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魂の医者、キリスト (ジョージ・ホウィットフィールド牧師による説教からの翻案) R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 CHRIST – THE PHYSICIAN OF THE SOUL ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて |
私達のウェブサイトでこれらの説教を読んだある人が、なぜ私の説教はそんなに短いのかと尋ねました。 答えは簡単です。 私が一句づつ説教する毎に、私の言葉は二人によって、最初は中国語、そしてスペイン語の言葉に通訳されます。 私達三人はすばやく話しますが、それにしても、これらの短い説教は、ほぼ五十分かかります。 誰も身動きせず、もてあそばず、注意深く皆さんは聞いています。 初めて来られた方達と子供達も同じです。
この説教は、私のコメントを加え編集し、短めに要約されています。 これは、ジョージ・ホウィットフィールド牧師による“Christ the Physician of the Soul(魂の医者、キリスト)”(George Whitefield, Sermons, Pietan Publications, 2008, volume IV, pp. 46-62)から翻案したものです。 ホウィットフィールドは1714年に生まれました。 オックスフォード大学から修士の学位を取った後、彼は英国教会によって牧師に叙任されました。 彼の最初の説教は1736年にされました。 ホウィットフィールドは、彼のオックスフォード大学からの仲間であるジョン・ウェスリーとチャールズ・ウェスリーと共に宣教師としてアメリカに来ました。 彼がイギリスに戻った時、彼の教会員の新生の必要性に関する説教が、ほぼ全てのイギリスの牧師達が彼に対して教会の扉を閉ざす原因となったことに気がつきました。 彼はイギリス中の教会の説教壇から公然と非難されました。 しかし、この事は人々に更に彼の説教を聞きたがらせました。 このメッセージを絶えず教会員に向かって説教したが為に彼は教会から追い出され、彼は野外で説教し始めました。 ウェールズ、スコットランド、イングランド、アメリカ、そしてその他多くの国々を彼が説教して回る時、何千人もの人達が彼の説教を聞く為に押し寄せました。 彼は、生涯休むことなく、一週間に平均15回説教をしました。 彼は常に大いなる活気と熱烈さを持って説教しました。 彼の声は一マイル(1.6キロメーター)以上離れた先にも聞こえるほどでした。 そして、彼はかつてスコットランドのカンバスラング(Cambuslang)で、(当然マイクなしで)13万8千人もの人達に向かって説教しました。 1770年9月30日に、彼は最後の説教を終え、その何時間か後にマサチューセッツ州のニューベリーポートで彼は亡くなりました。 ビリー・グラハムが(現代の音響装置を使用して)説教し始めるまで、ホウィトフィールドは歴史上他の誰よも多くの人達に向かって説教しました。 しかしビリー・グラハムの“決断主義者”のメッセージとそのやり方は、ホウィトフィールドに比べると、むしろ彼をはるかに重要でない人物とみなしました。 ビリー・グラハム自身、彼のクルセードの間にリバイバルは全く起こらなかった事を認めています。 その反面、ホウィトフィールドは常に、彼の説教で神ご自身からのリバイブルを体験しました。 私達はビリー・グラハムのような説教者を必要としません! 私達は今日、ジョージ・ホウィトフィールドのような人物が再び必要なのです。 マタイによる福音書第9章12節を開いて、神の御言を立って読んで下さい。
““丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である”
(マタイによる福音書第9章12節)。
着席してください。
今日、私達のテキストの真意は忘れられています。 私達の間では、どうしたら繁栄するか、どうしたら気分を良くするか、どのようによい家庭を築き上げるか、どうしたら幸せになれるか、どうしたら成功するか、そしてどうしたら身体が癒されるか、などの説教で満ちています。 私達は、聖書の長い聖句についての“解説的な”説教と呼ばれる退屈な講義で圧倒されています。 この方法はプリモス・ブラザレン(Plymouth Brethren)によって導入され、それは私達バプテストの伝統からくるものではありません。 それは通常とても退屈なものです。 全ての説教はみな同じように聞こえます。 人々は何を説教されたかも覚えていません、なぜなら、これらの現代的な“解説”には、あまりにも多くのアイデアが含まれているからです。 それらは真の説教ではなく、ほとんどの教会員達は回心していなくとも、それはクリスチャン達に向けられた複雑な聖書研究なのです!
新生、そして回心などを主題に説教する説教者はどこにいるでしょうか? 私達を、罪から、地獄から、そして墓から救う事の出来る唯一の魂の医者、キリストを主要なトピックスとする説教達はどこにいるのでしょうか? それが今日まさに緊急に必要な説教なのです! それがこの暗黒の世界で、あなた方の世代が高らかに、そして明白に聞くべき説教なのです! 私達の国は崩壊し、世界の国々が混乱と反乱に陥っている時、私達の先駆者の魂を救った福音が再び私達の説教壇で聞かれますように! 私達にはホウィトフィールドによる説教にあった熱烈なメッセージが必要なのです! そして私達の間に蔓延している意味のない音楽を捨て、昔ながらの賛美歌を恥じることなく熱心に力を込めて再び歌いましょう!
喜びあふるる福音、イエスは救います!イエスは救います!
福音を波及せしめ、イエスは救います!イエスは救います!
山河を越え、海峡を越え、福音を全土へ、
前進!主のご命令、イエスは救います!イエスは救います!
(“Jesus Saves” by Priscilla J. Owens, 1829-1907).
イエスは私達を何から救ってくださるのでしょうか? 必ずしも貧困からではありません。 歴史上、ある最も偉大なクリスチャン達は、貧困の中に生きました。 必ずしも病気からでもありません。 歴史上、ある最も偉大なクリスチャン達は、悲惨な病によって非常に苦しみました。 イエスは、私達を罪から救う為に十字架につけられ、そして死からよみがえられました! それが聖書の最も主要なメッセージなのです! “キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと”(コリント人への第一の手紙第15章3節)。 それが福音の本質なのです! 私達の説教壇から、熱意を込めて再びそれを聞かせてください!
“キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった”
(テモテへの第一の手紙 第1章15節)。
私達のテキストに近づきました。 イエスがマタイの家で食事をされていました。 多くの取税吏と罪びと達も一緒に座りイエスと共に食事をしました。 正統派のユダヤ人達は彼ら(取税吏)を嫌悪していました。 なぜなら彼らはローマの下で働き、税金で集めた多くのお金を自分達のものにしていたからです。 パリサイ人達は、当時ユダヤ教正統派でした。 彼らはユダヤ人の伝統により、取税人達は泥棒そして裏切者達とみなしました。 “罪人”とは、パリサイ人達が価値のないユダヤ人とみなすような人達でした。 なぜなら、彼らはユダヤ教の伝統に倣っていなかったからです。 パリサイ人達は、彼らを邪悪な“罪人”とみなしていました、なぜなら彼らはユダヤ教の指導者達の規則と伝統に従っていなかったからです。
“取税人”や“罪人”は、スラム街に住む宿無し、麻薬中毒者、生活保護者のような人達ではなかったことを理解しなければなりません。 当時はスラム街は無く、生活保護もありませんでした。 イエスと共に食事に来た人達の一人も麻薬中毒者などではありませんでした。 すべての取税人や罪人達は労働者達でした。 しかしパリサイ人達は、彼らをのけ者のようにみなしていたのです。
イエスが、それらのけ者達と共に食事をしているのをパリサイ人達が見て、“弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」”(マタイによる福音書第9章11節)と言いました。 イエスは、パリサイ人達がそう言うの聞いてこう言われました、
“「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である”
(マタイによる福音書 第9章12節)。
パリサイ人達は、自分達は正当であると考え、彼らは正義であるから救いを必要としていませんでした。 なぜなら彼らは正統派のユダヤ教の規則を守っていたからです。 このことは、独善的なパリサイ人以上に、彼らを救いへの可能性のある者達としました。
“「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である”
(マタイによる福音書 第9章12節)。
私はこのテキストを三つのポイントに分けます。
I. 最初に、自分達を正しいとみなす者達。
キリストはここで罪深い人達に対して、御自分を“医者”として話されています。 しかし自分達をすでに正しいとする者達はキリストを心から必要と感じていません。 彼らは宮に通っていたパリサイ人のような人です。 彼は自分自身を信頼していました。 彼は自分は正義であると思っていました。 彼は、“神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します”(ルカによる福音書第18章11節)と言いました。 彼は宮で真に祈るために来たのではありません。 彼は、自分を誇る為に来ました、彼は自分を他の人達と比べ、彼らよりも自分が正しいものである事を自慢する為に来ていました。
あなた方は彼のようですか? あなた方は、自分よりももっとひどい罪人である人達について考えていますか? あなた方は彼らより正しいと考え、さほど悪い罪人ではないと思っていますか? もしあなた方がそのように思っているならば、当然あなた方は魂の偉大な医者を心から必要と感じていないのです。 救い主、イエスはあなた方にとって全く興味をそそられる方ではないのです。 なぜならあなた方は自分の心に、そして生活の中で罪の意識を全く感じた事がないからです。 ですから、以前祈った事があり、聖書の幾つかの聖句を学んだので自分は救われていると思っているような福音主義者よりも、仏教徒やローマ・カトリック教徒の方がもっと望みがあります。 五十三年もの長い奉仕の体験から、私は無心論者、不可知論者、そしてカトリック教徒は、現代の“決断主義”によって盲目にされている独善的な新福音主義者よりも真の救いの可能性がある事を見出しました。
“「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である”
(マタイによる福音書 第9章12節)。
偉大な説教者、ジョージ・ホウィットフィールドは、“自分がすでに十分に正当であると考えているような人よりも、安息日を破るような人、悪態を言う人、ののしる人などに、私は希望を持っている。 [キリストは]‘取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる’[マタイによる福音書第21章31節]と言われた。 [自分は十分正しいと考える]人は自分自身を、貧しく、死んでおり、[キリストを必要とする事を知らない]愚か者で[あると]認める、キリスト教の最初の教訓をまだ学んでいない。・・・説教者が罪人に向かって語る時、その人は自分ではなく、他の者達に向かって説教者は話していると思っている”(Whitefield, 同著, p. 53)。 そのような人は、真の回心を体験する希望はほとんどありません!
“「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である”
(マタイによる福音書 第9章12節)。
II. 次に、自分達を病人とみなす人達。
キリストは、ここでは実際の体の病を語っていません。 今日、体の病の癒しは、ペンテコストやカリスマ派によって強調されすぎています。内容を伴わないでこのテキストを、体の病の癒しとして説教をする人がいます! しかし、昔の人は正しく言っています、“内容のないテキストは、口実である”と。 マタイによる福音書第9章10-13節で、イエスは体の病の癒しを話していません。 13節はそれを完璧に明白にしています。
私達のテキストで、彼は自らを魂の医者、死に逝く魂の癒し人と呼んでいます。 ホウィトフィールドは、“私達の主が病気である人々のことを話す時、心の病をもっテいる人達のことである・・・。 もし、天国の門に入り、永遠に神の恵みでもって生きる望みを抱くならば、恵みなる御霊により、永遠なる神はあなた方を病に置かなければならない。 何の病か? 彼は、大いなるある罪による[失われた]魂の病、それはその人を有罪とし・・・。 それゆえ、人は罪の病を思い始め・・・。 それだけでなく、もし神の働きが罪びとのこころを通し、御霊が心深く入り、その[罪びと]は、実際の罪だけでなく、その人の原罪をも病と思い始め・・・。 ‘あぁ’罪びとは言うであろう、‘今、自分は邪悪な心をもち、自分の心はもっとも狡猾であることに気づいた。 自分は原罪の教義を知った・・・。’ よい心を持っていたと思っていた人は、罪以外に何物をももっていないことを知り、その罪は度を越えたもので、‘わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか’(ローマ人への手紙第7章24節)と言うであろう。 ついにその失われた罪びとは、不信な罪の病に置かれる。 その哀れなものは、以前は、信仰をもっていた・・・キリストにあった・・・なぜなら、キリストの話を聞いたから、と思っていたが、その哀れなものは、太陽を動かすことができると信じるほどに思えない。 [今、その罪びとは]言うであろう、‘「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」’(使徒行伝第16章30節)。 そして、その罪びとは、‘哀れな、失われた、何もなされていない、おろかな創造物として、イエス・キリストに何を与えられようか? 主イエス・キリストと彼の義に信仰を置くために、何を与えようか?’ 今、その哀れな罪びとは病に置かれ、その哀れな魂は医者を必要とし・・・その哀れな罪びとは、日々思い悩み、納得するのを拒む・・・。 その哀れな創造物は、‘キリストの御血以外に私を癒すものはない’と言う。 そのような人は[キリストを]医者とする必要がある”(Whitefield, 同著, pp. 54-57).
“「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である”
(マタイによる福音書 第9章12節)。
III. 最後に、イエスを欲するほどに病気であるとみなす人達。
救い主は言われました、“すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう”(マタイによる福音書第11章28節)。 もしあなた方が、自分の罪ゆえに重荷を負い苦労をしていると思うのでしたら、イエスに来なさい。 彼は、十字架であなた方の罪の罰を償われました。 彼は、あなた方を“すべての罪から”(ヨハネの第一の手紙第1章7節)清めるでしょう。 今彼は、天国の神の右座で生きています。 イエスに来てあなた方の罪から癒されなさい! ホウィトフィールドは言いました、“あなた方が、‘あなたは私に話しているのですか。 自分は知らされました、私の魂の中に地獄があるように感じます。 自分には義がないように思います。 自分の罪を思うことで慄きます。 私は完全に堕落したものと感じます。 主イエス・キリストを信じられない自分を知ります。 信仰がほしいです。 私は医者が必要です。 私に何が起こったのですか? 私はこのまま朽ち、自分の病は決して治らないのではと恐れます。 私は病気です。 長い間あまりにも多くの罪を犯しました・・・神は自分に哀れみをくださらないのでは、と恐れます。’ 私はどのようにあなた方を勇気付ければよいのか? 親愛なるイエスの足元に横たえることを勇気付けようか? 心を砕かれたあなた方、彼のもとへ行きなさい。 このすべての言葉を忘れてはならない、‘すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう’ 偉大な魂の医者、イエスに来なさい。 あぁ、この偉大な医者へ来なさい。 彼は無償であなた方を癒すでしょう。 ‘金を出さずに’(イザヤ書第55章1節)あなた方は癒されるでしょう。 あなた方が彼に来るならば、彼の恵みは無償です。 彼に信仰をもつ、その行いで、あなた方は完全に癒されるのです。 キリストは、無償でそうされるでしょう”(Whitefield, ibid., pp. 60-61) 。 アーメン。 立って、ソングシートの7番を歌いなさい。
インマヌエルの血管より流れ出る血を満たした泉あり、
その泉に浸された罪びとは、すべての罪のしみが洗われる。
すべての罪のしみが洗われる。すべての罪のしみが洗われる。
その泉に浸された罪びとは、すべての罪のしみが洗われる。
(“There Is a Fountain” by William Cowper, 1731-1800).
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: マタイによる福音書第9章10-13節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Hallelujah! What a Saviour!” (by Philip P. Bliss, 1838-1876).
要 綱 魂の医者、キリスト (ジョージ・ホウィットフィールド牧師による説教からの翻案) R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 “「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である” (コリント人への第一の手紙第15章3節; I. 最初に、自分達を正しいとみなす者達。 II. 次に、自分達を病人とみなす人達。 III. 最後に、イエスを欲するほどに病気であるとみなす人達。 |