた方をも憎むでしょう。 イエスは、“彼らは理由なしにわたしを憎んだ”(ヨハネによる福音書第15章25節)と言われました。 そして、もしあなた方が真のクリスチャンになるならば、彼らはあなた方を理由なしに憎むでしょう。 あなた方は口先だけでクリスチャンと称するだけであるならば、彼らはあなた方を憎まないでしょう。 もしあなた方がたまに教会へ行くぐらいならば、彼らはあなた方を憎まないでしょう。 もしあなた方がたかが名ばかりのクリスチャンであるならば、彼らはあなた方を憎まないでしょう。 もしあなた方が真のクリスチャンになるならば、彼らはあなた方を憎むでしょう。 もしあなた方が教会に欠かす事なく毎週来始めるならば、彼らはあなた方を憎むでしょう。 ある一人の若者がムーディに“どうしたらこの世と縁が切れるでしょうか?”と尋ねました。 ムーディは、“キリストを宣言しなさい、そうすればこの世はあなたを見捨てるであろう”と言いました。
あなたは、“ではどうして私は、嫌われるために真のクリスチャンになるべきなのですか?”と聞くことでしょう。 答えはこれです。 もしあなたが真剣になって真のクリスチャンなり、毎週教会に来るのでなければ、あなたは望みのない人生を送り、望みのない死を迎え、望みのない永遠、すなわち、“まっくらなやみが永久に用意されている”(ユダの手紙第13節)のです。 あなた方はどうか知りませんが、私は神の寵愛を失うより、この世の人々から嫌われた方がましです。 私は数え切れないほどの不正の中にいるよりは、ライオンの檻の中に投げ込まれた方がましです。 私は神を知らないマラソン走者と一緒に燃える地獄へと走るよりは、数少ない見捨てられたクリスチャンの場を占めた方がましです!
“ひとりは取り去られ、・・・” (マタイによる福音書第24章40節)。
私達が取り去られることを神に感謝します! 彼らは私達がいなくなることをうれしく思うでしょう―私達の彼らから離れることをうれしく思います! アァメン、アァメン! 分離が完璧になされるように。 “そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』”(ルカによる福音書第16章26節)。 それが分離なのです! 主・イエスよ、来たれ! “ひとりは取り去られ”、その一人になりませんか! アァメン!
天からの賛美の歌 ホサナ
栄光に輝く聖人や天使と共に
栄光の光輪のごとき 額の上の恵みでもって
イエスが“ご自分の選民”を迎え入れるとき
あぁ主・イエスよ いつ いつに
我らは 喜びの歌を声高に
キリストの再臨! ハレルヤ! ハレルヤ!
アァメン、ハレルヤ! アァメン
そうです、クリスチャンはいなくなるでしょう!
すみません、この説教が長くなっていて! しかし、私は一語でも削除することはしません! 私達には、この邪悪な世の中でそれを聞く必要があるのです! “ひとりは取り去られ”。 あなたはその一人であることを確かにしなさい! しかし、その聖句はこのように続きます、
“ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう” (マタイによる福音書第24章40節)。
II. 次に、救われていないひとは取り残されるでしょう。
もしあなた方が救われていないのであれば、あなた方はこの罪にのろわれた地上に取り残されるでしょう。 あなた方に何が起こるのでしょうか? あなた方は知りたくはないでしょう! しかしいずれにせよ、あなた方にお話しましょう。 それはよいことではありません! あなた方にすべての恐るべきことをお話しする時間はありませんが、そのうちのいくつかを挙げてみます。 もしあなた方が救われていないのであれば、次に挙げることがあなた方に起こります。
“それから、大きな声が聖所から出て、七人の御使にむかい、「さあ行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に傾けよ」と言うのを聞いた。
第一の復讐.
そして、第一の者が出て行って、その鉢を地に傾けた。すると、獣の刻印を持つ人々と、その像を拝む人々とのからだに、ひどい悪性のでき物ができた。
第二の復讐
第二の者が、その鉢を海に傾けた。すると、海は死人の血のようになって、その中の生き物がみな死んでしまった。
第三の復讐
第三の者がその鉢を川と水の源とに傾けた。すると、みな血になった。それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります」。わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。
第四の復讐
第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。
第五の復讐
第五の者が、その鉢を獣の座に傾けた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦痛のあまり舌をかみ、その苦痛とでき物とのゆえに、天の神をのろった。そして、自分の行いを悔い改めなかった。
第六の復讐
第六の者が、その鉢を大ユウフラテ川に傾けた。すると、その水は、日の出る方から来る王たちに対し道を備えるために、かれてしまった。
(挿入節、13-16)
また見ると、龍の口から、獣の口から、にせ預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった。(見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。)三つの霊は、ヘブル語でハルマゲドンという所に、王たちを召集した。
第七の復讐
第七の者が、その鉢を空中に傾けた。すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、「事はすでに成った」と言った。すると、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが起り、また激しい地震があった。それは人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった。大いなる都は三つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。神は大いなるバビロンを思い起し、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。島々はみな逃げ去り、山々は見えなくなった。また一タラントの重さほどの大きな雹が、天から人々の上に降ってきた。人々は、この雹の災害のゆえに神をのろった。その災害が、非常に大きかったからである” (ヨハネによる黙示録第16章1-21節)。
ある人は、“あなたは子供たちに恐怖感を持たせようとしている”と言うでしょう。 そうですね、あなたの言うとおりです。 “では”とあなたは言うでしょう。 そして、“それは正しくはありません! 子供たちを教会で怖がらせてはだめです!”と言うでしょう。 では、考えてみてください。 彼らは決して映画をみに出かけるときは、心配をしません! 彼らは、古臭い説教者についてだけ言うでしょう。 あなたは口から血を流す吸血鬼の映画を見に行きます。 あなたは、人の腕や足や頭を切り落とす映画を見ます。 あなたは、連続殺人の殺人鬼や、暴力、殺し合い、性的虐待などの、今日の映画館で上映されている映画を見ます。 そして言うでしょう、“それはよいことです! 子供たちには娯楽が必要なのです!”と。 彼らにとって、血なまぐさい、恐怖映画は大いなる楽しみなのです。 彼らは、聖書で語っていることを説教する説教者のみに、怒りを発し、憤りを爆発させるのです! 考えてみなさい! 彼らには作り話はよく、真実は嫌悪の的なのです! “「われわれが主に問うことのできる人が、まだひとりいます。・・・わたしは彼を憎んでいます」”(列王紀上第22章8節)。 あなた方は、“この説教は何なのですか?”と言うでしょう。 これは、古きよき時代の福音主義的説教と呼びます。 これは、今では見ることの無い、昔あったクリーム・ソーダ・アイスようなものです! あなた方が今日得られるのは、味気の無い、“教会の婦人”を対象にした聖書研究(すなわち、サタデーナイトライブ)です。 しかしこの説教は、救われていない若者たちを回心させる説教の類なのです! 教会に行きなさい! 救われなさい! 手遅れにならないうちに、今しなさい! それが、若者たちが聞く必要のあることなのです!
“ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう”(マタイによる福音書第24章40節)。 あなた方は教会に戻ってくる方がよいでしょう! もしそうしなければ、あなた方には何ら望みはないでしょう! あなた方はキリストに来る方がよいでしょう! もしそうしなければ、あなた方には何ら望みはないでしょう!
この説教で、あなた方がクリスチャンにならなければならないことを説くことが出来ないことを私は知っています。 一度恐怖感を与えただけで、人はクリスチャンになりません。 しかし、家に帰って考えてみなさい。 この世はおかしな方向へ行っていると思いませんか? ほとんどの人は、神を忘れさっていると思いませんか? 聖書は、裁きがくることを私達に語っていると思いませんか? この世は裁かれるに値すると思いませんか? 自分の罪のためにあなた方は裁かれるに値すると思いませんか? そして、もしそれが本当であれば、あなた方が裁きから救われるために、イエスが必要であると思いませんか?
そうです、イエスはあなた方を罪からお救いになるために、十字架で死なれました。 そうです、彼は今天国で生きられています。 そうです、彼はあなた方が彼により頼むとき、あなた方の罪をゆるされるのです! しかし、あなた方は待たない方がよいでしょう! 時は短いのです。
“ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう”(マタイによる福音書第24章40節)。
あなたは、取り残されるひとにならないよう確かにしなさい。 手遅れになる前に、神があなたを覚醒しますように。 アァメン。 もしあなた方はまだ救われていないのでしたら、ソングシートの七番の賛美歌を歌っている間に、部屋の後ろに行ってください。 ケイガン先生が、祈りのために静かな部屋へ案内します。 私達が歌っているうちに、行ってください。
ほふられたまいし かみのこひつじよ
みこえにしたがい われゆくただちに
ありのままゆく身などて いいわけせん
たのむはきよむる なが血のあるのみ
(『ほふられたまいし』“Just As I Am” by Charlotte Elliott, 1789-1871).
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: マタイによる福音書第24章37-42節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Christ Returneth” (by H. L. Turner, 1878).
要 綱 ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 “ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。” (マタイによる福音書第24章42, 37節; I. 最初に、真のクリスチャンはいなくなるでしょう。 II. 次に、救われていないひとは取り残されるでしょう。 |