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ハガルの回心
(創世記シリーズ、その63)

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

THE CONVERSION OF HAGAR
(SERMON #63 ON THE BOOK OF GENESIS)

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2010年10月23日、主の日の朝の説教

“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。”(エペソ人への手紙第2章8節)

今朝、私は創世記のハガルの話について話します。 ハガルの生涯は、罪人の回心という点で神の恵みを見事に私たちに具現しています。 それは、卑しむべき正しくない話です。 それは、全ての人の生まれついた状態は罪人である事を示しています。 人類の始まりに於いて、アダムが罪を犯した時点で全ての彼の子孫は、生まれつきの罪人となりました。 なぜなら、“ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである”(ローマ人への手紙第5章12節)と書かれてあるからです。 アダムの堕落以来、私たち全ての人は、“罪過によって死んでいた”(エペソ人への手紙第2章5節)状態として生まれたのです。

ハガルの話の中に出てくる卑しむべき罪について、私は全てを言及しません。 彼女はエジプト人でした。 彼女は、サライの女中として雇われました。 アブラムの妻サライは、神が彼女に子供を与えられる事を信じない事で罪を犯しました。 サライは、アブラムに、ハガルによって男児の父親となるよう話した事で罪を犯しました。 そしてアブラム自身、この若い女性と罪を犯しました。 しかしハガル自身も失われた罪人でした。 彼女は、神なる主を知らないエジプト人でした。 

私は、ハガルの恥ずべきそれらの出来事についてではなく、彼女の回心に重きを置いて話します。 また、ハガルの回心についての話が、今朝ここにいる何人かの未だ回心していない人達にとって役に立つ事を私は信じます。

I. 最初に、アブラムとサライの正しくない証にもかかわらず、ハガルは回心した。

まだ回心していないあなた方の何人かは教会で育った若者達です。 あなた方はクリスチャンと称する人達の多くの悪い模範を見てきました。 しばしばこの事が、“教会で育った子供達”に、“それは真実であるはずがない。 彼らの行いを見れば”といったような考えを起こさせます。 教会から去って行った人達の反抗的な行動が、あなた方に福音は真実ではないであろうと考えさせています。 悪魔は彼らの悪い模範を使って、あなた方に回心の真実性を疑わせるよう企てています。 サタンは、“どうしたらそれが真実であろうか?”とあなた方に思わせます。 世界中の教会の何千人もの人達が、教会員の悪い模範によって彼らの魂を失いました。 それは、人々を陥れ、地獄へ引きずり落とす為に、サタンが使う主な手段の一つなのです。 

この事は、教会で育った子供達だけに当てはまるのではありません。 最近教会へ来始めたばかりの若者達は、悪魔によって同じような事を投げつけられます。 サライの女中であった若いエジプト人の女性ハガルのように、あなた方はクリスチャンと称する人達の矛盾や正しくない行いに気がつくでしょう。 ハガルは、アブラムやサライの罪に気がつきました。 それは彼女を混乱させたに違いありません。

カリフォル二ア州のハンティントン・パーク市にあるファースト・バプテスト教会に連れて来られた13歳の私は、“クリスチャン”と称する人達が、お互いにひどい事をし合うのを見ました。 私はその教会の分裂の真っ只中にやって来たのです。 私は、教会員達が日曜日の集会で、互いにののしり合い、賛美歌集を互いに投げ合っているのを見ました! しばらくして、私と同じ年の若者達は、ほぼ全員が全く教会に通わなくなりました。 そんな中でなぜ私は教会に居残ったのでしょうか? 私はただ、抵抗できない神の恵みのゆえに、居残ったと言えます! そうです、抵抗できない神の恵みです! 聖書はこのように書いています、

“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である”(エペソ人への手紙第2章8節)。

私が十代の時、私の知っているバプテスト教信者の人達は、人として出来る限りの事を尽くして、私を混乱させクリスチャンになる事から私を遠ざけました! 振り返って見ると、私が救われた事は、非常に驚かされることでした。 私は、そのバプテスト教会で、そのような多くのひどいあり様を見て、救われた事に驚かされます! 賛美歌『おどろくばかりの』を歌って下さい!

おどろくばかりの
   めぐみなりき
このみのけがれを
   しれるわれに
(『おどろくばかりの』“Amazing Grace”
     by John Newton, 1725-1807).

ハガルのように、教会にいる多くの自称“クリスチャン達”の正しくない証と、明らかに卑劣な行為にもかかわらず、私は純然たる神の恵みによって救われたのです! 

その他にも語らなければならない事があります。 ハガルの実例はまれな事ではありません。 私の実情も同じです。 今朝ここにいる全ての真なるクリスチャン達も、同じような体験をして来ました。 この教会にいる全ての真なるクリスチャン達は、他の教会員達の正しくない証と罪にもかかわらず、彼らは抵抗する事の出来ない神の恵みによって救われたのです。 彼らの誰一人として、偽のクリスチャンの邪悪を見なければならないと言った痛烈な試練を免れてはいません! しかし、私の体験から言えば、あなた方がその様な試練を貫くならば、それはあなた方を洗練することでしょう。 あなた方は純金のごとく仕上げられるでしょう! 昔なじみのこの賛美歌は言っています、

試練の火 もえさかるとも
   めぐみなれに 足りぬべし
ほのおは かすをやきつくし
   まじりけなき こがねとせん
(『いかに強きもどいぞや』“How Firm a Foundation,” author unknown,
      “K” in “Rippon’s Selection of Hymns,” 1787.)

あなた方の両親は、あなた方を止める事は出来ません! あなた方の友人達もあなた方を止める事は出来ません! 偽のクリスチャン達は、彼らが教会を去っていく時、あなた方を止めることは出来ません。 誰もあなた方を止める事は出来ないのです! それらは燃え立つような試練ではあるけれど、彼らはあなた方を止める事は出来ません。 もし抵抗することの出来ない神の恵みがあなた方をキリストに引き寄せようとしているならば、何もあなた方をキリストに来る事から止める事は出来ないのです! ハレルヤ、ハレルヤ! もしあなた方が抵抗することなく引き寄せられるならば、彼らが何をしようとも、あなた方はキリストを見出すでしょう。 『おどろくばかりの』を歌って下さい!

おどろくばかりの
   めぐみなりき
このみのけがれを
   しれるわれに

II. 次に、ハガルは神を初めて体験した。

サライは、ハガルにさらにひどい仕打ちをしました。 サライはハガルを追い出しました。 聖書には、“彼女はサライの顔を避けて逃げた”(創世記 第16章 6節)と書いてあります。 さて、すぐにも餓死するようなハガルは、砂漠の荒野で一人ぼっちで身ごもっていました。 しかし不毛な砂漠で、主の御使いが彼女のもとにやって来ました。 “主の御使いは、人の姿をされる前のキリスト以外の誰でもない。 このことはキリストの特徴で、キリストは常に失われた人を捜し求めている”(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1981, volume I, p. 71)と言ったマックギー博士に、私は同意します。 

キリストはハガルに、サライのもとに戻るように、そして“その手に身を任せなさい”(創世記第16章9節)と言われました。 創世記第16章13節から14節を開いて下さい。 立ってそれらの二つの聖句を声を上げて読んで下さい。

“ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある”(創世記第16章13-14節:新共同訳)。

着席して下さい。 ハガルは彼女がいたその井戸を“ベエル・ラハイ・ロイ”と名づけました。 ヘブル語で、“私を生きし見ておられる方の井戸”という意味です。 そこでハガルは、“わたしを顧みられる神”(創世記第16章13節:新共同訳)と言いました。  彼女は、私は今、私を見ておられる方を見た、と言いました。

ハガルは、アブラムが儀式的な祈りと神に犠牲を捧げたのを見ました。 彼女はアブラムとサライが神に祈るのを聞きました。 しかし彼女自身、神を体験したことはありませんでした。 ここで初めて、神が彼女にとって、真実の方となったのです。 神は、“わたしを顧みられる方”でした。 

私達の教会の執事であるケイガン先生は、無神論者でした。 彼はこう書いています、“私は神の存在を信じなかった。 聖書を一度も読んだ事は無かったけれども、自分は聖書は誤りだらけであると固く確信していた。 キリスト教は、何かを頼り信じる事を必要とする、無知な人達の為にあると自分は思っていた。 私は21才の時に何人かの伝道者に出会った。 彼らは私に親切にしてくれた。 しかし、私はイエスを信じる事を拒否した。 私には自分の計画があった。 私は、イエスに自分の将来の計画を妨げてほしくなかった。 しかし私は、霊的な事について考えていた。 この期間に、自分は友人に、「もし神が存在するならば、彼がこの世で最も重要な人で無ければならない」。・・・そして、1974年の秋に、私は直接にそして突如として神を体験した。・・・ある晩、私は「神様、私をゆるして下さい」と叫んだ。 その転換時は午前4時であった。 それは、自分の生涯で初めて祈った祈りであった。・・・神は真実であると自分は心の奥底から知った。・・・しかし自分は[未だ]クリスチャンではなかった。 神との体験は正に自分に真実となった。 しかし自分はイエス・キリストを信じる覚悟はできていなかった。 自分は彼に服従しようとしなかった。 私はその後2年間あまりキリストに対する思いで葛藤した”(C. L. Cagan, Ph.D., From Darwin to Design, Whitaker House, 2006, p. 17)。

私自身も、初めて神が私にとって恐ろしいほどに真実となった時の事を覚えています。 私は神を信じていましたが、神の御言によって恐れていた時のことを覚えています。 私は15歳でした。 私は泣いて地に伏し、神が頭上に重くのしかかり、私の罪によって何度も何度も打ちのめされました。 私は、遠く離れた木の下に何時間も留まりました。 しかし、ケイガン先生と同様、何年か後まで私はクリスチャンにはなりませんでした。 その間、私は罪の意識を深く感じていました。 しかしそれでも私は救われていませんでした。 

これがハガルの実際に起こったことでもありました。 彼女は初めて心から、“わたしを顧みられる神”と言えました。 生まれて初めて、神が彼女に真実となったのです。 しかし、それでも彼女は救われていませんでした。 『おどろくばかりの』を歌って下さい! 

おどろくばかりの
   めぐみなりき
このみのけがれを
   しれるわれに。

ほとんどの人達が、神への信仰を持たないまま教会を通過して行きます。 彼らが知るのは、人だけです。 彼らは、神が全く彼らを顧みられる事を感じていません。 

神の恐ろしい存在を感じたことがありますか? 神があなた方を顧みられることを知っていますか? 非常に少数の人達だけが、心から神が彼らをご覧になり、神の裁きの書物に詳しく記録されている全の罪を裁かれる神がおられる事を彼らが最初に知るまで、不信の状態から真のキリスト教にすばやく飛びつきます。あなた方の罪を知られ、それらの罪のためにあなた方を黄泉へ落とされる、聖なる神の存在を感じた事がありますか?

この段階で、 人は神の存在を心から感じます。 そして、彼らが、神が彼らをご覧になり、彼らが罪を犯すのをご覧になり、彼らの心に罪を抱くのをご覧になり、彼の邪悪な思いをご覧になり、彼らの偽りと欺き、反抗と堕落、そして欲望をご覧になる事を彼らは知るのです。 ある女の子が、”私は自分にうんざりして来た”と言いました。 あなた方が、“神は顧みられる”と知る時に、あなた方はそのように感じるでしょう。 神があなた方が犯した全ての罪をご覧になる時、恥ずかしい思いをします! それでも、聖なる神の御前にあなた方が罪の重荷を感じるまで、あなた方は決してイエス・キリストを必要としないでしょう。 あなた方が、“神は顧みられる”と感じるまで、あなた方は決してキリストの清めの血の必要性を感じないでしょう。 『おどろくばかりの』の二番を歌って下さい!

めぐみはわがみの
   おそれを消し
まかするこころを
   おこさせたり。

III. 最後に、ハガルの目は開き、その井戸から水を飲んだ。

創世記の第21章を開けてください。 頭を上げてください。 サラは、ハガルを砂漠の荒野へ二度追い出しました。 さて、食べ物と水は尽きました。 ハガルは神に、子供を惜しんでくれるよう祈りました。 彼女は絶望のどん底にいました。 しかしキリストは彼女に再び現れました。 第15節から19節を声を出して読みなさい。

やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた”(創世記第21章15-19節)。

あぁ、アブラムとサライの正しくない証を見たにもかかわらず、彼女を引き寄せられたのは、神の恵みだったのです。 あぁ、“わたしを顧みられる神”とハガルに思わせたのは、神の恵みだったのです。 彼女をひとり荒野へ引き出し、“やがて皮袋の水が尽きたので、彼女は・・・すわったとき、・・・声をあげて泣いた”(創世記第21章15-16節)のは、神の恵みだったのです。 今朝、あなた方の中で同じような状態の人はここにいますか? 皮袋の水が尽きたひとはいますか? あなた方の救いの望みが渇ききったひとはいますか? この世の荒野の中でひとりでいるあなた方を感じたひとはいますか? あなた方の罪と救いの望みの無さに声を上げて泣いたひとはいますか? 涙が出なくなるまで泣いたひとはいますか? 今朝、失われた状態に対して、あなた方の心の中で泣いたひとはいますか? そのような経験をしたことがありますか? もし、そうであるならば、あなた方には望みがあるかもしれません

キリストは、ハガルが悲嘆の中で、“彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし・・・”(創世記第21章19節)と声を上げて泣いたときに彼女に来ました。 そのわらべは水を飲み、そしてハガルも水を飲みました。 そして、彼らは命を得たのです! 

キリストはいのちの水です。 キリストは言われました、“だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい”(ヨハネによる福音書第7章37節)と。 あぁ、イエスに来て、“いのちの水・・・価なしにそれを受ける・・・”(ヨハネの黙示録第22章17節)ように。 ハガルの渇きについて説教で、スポルジョンはこのように言いました、

      ご承知のように、いのちの水は欲せられるものである。それを飲みたいと言う内なる欲求が渇いたときにおこる。あなたの魂は、今その状況にある、もしイエスを見出せないならば、あなたは彼なくしては幸福になれない・・・“キリストを私に! キリストを私に!さもなければ私は死ぬ”と泣き続ける・・・。
      あなた方の何人かは、それを知ることなく、救いの間際にいることを望む。あなたは救い主を望むよう、すなわち彼によって救われたいと望むよう動かされたので、あなたの中で長い準備期間があったであろう。  彼はそこにいる、彼を得なさい! 水の器はあなたの目の前にある、それを飲みなさい!・・・それをただちに飲みなさい! 今のままでイエスに来なさい(C. H. Spurgeon, “Hagar: Eyes Opened,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, March 18, 1866, from Sermons on Women of the Bible, Hendrickson Publishers, n.d., pp. 32, 37)。

なぜハガルは早い時にその井戸に気づかなかったのでしょうか? Dr. ジョン・ギル博士(John Gill/1697-1771)は、それは彼女があまりにも涙を流したので、目が腫れたからでは、と言いました。 神は、彼女の目の前にある井戸を見させるために、彼女を目を開けなければなりませんでした! それは、あなたの場合にも当てはまるのでは? あなたはあまりにも泣いたので、あなたの心の目ははれているのでは? 何であろうとも、聖書は私たちに、“神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た”(創世記第21章19節)のです。 あぁ、今朝、尊い聖霊があなたの目を開け、信仰でもってイエスを見させるように。 キリストは言われました、“だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい”(ヨハネによる福音書第7章37節)と。

若かりし頃のジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield/1714-1770)は、救われるために全ての事をしました。 益を出さない長い時が続いた後に、ホイットフィールドは自らの体をベッドに投げかけ叫びだしました、“我は、渇いた! 我は、渇いた!”と。 それと時を同じくして、イエスは彼に来て、彼の魂の渇きを癒しました。 そして、彼は救われました! ソング・シートの七番目を開いてください。 それを歌いなさい!

あぁ! 霊的にのどのかわいている者は皆
   疲れ 悲しみにいるも者は皆
イエスに満たされた 泉に来なさい
   探し求める者はすべて 来て喜ぶ
のどの渇いている者へ 私は水を注ごう
   乾いた地に 私は水を流そう
私がもってくるギフトへ、こころを開けよ、
   [あなたが]私を捜し求めるならば、私は見つかる

この世の子よ あなたは罪の束縛に疲れ果てているか?
   地上の楽しみ 嘘 不真実への疲れ
[キリスト]と彼の満ちた祝福へののどの渇き?
   あなたへの御言葉である 約束の言葉を聴きなさい
のどの渇いている者へ 私は水を注ごう
   乾いた地に 私は水を流そう
私がもってくるギフトへ、こころを開けよ、
   [あなたが]私を捜し求めるならば、私は見つかる
(“Ho! Every One That is Thirsty” by Lucy J. Rider, 1849-1922;
     altered by the Pastor).

イエスは言われました、“だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい”(ヨハネによる福音書第7章37節)。 あぁ、単に信仰でもってイエスに来なさい、そして、“いのちの水・・・価なしにそれを受ける・・・”(ヨハネの黙示録第22章17節)ように。 イエスは、あなたの罪を贖うために十字架で死にました。 彼は死からよみがえり、天に昇天されました。 彼はあなたを救うためにそこにいます。 彼は言われました、“だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい”。 あなたは彼に来ますか? 私は、今朝、神があなたがそうするようにされることを祈ります。 “この世の子よ”をもう一度歌ってください!

この世の子よ あなたは罪の束縛に疲れ果てているか?
   地上の楽しみ 嘘 不真実への疲れ
[キリスト]と彼の満ちた祝福へののどの渇き?
   あなたへの御言葉である 約束の言葉を聴きなさい
のどの渇いている者へ 私は水を注ごう
   乾いた地に 私は水を流そう
私がもってくるギフトへ、こころを開けよ、
   [あなたが]私を捜し求めるならば、私は見つかる

(説教終了)
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You may email Dr. Hymers at rlhymersjr@sbcglobal.net, (Click Here)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: 創世記第21章15-19節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Ho! Every One that is Thirsty” (by Lucy J. Rider, 1849-1922).

要 綱

ハガルの回心
(創世記シリーズ、その63)

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。”(エペソ人への手紙第2章8節)

(ローマ人への第5章12節;エペソ人への手紙第2章5節)

I. 最初に、アブラムとサライの正しくない証にもかかわらず、
ハガルは回心した。 エペソ人への手紙第2章8節。

II. 次に、ハガルは神を初めて体験した。
創世記第16章6、9、13-14節。

III. 最後に、ハガルの目は開き、その井戸から水を飲んだ。
創世記第21章15-19節;ヨハネによる福音書第7章37節;
ヨハネの黙示録第22章17節。