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イエス・キリストご自身 R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 JESUS CHRIST HIMSELF カリフォルニア州モンロビア市のカルバリー・ロード・バプテスト教会にて “キリスト・イエスご自身” |
イエス・キリストご自身がこの説教の主題です。 クリスチャンの信仰には、イエス・キリストご自身以外に何もすばらしいものは含みません。 イエス・キリストのような方は今までに、そして今後も決して現れないでしょう。 彼は、人類の歴史上全く稀な方です。 イエス・キリストは、神であり人であります。 イエス・キリストご自身、天国から下られて、人々の間で住まわれました。 イエス・キリストご自身、苦難を受けられ、血を流され、そして私達の罪のために死なれました。 イエス・キリストご自身、私達の義のために身体的に死からよみがえられました。 イエス・キリストご自身、私達のために祈られるため、神の右座に引き上げ戻されました。 そして、イエス・キリストご自身、一千年の間、地上に彼の御国を築きあげられるため、戻って来られます。 その方が、イエス・キリストご自身なのです! 立ってコーラスの部分を歌いなさい!
イエス様だけを、私は仰ぐ、
イエス様だけが、お救いになられる、
そうして、私の歌は他ならず、
イエス様! イエス様だけ!
(“Jesus Only, Let Me See” by Dr. Oswald J. Smith, 1889-1986).
着席してください。
イエス・キリストご自身の主題は、私達が一つの説教の中でそれを全て説明できないほどに、奥行きがあり、広大で、そして大事なのです。 私達は今晩、イエス・キリストご自身に関して、その数点に触れる事が出来るだけです。
I. 最初に、イエス・キリストご自身は、侮られて人に捨てられます。
伝道的預言者イザヤは、次のように言って、それを明白にしました、
“彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった”(イザヤ書第53章3節)。
トーリー博士は、“イエス・キリストに信仰をもてないと言うのは、不運なことではなく、それは罪なのである。 厳しい、ぞっとするような、破滅的な罪なのである”(R. A. Torrey, D.D., How to Work for Christ, Fleming H. Revell Company, n.d., p. 431) 。 預言者イザヤは、キリストを侮り捨てる罪、すなわち、あなた方がキリストに背を向ける内面の邪悪を述べました。 あなた方が完全に腐敗している最も確固たる証拠は、あなた方がイエス・キリストご自身にほとんど注意を払っていない事です。 あなた方が火の池で永遠の罰を受けるに値する最も確固たる証拠は、あなた方が故意に習慣的にイエス・キリストご自身に背を向けている事です。
覚醒しない状態では、あなた方はイエス・キリストご自身を侮っているのです。 完全に腐敗している状態では、あなた方はイエス・キリストご自身を重んじていないのです。 あなた方が良心の呵責に苛まれ、自分の罪の恐ろしさを感じ、永遠の罰に慄くまで、あなた方は続けてイエス・キリストご自身を侮り捨てるのです。
私達の教会では、このことをしばしば目にします。 私達が説教後にあなた方に聞き入るとき、あなた方は多くの事を話します。 聖句であったり、この事あの事を“悟った”とか。 まあ、あなた方が何を感じたとか、何をしたとかをあなた方が言うのを耳にします。 そして最後に、“私はイエスに来ました”とあなた方は言います。 その後で、私達は、“イエスに来る、それについてもう少し話してくれるよう”質問します。 そうすると、あなた方は言葉に窮し、イエス・キリストご自身について何も言えないのです!
偉大なスポルジョンは言いました、“キリストご自身を福音から切り離す、哀れな傾向が人にはある”(C. H. Spurgeon, Around the Wicket Gate, Pilgrim Publications, 1992 reprint, p. 24) 。
救いの計画を知ることは、あなた方を救いません! 聖書をより知ることは、あなた方を救いません! 説教をより聞くことは、あなた方を救いません! 例え、自分の罪を哀れに思ったとしても、そのことはあなた方を救いません! あなた方が、彼を侮り捨てることを止めるよう動かされるまでは、何も役に立たないのです、すなわち、あなた方が彼に背を向けることを止めるよう動かされない限り、また、あなた方がイエス・キリストご自身に寄せられない限り、何も役に立たないのです! 立ってそれを再び歌いなさい!だめなのです!
イエス様だけを、私は仰ぐ、
イエス様だけが、お救いになられる、
そうして、私の歌は他ならず、
イエス様! イエス様だけ!
着席してください。
II. 次に、イエス・キリストご自身が、聖書全体の中心的テーマです。
あなた方に、イエス・キリストご自身があなた方の思いの中心となるべきである、と私達が言うことは何も理由の無いことでしょうか? いいえ、理由の無いことではありません。 何故、イエス・キリストは聖書全体、すなわち創世記から始まりヨハネの黙示録に至るまで、その中心的テーマなのでしょうか、考えてみなさい! キリストが死から復活された後、彼はエマウスの方へ歩いていく二人の弟子に会いました。 彼が彼らに言ったことは、あなた方にも当てはまります、
“そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた”(ルカによる福音書第24章25-27節)。
モーセの記した五書から、残りの聖書全体を通して、キリストは彼らに“ご自身についてしるしてある事どもを”解きあかされました。 それ以上に明白にすることができますか? 聖書全体の中心的テーマは、イエス・キリストご自身なのです! イエス・キリストご自身が聖書の中心的テーマですので、あなた方がイエス・キリストご自身をあなた方の思いと人生の中心的テーマにすることは理由のある事ではないですか? 私はあなた方に言いましょう、今晩イエス・キリストご自身について深く考えて見なさい、と。 それを歌いなさい!
イエス様だけを、私は仰ぐ、
イエス様だけが、お救いになられる、
そうして、私の歌は他ならず、
イエス様! イエス様だけ!
III. 三番目に、イエス・キリストご自身は、福音の言の本質であり、中心的要素であり、そして精神です。
ここで再び、預言者イザヤは、イエス・キリストご自身を福音の言の精神として語っています、
“われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた”
(イザヤ書第53章6節)。
“主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた”。 身代わりとして贖われたキリストの死、汝の代わりに、汝に代わって神の怒りに苦悩し、その値を支払われた―それが福音の言の精神なのです! ゲッセマネの園の暗闇の中で、汝の罪を彼ご自身の身に受けられたのがイエス・キリストご自身なのです。 その園で、次の聖句を言われたのはイエス・キリストご自身なのです。
“「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである”
(マルコによる福音書第14章34節)。
そして、
“苦しみもだえて・・・そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた” (ルカによる福音書第22章44節)。
その方は、イエス・キリストご自身なのです。 ゲッセマネの園で捕らえられた方は、イエス・キリストご自身なのです。 サンへヘドリンの前に引き出され、顔を殴られ、嘲られ、恥さらしにされた方は、イエス・キリストご自身なのです。 彼らは、イエス・キリストご自身の顔に、つばを吐いたのです! 彼らは、イエス・キリストご自身のひげを掴み引き抜きました。 総督ピラトの前に引き出され、ローマの兵卒に背を鞭で打たれ、茨の冠をかぶせられ、ご自身の額から、打撲のために見分けがつかなくなった顔にかけて御血が滴り落ちた方は、イエス・キリストご自身なのです。
“多くの人が彼に驚いたように―彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである―”
(イザヤ書第52章14節)。
“その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ”
(イザヤ書第53章5節)。
ピラトの法廷から、刑執行のために十字架を引きずりながら引き出されたのは、イエス・キリストご自身なのです。 十字架の上に釘付けにされた方は、イエス・キリストご自身でした。 釘付けにされた手と足からくる痛みだけでなく、神が“われわれすべての者の不義を、彼の上におかれた”(イザヤ書第53章6節)その非常な痛みを経験された方は、イエス・キリストご自身なのです。 イエス・キリストご自身、“十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた”(ペテロの第一の手紙第2章24節)のです。 ワット博士は歌の中でこう語っています、
十字架にかかりし
主イエスを仰げば
たからも ほまれも
あくたとかわらず
(“When I Survey the Wondrous Cross” by Isaac Watts, D.D., 1674-1748).
コーラスの部分を歌いなさい!
イエス様だけを、私は仰ぐ、
イエス様だけが、お救いになられる、
そうして、私の歌は他ならず、
イエス様! イエス様だけ!
着席してください。
IV. 最後に、イエス・キリストご自身は、永遠の喜びの唯一の源です。
彼らは、イエスの死体を十字架課から下ろし、それを封をされた墓に納めました。 しかし三日目に、彼は身体的に死からよみがえりました! そうして、彼は弟子達に現れ、“「安かれ」と言われた”(ヨハネによる福音書第20章19節)。
“そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ”(ヨハネによる福音書第20章20節)。
“弟子たちは主を見て喜んだ”(ヨハネによる福音書第20章20節)。 イエス・キリストご自身が、“弟子たちは主を見て”というように、彼らに喜びを与えられました。 あなた方は、イエス・キリストご自身を知るまでは、決して奥行き深い平安と主の喜びを知ることはないでしょう!
あぁ、今夜私はあなた方に言いましょう―私は、自分がイエス・キリストご自身を信じたときのその瞬間を覚えています! 何という神聖な経験でしょうか! 私の魂は、遥か高いところの神の右座にいられるイエスを仰ぎ見ました! 私は彼のもとへ急いで駆け寄りました! あるいは、彼が私に駆け寄ってきたような感じです。 私は彼の尊い御血でもって罪から清められました! 私は、生きる神の御子によって生かされたのでス! コーラスの部分を歌いなさい!
イエス様だけを、私は仰ぐ、
イエス様だけが、お救いになられる、
そうして、私の歌は他ならず、
イエス様! イエス様だけ!
着席してください。
あぁ、罪人達よ、他の日を待ってはいけません! 他の時間を待ってはいけません! 他の瞬間を待ってはいけません! イエス・キリストご自身に来なさい! あなた方の証から彼を取り除いてはいけません。 スポルジョンが言ったように“キリストご自身を福音から切り離す、哀れな傾向が人にはある”ようなことをしてはいけません。 だめです! だめです! 今イエス・キリストご自身に来なさい。 私が歌う歌詞を注意深く聴きなさい。
ほふられたまいし
かみのこひつじよ
みこえにしたがい
われゆくただちに!
(“Just As I Am” by Charlotte Elliott, 1789-1871).
これらの言葉を、穏やかに歌いなさい。
ほふられたまいし
かみのこひつじよ
みこえにしたがい
われゆくただちに!
今夜、イエス・キリストご自身に来ますか? 彼はあなた方の罪をゆるされるでしょう。 彼はあなた方に神との平安と永遠の命を与えてくださるでしょう。 イエス・キリストご自身に来ますか? あなた方がそうされることを祈ります。 イエスの御名において、アーメン!
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読: イザヤ書第53章3-6節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Jesus, Only Jesus” (by Dr. John R. Rice, 1895-1980)/
“Jesus Only, Let Me See” (by Dr. Oswald J. Smith, 1889-1986).
要 綱 イエス・キリストご自身 R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 “キリスト・イエスご自身” I. 最初に、イエス・キリストご自身は、侮られて人に捨てられます。 II. 次に、イエス・キリストご自身が、聖書全体の中心的テーマです。 III. 三番目に、イエス・キリストご自身は、福音の言の本質であり、 IV. 最後に、イエス・キリストご自身は、永遠の喜びの唯一の源です |