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魂の救いへの哀れみ R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 SOUL WINNING COMPASSION ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて “また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。” (マタイによる福音書第9章36節) |
“あわれみ(compassion)”と訳されたギリシャ語の原語は、“悲哀を感じること、かわいそうに思うこと、いたわりの心で揺るがされること”(Strong)という意味です。 スポルジョンはこのように言っています、 このギリシャ語の言葉は“非常に注目すべき言葉である。 それは古代のギリシャ語には見出せない。 その言葉はセプトゥギンタ(旧約聖書のギリシャ語訳)にも見当たらない。 実際は、それは使徒達[マタイ、マルコ、そしてルカ]によって造り出された造語であった。 彼らは、自分達の目的に添った深い意味を表現する[言葉]をギリシャ語の中に見出す事が出来なかったので、彼らはその言葉を造り出さなければならなかった。 その言葉は最も深い感情の表現;[心]の奮闘―あわれみを抱いた最も奥深い心の切望を表している。 [キリストの]心は、彼の目に熟視されたあわれみに対する悲哀ではち切れそうであった。 彼の目前の苦しむ人達に対する同情で心が揺り動かされた。・・・もしあなた方が、キリストの全性格をまとめ上げるならば、・・・それは次の一行でまとめられるであろう、‘彼は彼らに対するあわれみで心が動かされた’”(C. H. Spurgeon, “The Compassion of Jesus,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1979 edition, volume LX, p. 613; text, Matthew 9:36)。
私は、ギリシャ語に“あわれみ”を表す言葉がなかった理由が理解できるように思えます。 ギリシャ・ローマ時代の世には、そのような言葉は必要ありませんでした。 なぜなら、そのような感情さえその世界には無かったからです。 それは無情な冷酷さへと堕落していった文明社会だったからです。 使徒パウロはそのような異教徒達を、“無情[愛情が無い]、無慈悲[哀れみの無い]な者となっている”(ローマ人への手紙第1章31節)と表しています。 愛情が無い、容赦の無い、哀れみの無い、そして情けの無い―それが第一世紀のギリシャ・ローマ時代の様子を概説しています。 チャールズ・ホッジ博士(Dr. Charles Hodge)は、“ここに描写された、[第一世紀における]彼らの国々の人々の暗黒さは、多くの有名なギリシャとラテンの著者達によって描かれた邪悪さには及ばない。 注解者達は、古代の著者達による恐ろしい文章句のアレイを収集している、それらは(ローマ人への手紙第1章で)使徒パウロの記述を確証する以上のものである”(Charles Hodge, Ph.D., A Commentary on Romans, The Banner of Truth Trust, 1997 edition, p. 43; note on Romans 1:29-31)と書いています。
この手短な説教では、剣闘士や小さな子供達さえもが、野生の熊やライオンに食いちぎられているのを見ながら、人々が飲み騒ぎして狂喜したコロシアムでのローマ人の無情さ、彼らの残虐な冷酷さをあなた方にただ思い起こさせる事が出来るのみです。 私はあなた方に、それらの異端者達が新生児を“捨てて死なせ”、野原や森林などに何千もの望まれない赤ちゃんを妊娠中絶によって“むき出し”にした状態で死なせ、放る事などが日常の習わしであった事を思い起こさせる事しか出来ません。
しかしキリストが来られた時、彼の使徒達は、闘技場で体験した虐待さを通して生きた多くの人々を助けました。 そして、それらの初期のクリスチャン達が、野原や森林に行き、泣き叫んでいる放られた新生児を救う事が通常の事になりました。 初期のクリスチャンによる哀れみは、第一世紀のギリシャ・ローマ時代の世界では真新しい事でした。 そしてそれは何千もの人達を教会へ引き寄せる新たな宗教の偉大な特徴の一つでした。 それらの初期のクリスチャン達は、キリストご自身が持たれた哀れみを持つように学んだのです! では、ここで私は今日のテキストから伝道について二つのポイントを取り挙げます。
“群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた” (マタイによる福音書第9章36節).
I. 最初に、伝道者になるにはイエスが抱かれたあわれみを感じなければならない。
“しかし”、“それはイエスであって、私はイエスではない”とあなた方は言うかもしれません。 あなた方がイエスでないことはわかっています。 しかし、もしあなた方が真に回心しているのであらば、あなた方はイエスを自分の模範にしたいと願うでしょう。 なぜなら、彼は“御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである”(ペテロの第一の手紙第2章21節)とあるからです。 キリストが私達の模範です。 私達はキリストを私達の模範とし従うように努力しなければなりません。 私達はキリストのような態度を持つべきです。 使徒パウロは、“キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい”(ピリピ人への手紙第2章5節)と言いました。 私達はイエスが成されたように考え、そして感じるように励むべきなのです。
“群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた”(マタイによる福音書第9章36節).
使徒達の書いた福音書の中で、繰り返し私達はイエスの失われている人たちへのあわれみについて読みます。
“イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで”(マタイによる福音書第14章14節)。
“イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである・・・”(マタイによる福音書第15章32節)。
“イエスは深くあわれんで、・・・” (マタイによる福音書第20章34節).
“イエスは深くあわれみ”(マルコによる福音書第1章 41節)。
“イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで・・・”
(マルコによる福音書第6章34節)。
“この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない”(マルコによる福音書第8章2節)。
“主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた”(ルカによる福音書第7章13節)。
私は、13才の時に、愛する母と一緒に住む事ができない状態になりました。 私の叔父は、しぶしぶ私を彼の家に置いてくれました。 しかしそこでは、私は歓迎されませんでした。 その家では毎日のように喧嘩や口論がありました。 なので私は午後学校から帰った後、裏口から出て塀を越え、隣のマックガワン先生夫妻の息子と遊びました。 日が沈むと、マイクと私は彼らの家でテレビを見ました。 よくマックガワン夫人は、私に“ロバート、夕食を一緒に食べて行きなさい”と言ってくれました。 何度も私は彼らと夕食を共にしました。 ある午後、マックガワン夫人は、“ロバート、今夜私達と一緒にリバイバルの集会に行かない?”と言ってくれました。 私はすぐに、“もちろん”と答え、その夜彼らと一緒にカリフォルニア州のハンティントン・パークにあるファースト・バプテスト教会に行きました。 そのときから私は毎週教会へ通うようになりました。 私は何年間も救われてはいませんでしたが、彼らと一緒に教会へ通いました。
先週の日曜日の夜の集会で私はその話をしました。 その後で、私はグリフィス氏に、もしマックガワン夫人が私に夕食を共にさせ、“ロバート、今夜私達と一緒にリバイブルの集会に行かない?”と誘わなかったなら、57年後の今、私は牧師にはなっていなかっただろうと話しました。 グリフィス氏は、“もし彼女がそうしなかったなら、私もここにはいなかったでしょう”と言いました。 そして私はセロン氏にも、“誰もこの教会にはいなかったでしょう”と言いました。 孤独で13才の失われた少年へのマックガワン夫妻の切実なあわれみが、二つの教会を創設する結果となり、多くの人達が救われ、そしてこれらの説教が14カ国の言葉によって世界中の何千人もの人々へ、インターネットを通して広められているのです。
“群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた” (マタイによる福音書第9章36節).
“我を祝福したまえ(“Make Me a Blessing.”)” を歌いなさい。
我を祝福したまえ、我を祝福したまえ、
我が人生を通して、イエスよ輝きたまえ。
我を祝福したまえ、あぁ我が救い主よ、我は祈る、
今日、誰かのために、我を祝福したまえ。
(“Make Me a Blessing” by Ira B. Wilson, 1880-1950).
伝道者は、イエスと同じ感情を抱かなくてはなりません。 もしあなた方が、不信の人に対して何の哀れみ、何の思いやりも、または情けも抱かないならば、あなた方がその人を救いへ導くチャンスはまず無いでしょう。
II. 次に、伝道者になるには、イエスが成された事をしなければならない。
イエスは単に失われた人をあわれまれたのではありません―彼は何かを成されたのです! 弟子達が食物を買いに出かけている間、イエスはヤコブの井戸の近くにおられました。 彼らが帰って来た時、イエスは回心したサマリヤ人達に囲まれていました。 弟子達は、イエスに食物をすすめようとしましたが、イエスはすでに食物はあったと言われました。
“わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている”(ヨハネによる福音書第4章34-35節)。
私は、17歳の時に、神から福音を説教するよう告げられました。 ハンティントン・パークの教会で説教をするライセンスを与えられました。 すぐに説教を始めましたが、私はまだ救われていませんでした。 私は記憶した福音の言葉を説教しましたが、キリストを知りませんでした。 私は救われる前に、神は私に説教するよう告げられたのです! そうして、私はロスアンゼルスのエコ・パークの近くに母と一緒に移り住みました。
私は、中国へ宣教師として渡った偉大なハドソン・テイラー(Hudson Taylor)の小冊子を読みました。 私は中国人を対象に宣教するべきであると感じました。 1961年の1月にロスアンゼルスにあるファースト・チャイニーズ・バプテスト教会に行き始めました。 私は19歳でした。 私は気づきませんでしたが、まだ回心をしていませんでした。 当時、そこの教会には私と同じ年代の若者はまれでした。 ティモシー・リン博士(Dr. Timothy Lin)が牧師として来られる前は、その教会は非常に小さな教会でした。 しかし、その教会の若い夫妻マーフィーとロマ・ラムさんは、私を快く迎えてくれたのです。 彼らは、晩の集会が終わった後、ジーン・ウィルカーソンさんと一緒に私を食事に誘ってくれました。 彼らの家にも招待してくれました。 その秋に、私はバイオラ・カレッジ(今は大学)に通いました。 マーフィーさんは、バイオラと関連のあるタルボット・セミナリーで授業を受けていました。 1961年9月28日の朝、私が救われたとき、私はマーフィー・ラムさんの横に座っていました。
半世紀以上前のことを振り返ると、もしマックガワン先生夫妻とラム先生夫妻の哀れみが無かったならば、私はクリスチャンにも、また牧師にもなっていなかったでしょう。 彼らは、私がクリスチャンとしてひとり立ちできるまで、私の魂のために助力をしてくれました。 これら四名の方々が、私の魂をキリストへ導かれたと、自信を持って言えます。 彼らは、私に“救いの祈り”を手短にし、私を去ったのではありませんでした。 いいえ、彼らはそれ以上のことを私にしてくれました! 彼らは私の魂の面倒をみてくれたのです! 孤独な失われている十代の青年に哀れみを施し、私の魂を救いへ導かれたのです。 それは“ライフ・スタイル”伝道ではありません。 違います! それは“キリスト・スタイル”伝道なのです! 彼らは私に優しくしてくれて、毎週日曜日に教会で福音の言葉を聞けるよう助けてくれたのです。 私たちの教会へ来る人たちに対して、あなた方も同じようにされることを望みます。
“群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた”(マタイによる福音書第9章36節).
“我を祝福したまえ(“Make Me a Blessing.”)” を歌いなさい。
我を祝福したまえ、我を祝福したまえ、
我が人生を通して、イエスよ輝きたまえ。
我を祝福したまえ、あぁ我が救い主よ、我は祈る、
今日、誰かのために、我を祝福したまえ。
ジョン・ライス博士はこのように言いました、
福音の言葉は、失われている者への哀れみを、自ずと必須とさせる・・・主・イエスの最上の犠牲、死せる愛は、我々のこころを溶かした。魂の深い揺らぎを伴わない限り、天国から下られた救い主の、この世での貧困さ、辱めさ、裏切り、ゲッセマネの園で流された血の汗、十字架での苦悩、それらのテーマは語れない。愛、感謝、聖なる解放、そして奉仕の怒涛は、何と真の信者の中に知らされることか!・・・。
失われている人たちが、“教会には多くの偽善者がいる”と言うのをしばしば聞く。彼らが言うことは正しいと思わざるを得ない。教会に多くの偽善者がいるのは疑いの無い事実である。12弟子の一人は偽善者であった・・・。何がクリスチャンを偽善者にみせるか知っているだろうか?・・・救われていない人々は、そのような偽善者はクリスチャンとしてどうあるべきかを完全には理解せず、罪びとの救いという聖なる事象にについて語ることができない、と感じている。私はそう信じる。どこにでもいる失われている罪びとは、もし、天と地獄、黄泉と永遠、救いと滅び、がキリストの教えられた福音のテーマであるならば、すべての新生した神の子は・・・貧しい、滅びゆく罪びとを地獄から救うために最善の努力をすべきであると知っている、と私は考える!(John R. Rice, D.D., The Golden Path of Successful Personal Soul Winning, Sword of the Lord Publishers, 1961, pp. 123, 124, 125)。
伝道への哀れみに無関心なことが、世間の目には、教会員が偽善者と映るのです。 人々は、“もしこれらの教会の人たちが本当に自分達の言うことを信じるのであれば、彼らは他の人たちがクリスチャンになることをより助けるのでは”と感じています。 彼らがそう考えているのをあなた方は知っているでしょう! 毎週日曜日、私たちの教会へ来る多くの人たちを愛し思いやることによって、この非難を取り除こうではありませんか!
もし、あなた方がこの聖なる務めに再度献身したいと思うのでしたら、この演壇の前にひざまづきなさい。 私たちは、神はあなた方に若い人たちへの同情心を起こさせられることを祈ります。 (祈り) 席に戻りながら“我を祝福したまえ(“Make Me a Blessing.”)” を歌いなさい。
我を祝福したまえ、我を祝福したまえ、
我が人生を通して、イエスよ輝きたまえ。
我を祝福したまえ、あぁ我が救い主よ、我は祈る、
今日、誰かのために、我を祝福したまえ。
私は、まだ失われているあなた方へ福音の言葉を話さずにこの説教を終えることはできません。 聖書は、“神はそのひとり子を[十字架で死ぬために]賜ったほどに、この世を愛して下さった。 それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである”(ヨハネによる福音書第3章16節)と言っています。 あなた方が罪から背け、イエス・キリストへ直接来ることを私たちは祈ります。 彼は天国の神の右座に座っています。 信仰でもって彼に来なさい! 彼は、ご自身の尊い御血でもってあなた方を罪から清めるでしょう、そしてあなた方に永遠の命を与えるでしょう。 アーメン。
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: マタイによる福音書第9章35-38節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Here Am I” (by Dr. John R. Rice, 1895-1980).
要 綱 魂の救いへの哀れみ R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 “また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。” (マタイによる福音書第9章36節) (ローマ人への手紙第1章31節) I. 最初に、伝道者になるにはイエスが抱かれたあわれみを感じなければならない。 II. 次に、伝道者になるには、イエスが成された事をしなければならない。 |