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人間の堕落、そして新生 R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 THE FALL OF MAN AND THE NEW BIRTH ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて “あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。”(ヨハネによる福音書第3章7節) |
先週の日曜日の晩に、私達はこの主題を学びました、そして再びそれに戻りたいと思います。 キリストの言葉でそれは始まります、
“あなたがたは新しく生れなければならない”
(ヨハネによる福音書第3章7節)。
イエスは、一人の人に対してそう言われたのではありません。 それは3節で明白です。
“だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない”(ヨハネによる福音書第3章3節)。
一般の“だれでも”を指しています。 イエスは、“あなたがたは新しく生れなければならない”と言われたとき、彼が全ての人に対して語られた事は、この節、また、その全体の句からも明白です。 これは人間が新生によってのみに、満たされる必要性があるという事を表しています。 何が人に新生を必要とさせるのでしょうか? 新生なしの人の状態は、どのようなものでしょうか? この状態の解決策は何でしょう? 私は今晩、最善を尽くしてそれらの三つの質問に対して分かりやすく答えたいと思います。
I. 最初に、何が人に新生を必要とさせるのか?
創世記第1章27節を開いて下さい。 立ってその節を声を上げて読んで下さい。
“神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された”(創世記第1章27節)。
着席して下さい。 最初に気がつく事は、人は“創造された”という事です。 人は低等動物から進化してきたのではありません。 いいえ、人は神の特別な御業によって創造されたのです。 二番目に気がつく事は、人は“神のかたち”に似せて創造されました。 これは、人が天性と霊的に神に似せられて造られた事が示されています。
天性の類似により、それは人に知性があるという事です、ですから、神が思考されるように、人は思考する事が出来るのです。 人には感情があります、ですから、神が感じられるように、人も感じる事が出来るのです。 人に意志があります、ですから、神が選択されるように、人も選択する事が出来るのです。 しかし、動物にもそれらの能力はあります。 私の小さな犬、ピクシーは考える事が出来ます。 その犬は感じる事が出来ます。 選択する事が出来ます。 あなた方がピクシーを知っているなら、あなた方も私に同意するでしょう。 ある人が、“ピクシーは自分が出会った何人かの人達よりも感がよい”と言いました。 しかし、人には動物にないものがあります。 人は神の道徳的、そして霊的にかたどって造られた(参照、The Ryrie Study Bibleの創世記第1章26節の注釈)ものなのです。 どの動物もそのような霊的な“かたち”はありません。 それが人間を全くユニークなものとする事なのです。 人間のみが神を知り、そして神とコミュニケーションする事が出来るのです。
創世記第2章7節を開いて下さい。
“主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった”
(創世記第2章7節)。
“命の息(breath of life)”という句は、ヘブライ語の“neshamah(ネシャマ)”からの英訳です。 そしてそれが、人間が完璧にユニークであるのはこの“neshamah”なのです。 どの動物にも“neshamah(ネシャマ)”はありません。 人のみに、神を知り、そして彼とコミュニケーションするこの特質があります。
“しかし人のうちには霊があり、全能者の息が人に悟りを与える”(ヨブ記 第32章8節)。
“命の息”もしくは“neshamah”が人に霊的な事柄を知り、そして理解する能力を与えるのです。
しかし、人間の堕落のゆえに、人の霊的な性質が滅びました。 創世記第2章17節を開いて下さい。 神はアダムにこのように語られました。 立ってこの節を声を上げて読んで下さい。
“しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」”
(創世記第2章17節)。
着席して下さい。 これは身体の死だけを示していません。 アダムはこの木から実を食べた後、随分長く生きました。 しかし神は、“それを取って食べると、きっと死ぬであろう”(創世記第2章17節)と言われたのです。 実際、アダムは善悪を知る木から食べたその時に霊的に死にました。 彼の罪は、彼の神のかたちを損なっただけではなく、“命の息、neshamah(ネシャマ)”をも滅ぼしてしまいました。 これが人に新生を必要とさせる原因となりました。
II. 次に、新生なしの人の状態は、どうであるか?
私が言ったように、アダムの神のかたちは損なわれました。 ライリー博士(Dr. Ryrie)は、このように言っています。
人は天性そして道徳性に神に似せられて創造された。彼が罪を犯した時に、彼は道徳的な類似を無くし・・・しかし、天性なる、知的、感情、そして意志は留まるのである(The Ryrie Study Bible, note on Genesis 1:26)。
人は考え、感じ、そして行動する事が出来ます、しかし彼は今や、神と親睦を保つ事は出来ません。
神のかたちが損なわれただけで無く、“命の息”もしくは“neshamah”も滅びてしまいました。 私は“滅びた”という言葉を注意深く使っています。 私は、聖書が創世記第2章17節で使っているように使っています。
“しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」”
(創世記第2章17節)。
アダムはその日に霊的に死にました。 彼の“ネシャマ”が死んだのです。
なぜそれがあなたにとって重要なのでしょうか? なぜ歴史の始めに、アダムに起きた事に関して、あなた方が関心を向けなければならないのでしょうか?
“ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように”(ローマ人への手紙第5章12節)。
“アダムにあってすべての人が死んでいる”
(コリント人への第一の手紙 第15章22節)。
聖書が、“アダムにあってすべての人が死んでいる”とは、どういう意味なのでしょうか? それは、アダムからの全ての子孫は彼によって罪を犯し、その最初の罪科によって彼と共に堕落したのです。
“このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきた”
(ローマ人への手紙第5章12節)。
アダムが罪を犯したその時以来、全ての人々は生まれつき罪人となりました。 私達は全て、最初の両親から相続された罪なる性質を持って生まれました。 すべての人類は罪の中に死んで生まれました。
“アダムにあってすべての人が死んでいる”
(コリント人への第一の手紙 第15章22節)。
神のイメージは全てのアダムの子供によって、損なわれ、そして破滅されました。 “ネシャマ”は全ての人類の心の中で滅びました。
それはエペソ人の手紙第4章18節で明白にされています。 その聖句を開いて、立って声を上げて読んで下さい。
“彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ”(エペソ人への手紙第4章18節)。
霊的な理解の機能が滅びています。 神の命から遠ざけられ、人の心は盲目となりました。 それが、聖書で言う、あなた方は
“罪過によって死んでいた”(エペソ人への手紙第2章5節)。
意味なのです。
“アダムにあってすべての人が死んでいる”
(コリント人への第一の手紙 第15章22節)。
着席して下さい。
あなた方がそれを感じない限り、私達はあなた方を助ける事は出来ません。 私は、偉大な伝道者、ジョージ・ホウィットフィールド(George Whitefield)が、人が自分自身の堕落した状態を感じるまで、神に対して、自分自身の死んだ状態を感じるまで、誰も真に回心しないと、何度も説教した事に、私は完全に同意します。
アダムが罪を犯したとき、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた(創世記第3章7節)のです。
“人とその妻とは主なる神の顔を避けて、・・・身を隠した”(創世記第3章8節)。
人はそのようにしているのではありませんか? 彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻き、神の顔を避けて、身を隠しました。 どうしていちじくの葉で覆ったのでしょうか? “神の顔を避けて、・・・身を隠した”のです。 どのようないちじくの葉からあなた方は、身を隠しているのですか?
神の顔を避けて身を隠している限り、聖書を学び、そして説教を聞いても何の役にも立ちません。
“アダムにあってすべての人が死んでいる”
(コリント人への第一の手紙 第15章22節)。
“彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ”(エペソ人への手紙第4章18節)。
“罪過によって死んでいた”(エペソ人への手紙第2章5節)。
ですからイエスはこのように言われたのです、
“あなたがたは新しく生れなければならない”
(ヨハネによる福音書第3章7節)。
III. 最後に、この状態を癒す術は何か?
あなた方の状態を癒す術は、人の行いからくるものではありません。 ひとができるすべてのことは、いちじくの葉をつづり合わせ、隠すことだけです。 現在の“決断主義”が間違った方向へ行ったのはそれが理由なのです。 それは、新生を神によるのではなく、何か人が自分自身のためにできるものにしています。 したがって、“決断主義”は中世のカトリック主義の置き換えなのです。 事実、それは宗教改革で元に戻された大いなる真実を拒絶しています。 フィニーと彼の信奉者たちは、アダムの罪の転嫁は“神学的フィクション”であったと教えています。 彼は、あなたは罪に死んではいなく、“新しい命を自分自身で獲得できる”と教えました。 しかし、神学的フィクションを教えたのはフィニーと彼の信奉者たちでした。 罪に死んでいる人は、誰一人として自分自身をよみがえらせることはできないのです! 教会に行くこと、聖書の章節を学ぶこと、“説教壇の方へ”歩み出ること、“罪びとの祈りをあげること”、洗礼を受けること、“救いの計画”を口にすること、これらはすべて、アダムの子孫が主の前から隠れるために使ったいちじくの葉なのです! “献身すること”や“再度献身すること”は、“あなたの決心を新たにする”という、すなわち、すべてのカトリックのくずで、すべての“決断主義者”の自己救済で、神の呼びかけから身を隠すために使ったいちじくの葉なのです! イエスに救いをお願いするのですか? 祈りを通して救われるというのは、いったい何なのでしょうか? 決断主義者たちのいちじくの葉が増えるだけです! 祈りを通して救われる考え方は、中世のカトリックとフィニーの決断主義のアイデアなのです。 単純明快です!
“われわれも彼を尊ばなかった”(イザヤ書第53章3節)。
“われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った”(イザヤ書第53章6節)。
あなた方はどのようにあなた方の顔を彼から隠すのでしょうか? あなた方はどのようにして“自分の道”に向かおうとするのでしょうか?
損なわれた神のイメージを復元するため、あるいは自分自身の死んだ命を再生するために、あなた方には何らその方法はなく、また何から学んですると言うこともないのです!
“あなたがたは新しく生れなければならない”
(ヨハネによる福音書第3章7節)。
私はあなた方にどのように言えばよいのでしょうか? 私はあなた方をどのように助ければよのでしょうか? 私ができることは、神が預言者エゼキエルにするように話されたことです、
“これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け”(エゼキエル書第37章4節)。
“あなたがたは新しく生れなければならない”
(ヨハネによる福音書第3章7節)。
あなた方はアダムにあって死んでいることに気づかなければなりません。 あなた方は、自分自身を救えないことを知らなければなりません。 あなた方は、自分自身の罪の意識とその罪に悟らされなければなりません。 そしてあなた方は、自分自身を再生できると思うすべての望みを捨てなければなりません。
ひとが自分自身の堕落を感じ始めるとき、その人は覚醒していると言えます。 神がアダムを呼ばれたように、“主なる神はひとに呼びかけ”られたと言えるでしょう。(参照、創世記第3章8-9節)
神はあなた方を呼ばれていますか? あなた方は、内罪の意識に対する良心の呵責を感じますか? もしあなた方の魂にそのような葛藤があるのでしたら、それは神から来ているのです。 望みのない生活の暗闇からキリストに来るように、神はあなた方を呼んでいるのです。
私は、今夜数回述べた章節の残り半分を引用してこの説教を終えたいと思います。
“アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである”(コリント人への第一の手紙 第15章22節)。
“すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか”(ローマ人への手紙第5章15節)。
“このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。・・・罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである”(ローマ人への手紙第5章18-19, 21節)。
イエス・キリストは、死の鎖を解放すのです! イエス・キリストは、損なわれたイメージを再生されるのです! イエス・キリストは、死んだ命をよみがえられるのです!
“アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである”(コリント人への第一の手紙 第15章22節)。
“あなたがたは新しく生れなければならない”
(ヨハネによる福音書第3章7節)。
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: ローマ人への手紙第5章12-21節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Ye Must Be Born Again” (by William T. Sleeper, 1819-1904).
要 綱 人間の堕落、そして新生。 R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 “あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。”(ヨハネによる福音書第3章7節) (ヨハネによる福音書第3章3節) I. 最初に、何が人に新生を必要とさせるのか? II. 次に、新生なしの人の状態は、どうであるか? III. 最後に、この状態を癒す術は何か? |