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私たちの友、ルター! R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 OUR FRIEND LUTHER! ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて “「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである” |
ある人達は、なぜ私がマーティン・ルターに関して述べるのか疑問に持つかもしれません。 始めに、私はバプテスト教徒であり、ルーテル教徒ではない事を明白にします。 教会の特質に関して、私はルーテル教徒ではなくバプテスト教徒です。 洗礼については、私はルーテル教徒ではなくバプテスト教徒です。 主の晩餐については、私はルーテル教徒ではなくバプテスト教徒です。 イスラエル国家に関して、そしてユダヤ人については、私はルーテル教徒ではなくバプテスト教徒です。 これらは重要な事であり、それらに関して全て、私はルターに同意しませんし、それらに関しては、バプテスト教を支持します。 しかし、キリストへの信仰のみによる義認に関するルターの明瞭な聖書の教えを、私は心から感謝しています。 私は今日のルーテル教派に関して述べているのではありません。 私はルター、彼自身について述べているのです。 彼は歴史上最も偉大なクリスチャンの一人です。
ルターは歴史の中で、実際の人物像として、時には粗野で頑固な人物として、当時の人々の間で際立ちました。 彼は全てを明白に理解していませんでした。 彼は、教会が完全にイスラエル民族を取って代わるという“replacement theology”のカトリックの教義を支持し続けました。 このカトリックの教義は、彼の生涯の後半で、ユダヤ人達に対して不利な宣言をさせました。 しかしクリスチャンとなったユダヤ人、リチャード・ウオンブラントは、彼は、今日の私達と同然の人物であったと理解し、彼を許しました。 後の歴史が、今日特に、魂を滅ぼす“決断主義”の 誤った教えに関して、私達に多くの欠点がある事を明白にすることでしょう。
幾つかの“誤った点”があったにしろ、ルターは驚くべき天賦なる才能がありました。 スポルジョンは彼を激賞し、信仰による救い(see two of Spurgeon’s sermons on Luther, The Metropolitan Tabernacle Pulpit, volume XXIX, pp. 613-636)に関し、彼の言葉をしばしば引用しました。 スポルジョンは、“この偉大な宗教改革者の主要な証言は、イエス・キリストへの信仰による罪人の義認であった”(同著727p)と言っています。 何度もルターは、大いなる独創性や説得力で理論的な根本、そして彼の考えを表現しました。
義認は救いに関する全ての教義の中で最も重要なポイントです。 義認無しには人は地獄の火炎へと定められます! 人は教会、洗礼、主の晩餐に関して、そしてイスラエル民族に関して、正しいかもしれません。 しかし彼が義とされないならば、その人は地獄に行くでしょう。 一方で、ルターのように、その他のポイントについて間違っていても、人が義認されているならば、彼は救われる事が出来ます。 ですから、スポルジョンは、義認を“宗教改革の冠の宝石”と呼んでいます。 なぜなら、義認は最も重要な教義であり、それ無しには誰も救われる事は出来ないからです! 全てのポイントの中で、この最も重要な点において、私はこの宗教改革者を支持します。 私は、イエス・キリストへの信仰による義認に関してルターを支持します! それがルターの主な主題でした、そしてそれに関して私は完全に同意します!
“信仰による義人は生きる”(ローマ人への手紙第1章 17節)。
どのようにルターはこのテキストを理解するようになったのでしょうか? 最も偉大なバプテストの牧師スポルジョンは、ルターの回心についてこのように語っています。
私は、ルターの生涯におけるある出来事を挙げてこの教えを概要し説明しよう。この偉大な宗教改革者の上に徐々に福音のひらめきが打ちのめした。 大黒柱につながれた、すばらしい聖書を翻し、彼がこの聖句“信仰による義人は生きる”へとたどり着いたのは、その修道院であった。このすばらしい聖句が彼の脳裏に残った:しかし彼はその関連を理解する事があまり出来なかった。彼は安息を見出せなかった、しかしながら、彼の聖職そして修道士としての習慣に安らぎを見出した。 正しい事ではないと知りながらも、彼は非常に多くの難行に、また非常に困難な苦行に耐え、時には極度の疲労により卒倒していた自分を見つけられた。彼は死の手前にまで彼自身をもたらした。彼はどうしてもローマへ向かわなければならなかった、なぜならローマには日々活気なる教会があったからである、そしてそれらの聖なる礼拝堂では、罪の許し、そして、様々な祝福を確かに取得すること出来るからである。彼は聖なる都[ローマ]に行く事を夢に描いた、しかしそれどころか、彼はそれが偽善者達の溜まり場、そして不正の巣であることを見出した。恐るべき事に、彼はもし地獄が存在するならば、ローマはその上に建てられていると人々が話しているのを聞いた、なぜならば、それは、この世にある最もそこに近い通路であったからである;それでも彼はローマ法王を信じ、急速を得るために難行を続けた。しかし何も見出す事だ出来なかった。私は、それは我々の主がピラトの宮殿を去られた時に、彼が下られた正にその階段であり、幾つかの段には、[キリスト]の血の跡であると言わた事を信じきっている為に、はいながら上がったり降りたりしている哀れな人々に、自分は階段の裾で驚嘆して立ちすくまった;それらの哀れな人々は非常に献身的にキスをしている。ある日、ルターはそれらの階段を腹ばいで上がっていた時に、以前修道院で見出した同じ聖句が、彼の耳に雷の破裂音のように聞こえた、“信仰による義人は生きる”。彼は屈服から立ち上がり、その階段から下り、二度とそれらには屈服する事はなかった。その時に主は、迷信から彼を完全に解放された、そして彼は、祭司達、祭司の才覚、苦行、また彼が成し、命をかけた全ての事によるものではなく、彼の[キリスト]への信仰によって生きねばならない事を理解した。 我々のこの[今晩の]テキストが、その[カトリック]の修道士を自由にし、彼の心を燃やした。
[“信仰による義人は生きる”
(ローマ人への手紙第1章17節)。]
彼はそれを信じるとまもなく、彼は活動的自覚をおぼえた。タゼルという一人の[祭司]は、多額の現金のゆえに、罪の免除を売ろうとドイツに行こうとしていた。それがどんな罪であろうとも、お金が[集金]箱の底に触れや否や、罪は許された。 ルターはそれを耳にし、憤慨し、“私は彼のドラム缶に穴をあける”と声を張り上げて言った。そして彼は確かにそれを成し、更に多くの他の缶にもそのようにした。彼の論題を教会のドアに釘付けした事は、免罪符の音を黙らせる確かな方法であった。ルターはお金や代償、そしてまもなく後に嘲笑の的となったローマ法王による免罪符無しに、キリストへの信仰による罪の許しを主張した。ルターは信仰によって生きたゆえに、そうでなければ沈黙していたかもしれない彼が、ライオンがえじきに向かって憤って吠えるように、誤りを公然と非難した。彼の内にあった信仰が彼を張り詰めた生涯で満たせ、彼を敵対者との闘争に追い込んだ。 しばらくして後、彼らはルターにアウクスブルクへの出頭を命じた、彼らの友人達は彼に行かないように助言したにもかかわらず彼は出頭した。彼らは、彼を異端者として、彼自身にウォルムスの帝国議会で応対する為に出頭を命じた、そして回りは皆彼に退くように言いつけた、なぜなら疑いもなく彼は[火あぶりの刑で]焼かれるであろう:しかし、彼は証言が広められる事は必要であると感じ、彼は馬車に乗り村から村へ、町から町へと宣べ伝えた。貧しい人々は出てきて、キリストの福音のために命がけで立ち向かっていたその人と握手をし合った。彼がウォルムスの威厳ある議会の前に出て、どうのように立ちはだかったか心にかけよ、そして人間としての力では、彼の防御は彼の命さえも犠牲になり、たぶんにジョン・ハスと同様、[火あぶりの刑で焼かれる]であろう事を承知していたが、にもかかわらず彼は、彼の神、主の人として[振る舞った]。その日ドイツ帝国議会でのルターの行いは、何万倍にも及ぶ人の子が彼の名をほめたたえ、そして更に彼の神、主の名を賛美した(C. H. Spurgeon, “A Luther Sermon at the Tabernacle,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1973 reprint, Volume XXIX, pp. 622-623)。
“信仰による義人は生きる”(ローマ人への手紙第1章 17節)。
以前、1950年代初期に、私が始めてルターに出会ったのはバプテスト教会でした。 ある日曜日の晩に、彼らはルターの白黒の古い映画を見せました。 彼には、私が興味を注がれるような事は何一つない、過去の一風変わった人物のように思えました。 その映画は退屈で長ったらしく思えました、そして私は、なぜ私の牧師、ウォルター・ペッグ博士(Dr. Walter A. Pegg)は、そのような映画を見せるのか不思議でした。 私は現在、この偉大な映画に関して違った見方をしている事を言い加えなければならないでしょう。 現在ではこの映画を見るのがとても好きです! ここをクリックして映画の一部画面を見てください。
私のルターとの二度目の出会いは、私が回心した後のことでした。 私はジョン・ウェスリーの回心の体験談を読みました、その中でウェスリーはこのように書いていました。
夜、私はアルダーゲイト通りの、ソサエティに気の向かないまま出て行った。そこでは一人の人がルターによるローマ人への手紙の前書きを読んでいた。おおよそ9時15分前に、彼はキリストへの信仰を通して神が心に働かれる変換を説明していた。私は心が不思議と温まるのを感じた。私はキリストを信頼したのを心に感じた。キリストのみによる救い;自分に確信があたえられ、彼は私の罪を取り去ってくださった、このような自分でさえも、そして私を罪そして死の律法から救って下さった(John Wesley, The Works of John Wesley, third edition, Baker Book House, 1979 reprint, volume I, p. 103)。
これは私に強く印象付けました、なぜなら、ウェスリーは、第一次大覚醒の間の最もパワフルな二人の説教者の内の一人になった事を私は知っていたからです。 ウェスリーはキリストへの信仰による義に関してのルターの言葉を聴いている時に、回心しました。
そして後にも、我々のバプテストの先駆者ジョン・バニヤンが、ルターが著しく回心した時の事を読んだのを知りました“Expanding his study of the Scripture with writings of Martin Luther”(Pilgrim's Progress, Thomas Nelson, 1999 reprint, publisher's introduction, p. xii)。バニヤンは後に、史上で最も広範囲にわたって読まれているバプテストの著者となりました!
メソジスト教派のジョン・ウェスリーは、ルターの言葉を聴いて回心しました。 そしてバプテスト教派のジョン・バニヤンは、ルターの書いた言葉を読んで回心への奮闘の中、助けられました。 私はルターの書物を読む事は、かなり為になることがあるに違いないと思いました。 私はローマ人への手紙がルターのメッセージの心髄である事を見出しました。 ルターはこのように書いています、
この使徒によって書かれた手紙は、新約聖書の中の最も主要な部分であり、正に純粋な福音である、そしてそれは全てのクリスチャンが一語一語を知るべき事であるだけでなく、魂の日々の糧として、日々彼自身がその言葉に従事するに値する。それは決して読みすぎる、また熟考しすぎる事はない、そしてそれは、読まれるほど、尊いものとなり、吟味に優れる(Martin Luther, “Preface to the Epistle to the Romans,” Works of Martin Luther, Baker Book House, 1982 reprint, volume VI, page 447)。
なぜ私が今日ルターは、重要であると考えるのでしょうか? 単にそれは、彼がローマ人への手紙の時代へと私達を連れ戻し、ローマ人への手紙は“新約聖書の中の最も主要な部分であり、正に純粋な福音である”と言う事が、正に明瞭に私達に示されているからです。 それが、現在のような“決断主義”の邪悪な時代に、私達は幾度も聞かなければならないのです。 他の何よりも、私達はローマ人への手紙に戻る必要があるのです。 今日の“決断主義者達”は同じ事を成しています。 ですから“決断主義”は多様な面で、カトリック教派と似ています。 しかし、キリストの福音の純粋なる光は暗闇を貫通するのです。
“信仰による義人は生きる” ( ローマ人への手紙 第1章 17節)。
ローマ人への手紙第3章20節から26節を読み上げて下さい。
“なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである”(ローマ人への手紙 第3章 20-26節)。
着席して下さい。 これらの聖句の幾つかに注目してください。 20節は重要です。 それはこのよう言っています。
“なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである”(ローマ人への手紙 第 3章 20節)。
ルターは、あなた方は、何をすべきで何をしてはいけないかを教える律法の教師を鑑みてはいけないと言いました。 それは人の律法の行いです。 心の中では同意しないでしょうが、人の律法は良い仕業で満ちています。 しかし神は、あなた方のこころの奥底を見られ、そのため神の律法は、人の内なる奥深いこころに働きかけるので、良い行いでは満たされず、それは単なる、偽善と虚偽の何物でもなくなるのです。 ですから、詩篇116篇11節で、すべての人は偽り者と呼ばれるのです。 誰一人として、神の律法をこころから守らず、そうすることもで着ないのです。 人のことろは、良いものを嫌い、悪い中に楽しみを見出すからです。 もし、良いことに楽しみを見出さないのであれば、あなた方のこころは、心底良いことを欲しないのです。 そして、こころは神の律法を嫌い、それに反対するのです。 罪は真に存在し、神の怒りと裁きが予期されるのです。 たとえ、あなた方は外側は、良い行いを行っているように見られようとも。 あなた方は実際には神の律法により咎められているのです、なぜなら、あなた方の内なるこころは全く神の律法に背いているからです。
しかし、神の律法はあなた方を義としないし、あなた方を救うこともしません。 ローマ人への手紙第章節をもう一度声を出して読んでください。
“なぜなら、律法「もしくは行い」を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである”(ローマ人への手紙 第 3章 20節)。
あなた方はできる限り良くなるように試みるでしょう。 しかし、神はあなた方の外の見かけは見ません。 彼はあなた方のこころを見られます。 そして、神はそこにガラガラ蛇、毒蜘蛛、そして反逆心と罪を見られるのです。
“なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである・・・”(ローマ人への手紙 第 3章 20節)。
あなた方は救われるために、律法に従えば従うほど、救いから遠のくことになるでしょう。 このことはルターの回心に於いても真実なことでした。 また、ウェスリーやバニヤンの回心でも、彼らは死に物狂いになって“良くなろう”として、救われようと試みました。 しかし、律法の行いは彼らを救いから遠のかせるだけでした。 あなた方がこころと精神の中に、聖なる神に対して罪を犯しているという恐ろしいほどの事実を知るとき、それがあなた方のこころを疼かせるように。 ローマ人への手紙第3章20節の終わりの言葉に注目してください、
“律法によっては、罪の自覚が生じるのみである”
(ローマ人への手紙 第 3章 20節)。
神の慈悲深い御霊が、あなた方に下って来て、すでにあなた方を地獄の火炎の中に引き落とす、あなた方の山とつまれた内なる罪でもってあなた方のこころを悩まさなければなりません。
“律法によっては、罪の自覚が生じるのみである”
(ローマ人への手紙 第 3章 20節)。
しかし、神はこの罪深い恐怖から逃れようとする魂のために、癒しを与えられました。 罪を服従させようとすればするほど、罪の中にはまってしまうのです。 それは、あなた方の状態ではありませんか? 罪を犯すまいとすればするほど、あなた方の内なる思いは悪くなります。 すなわち、キリストのすばらしい罪の癒しを追いやるためで、あなた方自身に、人生への“再度の献身”、“前方へ出て行く”こと、“罪びとの祈り”をあげること、救いをより勉強すること、そして他の多くの律法の行いを行うことにより、自分自身をよりよくしようとする思いを起こさせるのです。 るからです。 しかし、あなた方が何を言おうとも、また行おうとも、これらはあなた方に、あなた方の罪深さを知っている神との平安を与えることは出来ません。
24節を見なさい。 ここに、あなた方の罪を犯した、罪深い魂は、癒しのために、義となるために、そして贖われるために来なければならないと記されています。 もう一度、声を出して24節と25節を読みなさい。
“彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる[義として清められる]のである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物[神の怒りからの逃避]とされた。それは神の義を示すためであった”(ローマ人への手紙第3章24-25節)。
キリストの御血に“信仰をもつ”、そのことを通しての恵みがあなた方に施すことができることを、律法はあなた方に施すことは出来ないのです。 キリストの御血のみに於いて、あなた方は罪の贖いと神の怒りからの逃避を見出し得るのです。
では、26節の後ろ半分を声を出して読んでください。 あなた方を義とし、イエス・キリストその人を信じる信仰によって、あなた方をご自分の目に完全に清められる方は、神なのです。
“それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされる[なぜならキリストの苦悩と死による贖いにより]のである”
(ローマ人への手紙第3章26節)。
十字架の上のキリストの身代わりの死により、あなた方の罪は贖われ、あなた方の記録は罪から清くなるのです。 なぜなら、
“しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう”(ローマ人への手紙第5章8-10節)。
キリスト・イエスは、十字架の上であなた方のすべての一つ一つの罪を贖われました。
それでは、あなた方に残されているのは何でしょうか? その答えは26節の後半の中に与えられています、
“[神]みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである”(ローマ人への手紙第3章26節)。
イエスを信じる。 これが、失われている人の葛藤、すなわち“律法”を守り続け、いろいろな“決断”をすることにより、より良い人生を送ろうと試みている人への答えです。 あなた方の良い行いや“決断”から離れ、また、教会内で自分は他の者よりもましであるという思い上がりの思いを捨て去りなさい。 単純に言って、あなた方はそのやり方では救われないのです。
かってあなた方のために十字架の上で御血を流され、今天国に移された永遠に朽ちることのない、すべての罪を清められる、キリストの御血に信仰をもちなさい。 その御血、キリストの御血に信仰をもちなさい。
イエス・キリストご自身を信じなさい。 あなた方の罪のために十字架にかけられているその方を見なさい。 天国の神の御前に、ご自身の聖なる御血を携えるために死からよみがえられている、その方ご自身を見なさい! “彼の血の中に信仰”を持ちなさい。 [神]みずからが義となり、“イエスを信じる者”(ローマ人への手紙第3章26節)の救い主なのです。 イエスの御血に信仰を持ちなさい!
このことは、イエスについての真実をただ信じる、ということ以上のことです。 それは、彼との霊的な交わりなのです! それは、あなた方はイエス・キリストご自身に来て 彼に拠り頼む、という意味です! “イエスを信じなさい”。 彼の元へ直接来なさい! それが、義とされ罪から清められる唯一の方法なのです。 それは永遠なるキリストの福音なのです! キリストの御血に拠り頼みなさい。 彼を信じなさい! 彼の元に来なさい! あなた方がそうするとき、あなた方は回心し、瞬時に救われるのです!
それが、ルターのメッセージの中核なのです、そして、それは誠に真実なメッセージなのです。 キリストの御血による義に関するルターとローマ人への手紙のメッセージを聞きなさい。 キリストを拠りどころとしなさい。 あなた方自身をキリストに投げかけなさい。 彼は、ルター、ウェスリー、そしてバニヤンにされたように、あなた方を救われるでしょう。 救いがあなた方に訪れますように、そして、キリスト・イエスを信じることによる喜びと平安があなた方を満たすように。
イエスに来なさい。 そうすれば、あなた方はすべての罪から清められるでしょう。 そうすれば、あなた方は神の目に義とされるでしょう。 そうして、あなた方は真のクリスチャンになり、キリストの御血とキリストへの信仰は、あなた方が天の都(天路歴程より)に入るまで、あなた方の人生の中に続くことでしょう。 イエスを見なさい、そして手で持って私達の友であるルターをつかみなさい。 アーメン。
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: ローマ人への手紙第3章20-26節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“For All My Sin” (by Norman Clayton, 1943).