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今、復活のとき! R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 RESURRECTION NOW! ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて “しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである”(エペソ人への手紙第2章4-6節)。 |
キリストの奇跡は霊的真実を描写する為に成されました。 キリストには、霊的に盲目な心を開く事が可能である事を示す為に、盲人の目を開かれました。 キリストは霊的に汚染された魂を癒す事が可能である事を示す為に、らい病人を癒されました。 そしてキリストは三回ほど、死人の身体を生き返らされました。 マルコによる福音書第5章は、キリストがヤイロの娘を死から生き返らされた事を私達に告げています。 ルカによる福音書第7章は、キリストがナインのあるやもめの息子を死から生き返らされた事を告げています。 ヨハネによる福音書第11章では、キリストがラザロを死から生き返らせられた事が告げられています。 私達がこれらのよみがえりから学ぶ教えは、イエスが、“自分の罪過と罪とによって死んでいた”(エペソ人への手紙第2章1節)者達を生き返らせる事が可能であると言う事です。 今晩のこの集会には、多くのヤイロの娘達、多くのやもめの息子達、多くの生き返ったラザロのような人達がいます、なぜなら私達の多くは罪過と罪とによって死んでいたからです。 しかし、キリストの御力によって、私達は霊的な死からよみがえらされ、新しい命に生きているのです! 私達が体験したよみがえりは“再生”と呼ばれます。 死から生き返らされた事を意味する表現、もしくは新生としても知られています。 シェッド博士(Dr. W. G. T. Shedd)は、聖書はしばしば、“再生を意味するよみがえり”・・・“霊的なよみがえりとして表される再生”と用いている事を指摘しています(W. G. T. Shedd, Ph.D., Dogmatic Theology, P and R Publishing, 2003 edition, pp. 864, 865)。 身体的なよみがえりと霊的なよみがえりの関連は、エペソ人への手紙第2章で明白にされています。
“しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである”(エペソ人への手紙2章6節)。
これらの聖句から私達は、新生について三つの大いなる真実、すなわち、よみがえられたキリストの御力による再生について三つの真実を学びます。
I. 最初に、わたしたちは死んでいた。
聖書によると、全ての人々は霊的に死んでいます。 ある人達は、私達は罪によって傷ついている、と言っています。 しかし、彼らは私達がそれによって死んでいるとは信じていません。 しかし神の御言は確かに明白です。 聖書は、私達は傷ついただけではなく、私達は“罪過と罪とによって死んでいた”(エペソ人への手紙第2章1節)と語っています。 にもかかわらず、それらの人達は、人間には多くの美徳があり、人間の生まれ持った状態は、罪によって死んではいないと教えています。 フィニー(C. G. Finney)はこのように、誤った見解を述べています。
なぜ罪は人間にとって非常に天性的なものであろうか。彼らの天性自体が邪悪だからではない・・・。この教えは・・・神にとって大いに不名誉な事であり、神と人間の知性にとって嫌悪なる事である。そして全ての説教壇と全ての教義から、そしてこの世から取り除かれるべきである。それは異教徒的な考え方の遺物であり、アウグスティヌスによってキリスト教の教義に挿入されたものである(C. G. Finney, Finney’s Systematic Theology, Bethany House Publishers, 1994 edition, pp. 268, 263)。
罪によって死んでいる人間に関する教義は、ほとんどの今日の説教壇から取り除かれています。 その結末はどうでしょうか? 今日私達が目にする、道徳的そして霊的な無秩序、それが結果として生じたのです!
罪によって死んでいる人間に関する教義は、アウグスティヌスによって創られたのでしょうか? そうではありません! 望みの無い、そして助ける事の出来ない罪なる人については、聖書を通して書かれています。 ノアの時代には、
“主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた”(創世記第6章5節)。
ヨブ記にこう書かれています、
“だれが汚れたもののうちから清いものを/出すことができようか、ひとりもない”(ヨブ記第14章4節)。
“人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。女から生れた者は、どうして正しくありえよう”(ヨブ記第15章14節)。
詩篇の著者はこのように言っています、
“見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました”(詩篇第51篇5節)。
“悪しき者は胎を出た時から、そむき去り、生れ出た時から、あやまちを犯し、偽りを語る”(詩篇第58篇3節)。
ソロモン王は、
“人の心は悪に満ち”(伝道の書第9章3節)。
と言いました。 預言者エレミヤは、
“心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか”(エレミヤ書第17章9節)。
と述べています。そして、使徒パウロは、
“かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い・・・ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった”(エペソ人への手紙第2章1, 3節)。と言っています。 再びコロサイ人への手紙で、使徒パウロは、
“あなたがたは、先には罪の中にあり、・・・死んでいた者であるが”
(コロサイ人への手紙第2章13節)。
と書いています。
フィニーは、罪によって死んでいた人に関しての教義を、アウグスティヌスに帰する事によって非難しました。 しかし、私が先に示したように、この教義は聖書の端から端に渡って教えられています。 実際、フィニーの見解は、異端者ペラギウス(西暦354-400年)の教えから来ています。 彼の異端的な原罪を否定した見解は何百年も教え続けられています。 フィニーが教えた事は、明白にペラギウスの教えなのです! 私達は、聖書で明白に教えられている教義に執着することにしましょう! 再生されていない状態にいる人は、罪によって死んでいます! 人は病を持っているのではありません。 人は神に関する事柄に対して死んでいるのです!
“さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって”(エペソ人への手紙第2章1節)。
“ 罪過によって死んでいたわたしたち”
(エペソ人への手紙第2章5節)。
これ以上に明白にされる事があるでしょうか? ありません!
“罪過によって死んでいた”、この聖句は人の生まれつきの状態を真に描写したものではありませんか? 偉大なスポルジョンは、このように述べています、
死体を観察せよ:あなた方は、それを打つことが出来る、それを傷つける事が出来る、しかしそれが泣き叫ぶ事は無いであろう;あなた方はその上に重荷を積む事が出来るが、それがくたびれる事は無い;それが暗闇に閉じ込められても、それはうっとうしさを感じない。したがって、回心していない人は、罪の重荷に苦しむが、それによってあきる事は無い;彼は神の処罰による獄に閉じ込められるが、彼らは自由を切望しない、彼は神ののろいの下にいる・・・しかし、そののろいは彼を動揺させない、なぜなら彼は死んでいるからである・・・なんとも! あなた方が生きているならば、あなた方は、後に来る神の怒りから救われるまで、じっとしていないであろう。 人は霊的な事柄に関して無意識の状態にある、そしてそれらによって動揺されない、なぜなら、霊的に彼は死んでいるからである(C. H. Spurgeon, “Resurrection With Christ,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, volume 14, pp. 207, 208)。
あなた方が教会に来て説教を聞く事は可能です、しかし何の影響もあなた方に下さないでしょう、なぜならあなた方は“罪によって死んでいる”からです。 あなた方は、キリストの苦しみ、キリストが打たれ、十字架につけられたことを聴く事が出来ても、何の心に残るような関心を示しません―なぜなら、あなた方は“罪によって死んでいる”からです。 あなた方は、キリストが死からよみがえられ、“数々の確かな証拠によって”(使徒行伝第1章3節)弟子達に現れられた事を聞く事が出来ても、キリストの復活による御力と威厳によって心を動かされないでしょう―なぜなら、あなた方は“罪によって死んでいる”からです。 あなた方の罪を清める事の出来るキリストの御血について聞いても、あなた方は罪の清めの必要性を感じません―なぜなら、あなた方は“罪によって死んでいる”からです。 あなた方は、周りの人の熱烈なる祈りを聞いても、あなた方自身は彼らのように祈る事が出来ません―なぜなら、あなた方は“罪によって死んでいる”からです。 あなた方は、立派な黒い聖書を買って読んだとしても、聖書の御言に何の命も見出せず、それらはあなた方にとってただの言葉にしか過ぎないのです―なぜなら、あなた方は“罪によって死んでいるから”です。 他の人達は自分達の信仰に喜びを感じています。 しかし、あなたは何の喜びも感じません。―なぜなら、あなた方は“罪によって死んでいる”からです。 周りの人達はキリストを知っており、キリストを知る事を大いに喜んでいます。 しかし、あなた方はキリストを知りません。 また、あなた方は疑い、そして恐れで満ちています―なぜなら、あなた方は“罪によって死んでいるから”です。 周りの人があなた方にキリストを来る事を勧めています。 しかし、あなた方は “どのように?”、“どのようにキリストに来る事が出来ますか?”と何度も繰り返して口にするだけです。 答えは留まらず、あなた方はそれを理解する事が出来ません―なぜなら、あなた方は“罪によって死んでいる”からです。
もしあなた方が、学ぶ事によって自分を救おうとするならば、それは常に同じことの繰り返しになるばかりです。 あなた方は決して救いを“学ぶ”事は出来ません! 50年間の聖書研究を通しても、あなた方は決して救いの方法を学ぶ事は出来ないでしょう―なぜなら、あなた方は“罪によって死んでいる”からです。 そして更に学び、そして疑問を持つ事で、あなた方の状態は悪化し、以前多少なり示した興味が無くなってしまうまで、希望も無いまま、教会に留まるのです―なぜなら、あなた方は“罪によって死んでいる”からです―“常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない”(テモテへの第二の手紙 第3章7節)。 そして最終的に、あなた方は自分達の罪によって死に、苦しみの中に神の存在から永遠に投げ出され、絶望の状態で火炎の中に、そして希望も無く、永遠なる“まっくらなやみ”(ユダの手紙第13節)の中で自分を見出すでしょう―なぜなら、あなた方は“罪によって死んでいる”からです。
しかし、私達の今晩のテキストは、かすかな希望を与えています。 その希望は、キリストにおける神の哀れみと恵みによるものです。 それは私自身の体験でした。 そして、私はそれがあなた方の体験となる事を祈っています。 救われている私達は、よみがえられたキリストによって、自分達は生かされたと言える事を、主イエス・キリストに感謝します!
II. 次に、わたしたちは生かされる。
起立して第4節と5節を読み上げて下さい。
“しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―”(エペソ人への手紙2章4-5節)。
着席して下さい。
罪人なる方、聞いてください! “しかるに・・・神は”という使徒パウロの喜ばしい言葉に耳を傾けてください。 それらの言葉に希望を見出せます! “しかるに・・・神は”。 あなた方は罪によって死んでいます。 “しかるに・・・神は!” これらの御言ゆえに、神に感謝します! あなた方がこれらの御言に耳を傾けるならば、喜び飛び跳ねなさい! “しかるに・・・神は”。 私達はそれらの御言を何度も何度も、過去のキリスト教の信仰の中で適用する事が出来ました。 希望を無くした時、何度も繰り返し、神はとりなして下さいました。 そして、エペソ人への手紙第2章4節の言葉“しかるに・・・神は”を唱える事が出来ました。
この世全てが罪によって堕落し、神は“わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう”(創世記第6章7節)と言われました。 “しかし、ノアは主の前に恵みを得た”(創世記第6章8節)。 “しかるに・・・神は”、ノアと彼の家族を大洪水からとりなし、救ってくださいました。 イスラエルの人々は、エジプトのパロによる奴隷の下で悲しみ嘆きました。 しかし神はモーセに、“それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう”(出エジプト記第6章6-7節)と言われました。 “しかるに・・・神は”。 士師記の時代に、イスラエルの人々は“ミデアンびとのために非常に衰え”(士師記第6章6節)ました。 しかし神は、“ミデアンびとの目を避けるために”ギデオンが麦を打っていた時に来られました(士師記第6章11節)。 “主は(ギデオンに)言われた、「しかし、わたしがあなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう」”(士師記第6章16節)。 そしてギデオンは、“「立てよ、主はミデアンの軍勢をあなたがたの手にわたされる」”と叫びました(士師記第7章15節)。 “しかるに・・・神は”。 イエスは捕われ、打たれ、十字架につけられ、死んで閉ざされた墓に置かれました。 しかし神は、イエスを死からよみがえらされました、“しかし神はイエスを三日目によみがえらせ”(使徒行伝第10章40節)。 “しかるに・・・神は”。 祭司長や彼の僕達は、使徒達を捕らえ福音を宣べ伝える事を止めさせる為に、“公共の留置場”に入れました(使徒行伝第5章 18節)。 “ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」”(使徒行伝第5章19、20節)。 “しかるに・・・神は”、獄の戸を開き、彼らの説教を祝福されました。
何度も、何度も、聖書を通して、私達には神の哀れみの例が示されています。
“しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―”(エペソ人への手紙第2章4-5節)。
ノアの時代に、そしてギデオンの時代に、そして使徒パウロの時代に、そしてキリストが復活された時に、神が哀れんで下さったように、神は、あなた方をも哀れむ事が可能であると思いませんか?
“しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―”(エペソ人への手紙第2章4-5節)。
私達の中にいる“生かされた”人達を見なさい。 キリストにおける神の恵みによって、死から救われ、生かされている人達を見なさい! 私達の教会の執事の方達、教会の指導者の方達をじっくり見なさい。 彼ら全ては、かつて“罪過によって死んで”いました。 しかし今、じっくり見なさい。 彼らは、“キリストと共に生かし”、キリストによって生かされ、神の御恵みによって救われたのです! 誰が、彼らは、“キリストと共に生かされて”いないと言えるでしょうか? 誰が、彼らは、“キリストと共に”死からよみがえった事を疑えますか? スポルジョンはこのように言っています、
哀れなマルタは、キリストが兄弟のラザロを死からよみがえらされたことに非常に驚いたが、それ以上に彼がこのように言ったとき驚いた、“また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」”(ヨハネによる福音書第11章26節)。これは我々が信じることの一つである。 すなわち、我々が霊的な命を受けたとき、それはキリストの命との合体で、その結果として、決して死ぬことはない(Spurgeon, ibid., p. 214)。
そうです! “決して死ぬことはない!”のです。 フィニーの新生についての誤った言及を拒否します。 フィニーは言いました、“彼らは明白に、彼らの救いは、彼らの高潔さの忍耐の如何により、彼らが失われないよう恐れを抱き・・・と教えられた”(Charles G. Finney, Finney’s Systematic Theology, Bethany House Publishers, 1994 reprint of 1878 edition, p. 546)。 そうです、フィニーは救われた人は、救いを失うこともあると言ったのです! 事実、フィニーは、クリスチャンは天国から落ちることもあり、人が死んだ後、その救いは失われることもある、と言いました! これは、フィニーの神学書からの引用です、“天国の聖者は、自然の可能性として、信仰を捨て、失われることもある”(C. G. Finney, ibid., p. 508)。 そうです、フィニーは、クリスチャンは天国から落ち失われることがある、と言っているのです!です。.
これはペラギウスの異端的な教えです。 私達はそれを拒否します! “回心した”人は、“回心していなかった”昔の状態に戻ることはないのです。 “再生された”人は、“再生されていなかった”昔の状態には戻らないのです!
“罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―”(エペソ人への手紙第2章5節)。
スポルジョンは言いました、“一度神聖な命を受けた者は、それを決して失うことはない。 神は、心の思いでもって我々を死なせない・・・我々を死のままに放っておかない・・・。 神は、明日亡ぼすために今日救われることはしない・・・神に栄光を、そしてキリストに於ける信仰で生きるあなたは、永遠の中に、喜び、生き、そして神を賛美する!”(Spurgeon, ibid., p. 215)。 しかし、もう一つの点があります。 わたしたちは死んでいた。 わたしたちは生かされる。 そして、
III. 最後に、わたしたちはよみがえる。
起立して第5節と6節を読み上げて下さい。
“罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである”(エペソ人への手紙2章5-6節)。
着席して下さい。
人々は私に、“どのように自分はキリストに来るのか?”と質問してきます。 彼らにとっては、謎なのです。 なぜなら、彼らは、キリストがいるところは第三の天(コリント人への第二の手紙第12章2節)であることを知っているからです。 彼らはキリストはあそこ、すなわち、大気上に、この銀河の星々の向こう側、彼が“天国”と呼んだところにいる事を知っています。 彼らは、キリストは神の右座にいることを聖書で読みました。 彼らは質問します、“自分はどのようにしてそこへいけるのか?” “別の世界である、はるか彼方にいるキリストのところへどのように自分は行けるのか?”
そうですね、もちろん答えは明白です。 あなた方は、自分ではそこへは行けません! しかし、“決断主義”は多くの人達は盲目にしてきました。 彼らは、自分の努力でキリストに来ることができると考えています! そのために、彼らはヨハネの福音書第6章44節でいつもつまずくのです。
“わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう”
(ヨハネによる福音書第6章44節)。
彼らにとって、昇天のときに空中でキリストと会うために神が引き上げることを信じることに対して、何ら問題はありません(テサロニケ人への第一の手紙第4章16-17節とコリント人への第一の手紙第15章51-53節を参照)。 そうではあっても、それが救いの問題にくると非常な問題となるのです! しかし、その両方は、ヨハネによる福音書第6章44節に書いてあります、
“わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう”
(ヨハネによる福音書第6章44節)。
空中でキリストと会うためにクリスチャンを引き上げるであろう同じ万能の神は、神の右座にいますキリストへ今あなたを引き上げるなければならないのです! 罪びとをキリストに導くのは、罪びとその人ではなく、神なのです。 “わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない” それは昇天のようなものです―あなたがキリストに来るとき! それは今だけに起こるのです。 そうして、そのすばらしい瞬間に、エペソ人への手紙第2章6節が起こるのです! それを見てみなさい! 起立してそれを声を上げて読みなさい!
“キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである”(エペソ人への手紙第2章6節)。
着席してください。
その聖句についてヘンドリックセン博士(Dr. Hendriksen)は言いました、“我々自身は生かされ、よみがえらされ、そして天上に置かれる”(William Hendriksen, Ph.D., New Testament Commentary, Baker Book House, 1981 reprint, p. 118; note on Ephesians 2:6)。 『 The Reformation Study Bible 』は、このように述べています、
・・・我々を生かし、よみがえらせ、置かれる。キリストの人生において、これらは歴史的な出来事であった。 死からの彼のよみがえりはと神の右座での即位。しかし、パウロはそれらを信じるもの達に応用した。 パウロはキリストと彼に来る者たちとの合体を教えた・・・それゆえ、救い主のことは、また救いに起こるのである(The Reformation Study Bible, Ligonier Ministries, 2005, p. 1706; note on Ephesians 2:5, 6)。
キリストに来ることは、神の恵みと御力によってのみ可能で、私達が回心するとき私達の魂はキリストに引き上げられるのです!
そうして、もしあなたがまだ失われているのであれば、あなたは何をしなければならないのでしょうか? イエスはこう言われました、“狭い戸口からはいるように努めなさい”(ルカによる福音書第13章24節)。 この説教を何度も読み直しなさい。 “狭い戸口からはいるように努めなさい”。 “門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう”(ルカによる福音書第11章9節)。 そのギリシャ語の意味は、“たたき続けろ、たたき続けろ”です。神があなたの罪深い失われた状態にあなたを目覚めさせるよう、神に祈りなさい。 あなたは生き、キリストに導かれるように神に祈りなさい。 地獄の恐ろしさ、そしてキリストのいない永遠さを考えてみなさい。 “狭い戸口からはいるように努めなさい”、そして神がキリスト共にあなたをおらせ・・・“キリスト・イエスに於ける天上”にあなたを引き上げられるように。 その喜ばしい瞬間がすぐにあなたにきますように! あなたが、すぐに生かされ、“キリスト・イエスに於ける天上”にあなたを引き上げられますように。 罪に死んでいたあなたが、今復活を経験されますように! キリストに於ける神の御力でもって、あなたが新生されますように! アーメン。
“しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである”(エペソ人への手紙第2章4-6節)。
(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読:エペソ人への手紙第2章1-7節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Come, Ye Sinners” (by Joseph Hart, 1712-1768;
to the tune of “Yes, I Know” by Anna W. Waterman, 1920).
要 綱 今、復活のとき! R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 “しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである”(エペソ人への手紙第2章4-6節)。 (エペソ人への手紙第2章1節) I. 最初に、わたしたちは死んでいた。 II. 次に、わたしたちは生かされる。 III. 最後に、わたしたちはよみがえる。 |