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エリの子らの劫罰とサムエルの救い R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 THE REPROBATION OF THE SONS OF ELI, ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて “さて、エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった” “サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った。そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」”(サムエル記上第3章7-10節)。 |
私はこの説教の題名を、“外来者と教会で育った子供達“にしようとしました。 幼児サムエルは、外来者として、幕やへ入って来た人でした。 長い間そこで育った“教会の子ら”は、 エリの二人の子供ホフニとピネハスです。 あなた方は、私が教会の子供達に対してきつ過ぎると思うかもしれません。 しかし、ジョージ・バーナの調査は、教会で育った全ての子供達の88パーセントが25才に達する前に教会を去って行き、“二度と戻らない”事を示しています。 教会で育った10人の内一人だけが、彼らが独り立ちした後に教会に残るという事は、彼らを“主を知らなかった”エリの子達、ホフニとピネハスに比べる事はまさにふさわしい事だと私は思います。 そして、サムエルを、俗世間から教会に入って来て救われ、最後まで主に忠実に仕える若者達に比べる事は完璧にふさわしい事なのです。 ですから、この説教では、外来者として教会の外から入って来て救われた人と、回心していない“教会で育った子供達”を比べてみます。 もしあなた方が、教会に長い間いて回心していない“教会の子供”であるならば―この説教はあなた方にとって警告となるべきです―あなた方のほとんどは、私の説教に多分耳を傾けないとは思いますが―なぜなら、あなた方はすでに神によってあきらめられているように思えるからです。
その事がエリの息子達、ピネハスとホフニに起こりました。 彼らの父親は彼らを幕やの祭司にしました。 しかし彼らは回心していませんでした。 聖書は、“エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった”(サムエル記上第2章12節)と言っています。 マックギー博士は、“エリの子らは、‘よこしまな子’、すなわち悪魔の子という意味である。 彼らは救われていなかった。 祭司長の息子達でありながら、幕やで戯れながら、実際そこで奉仕をしてたのである!(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1982, volume II, p. 127; note on I Samuel 2:12)。
教会で育った若者達も、回心が必要 である事を忘れないで下さい。 エリの息子達は、個人的に神を知ることなく、また神との交流もありませんでした。 彼らは神について真剣に考えてもいませんでした。 聖書は、“悪しき者は誇り顔をして、神を求めない。 その思いに、すべて「神はない」という”(詩篇第10篇4節)と言っています。 彼らの全ての思いには、神の入る余地はなかったのです! それがホフニとピネハスの状態だったのです。 “彼らは主を恐れなかった”-そして、彼らは主を知ろうとも思っていなかったのです! 彼らの思いには、神の入る余地はなかったのです。 彼らは幕やにいました。 彼らの父親は主を知っていました。 しかし、彼の二人の息子達は信者ではなく救われていませんでした。 “エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった”。 彼らは、自分達の得になる事のみを考えた俗的な人で、不道徳でもありました(サムエル記上第2章22節)。 彼らの思いには神が入る余地がなかったのです。 彼らの父親エリが、彼らを警告しようした時、“彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった。 主が彼らを殺そうとされたからである”(サムエル記上2章25節)。 神は、彼らに悔い改める時間を十分に与えられていましたが、神は彼らをあきらめられたのです。
“彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし”(ローマ人への手紙第1章28節)。
聖霊を拒否する期間は限られています。 神は、“「わたしの霊はながく人の中にとどまらない”(創世記第6章3節)と言われました。 神があなた方をあきらめられる時がいつかやって来るでしょう。 その時には、あなた方は説教に耳を傾けことも、悔い改める事もないでしょう。 “彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった。 主が彼らを殺そうとされたからである”。
私は、回心することなく教会で育った、あなた方“教会の子供”や若者達について話しているのです。 私が話している事は、教会へ来て、即このような教会の子供達のようになる、若者達にもまた適用します。 彼らの何人かは教会で育ちました。 他は教会外から来ました、しかし、教会の若者達のようになりました。 あなた方が模範にしている人に注意しなさい! スコーフィールド・バイブルを持ち歩いて教会に来るだけでは十分ではありません。 主を知らない教会の若者達を避けなければなりません! あなた方に、“彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる”(コリント人への第二の手紙第6章17節)。 サムエルは、ホフニとピネハスと一緒に幕やにいました、しかし、彼は彼らと交流はありませんでした。 彼らは幕やで一緒に居たけれども、サムエルが彼らと話した事さえ記録されていません! もし話したとしても、短い会話だけに過ぎなかったに違いありません。 教会の俗的な若者達から離れなさい! “彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる”のです。
では、教会にいる回心していない若者達に話します。 あなた方の思いには神の入る余地がありますか? あなた方が独りになった時に、神について考えますか? あなた方が独りになった時のみに、それはみなされるという事を忘れないで下さい。 そうです、あなた方が教会にいる時は、神について話すかもしれません。 しかし、あなた方が独りになった時に、神について真剣に考えていますか? あなた方が独りの時に―神はあなたの罪をご存知である事を知って―罪の意識を少しでも感じますか? それともあなた方は、ホフニやピネハスのように神について全く考えないのでしょうか?
今晩私は、ビルマへ行った最初の宣教師アド二ラム・ジャドソン(1788-1850)の回心について話します(ここをクリックしてその説教を開いて下さい)。 彼の父親は牧師でした。 彼は教会で育ちましたが、彼にとって神は真実ではありませんでした。 彼が神について考えたのは、彼の父親の神と言う事だけでした。 彼はヤコブのようでした。 ある晩、砂漠の真っ只中で独りの時に、神が突如として真実となりました。 彼はある晩、遠く家から離れた所で独りになるまで、神御自身を感じた事がありませんでした。 そしてヤコブは言いました、“「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。 そして彼は恐れて”(創世記第28章16‐17節)。
私が15才の時、私の祖母の墓地から遠く丘の上まで走って行きました。 私は地に倒れ、息を切らし、汗ばみ、そしてむせび泣きました。 その時神が来られ、私は彼の畏れるべき存在を非常に感じました。 私はヤコブと同様、“「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。 そし彼は恐れて”という事が言えたことでしょう。 そこでは私は未だに回心してませんでした。 しかし、私はヤコブの神を感じました。 あなた方は、独りの時に、偉大な畏れるべきヤコブの神を感じた事がありますか? ヤコブの畏るべき神があなた方の罪を知っておられるのを意識して、あなた方が独りの時に、罪悪感を感じる事がありますか? もしあなた方が、神に対してそのように感じた事がなかったならば、どのようにしたらあなた方は回心できるでしょうか? 聖書は、“神に来る者は、神のいますことと、・・・必ず信じるはずだからである”(ヘブル人への手紙第11章6節)。 私は、優しく小さな“日曜学校”の神について語っているのではありません。 そうではありません! “わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である”(ヘブル人への手紙第12章28節)のです。 モーセのように、“アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。 モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した”(出エジプト記第3章6節)とあるように、あなた方は彼らの神を意識しなければなりません。 あなた方が神の真実性を感じる時のみに、あなた方が独りになった時のみに、神を見ることを恐れ、あなたは方は真に覚醒し、自分の罪を悟ることでしょう。 ルターはこう語っています、
もしあなたが、回心したいならば、あなたは恐れを感じる事が必要である、それはあなたが不安を感じると言う事である(What Luther Says, Concordia Publishing House, 1994 edition, p. 343; note on Psalm 51:13)。
若きアド二ラム・ジャドソンが暗闇で独りになった時にそういう事が生じたのです。 死、自分の腐った死体、そして永久などの憂うつな思いが彼の心を恐れで満たしたのです。 そのような思いをあなた方の心から取り出してはなりません。 そのような思いを深めなさい。 そのような思いを抱きなさい。 そのような思いにあなた方自身を怖がらせ、震えさせ、不安にさせ、そして恐れさせなさい。 そのような思いを持つ事がないならば、あなた方は決して、キリストの血の犠牲を通して神との和解を見出す事は無いでしょう!
しかし、ホフニとピネハスにはそのような自覚が全くありませんでした。 彼らは “よこしまな人々で、主を恐れなかった”。 “彼らは父の言うことに耳を傾けようともしなかった。主が彼らを殺そうとされたからである”。
青年サムエルとどんなにか異なったことでしょうか! 彼は“教会の子供”ではありませんでした。 彼の母親は幕やに住むエリの所に置き去りにしました。 彼は鋭く敏感な子供で、自分の家から遠ざかっていました。 神が彼を呼ばれたのは夜も更けてからでした。
“さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って”(サムエル記上 第3章2‐4節)。
幕やの暗闇の中で、神の灯火が消えうせようとし、サムエルは彼のベッドに横たわっていた時に、神は彼を呼ばれました。 肉体をそなえられる以前のキリストが、“きて立ち・・・と呼ばれたので”(サムエル記上第3章10節)。 そこでサムエルは回心し、主御自身を知りました。 “サムエルに自らを現された”(サムエル記上第3章21節)。 この説教の前にグリフィス氏が歌った歌詞に耳を傾けて下さい。
主よ、沈黙のうちに、お話ください、
私が待ちますうちに
私の思いが 聞く耳を持つことを
期待して。
神聖なる主よ、お話ください
この静かなひと時のうちに
あなた様の御顔を仰ぎ見て
御力を感じさせてください。
あなた様のしもべに お話ください
主よ、御口を閉ざされずに
私は待ちます
あなた様の生きている御言葉を。
(“Speak, Lord, in the Stillness” by E. May Grimes, 1868-1927;
altered by the Pastor).
あぁ、若い方達、神は真実であられます! キリストは真実であられます! 私達は、あなた方がよこしまな息子、娘のままで留まらないよう、どのように祈ったらよいのでしょうか! あなた方が、今晩の説教で説明するヤコブやアドニラム・ジャドソンのように、“闇夜の恐怖”を体験することを、私達はdのように祈ればよいのでしょうか。 あなた方が、死について、永遠について、ヤコブやモーセの恐るべき神について、深く思いをはせることを祈ります! あなた方が、彼らが感じた実存的な“闇夜の恐怖”の一部でも感じられますように、そして、神の裁きに対して、あなた方自身が自分の罪の悟りのもとに置かれますように! そのような恐ろしい思いが、あなた方を、ご自身の御血でもってあなた方の罪を清められる唯一のイエスに動かすことを祈ります! あなた方が次のような言葉を言えるよう、私達は祈ります。
つみおもいださする
なみだの夜よゆけ
えみとかんしゃの
われはまてり。
ちのたからかいらく
みるだにいとわし
ただしたいまつるは
主のじゅうじか。
主のよみしたまわぬ
てのわざわれすてん
主のみこころにのみ
われしたがわん
あらしよはやくゆけ
やすきよきたれとく
ただきみみあげつつ
われゆかまし。
(『つみおもいださする』“Jesus, I Come” by William T. Sleeper, 1819-1904).
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: サムエル記上第3章1-10節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Speak, Lord, in the Stillness” (by E. May Grimes, 1868-1927; altered by the Pastor.).