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旧約聖書で示される キリストの復活

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

THE RESURRECTION OF CHRIST
IN THE OLD TESTAMENT

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2010年5月2日、主の日の朝の説教

“こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。”(ルカによる福音書第24章27節)

二人の弟子達がエマオの村に向かって歩いていました。 それは、イエスが死からよみがえられた日曜日の午後の事でした。 彼らが歩いていると、イエスは彼らに近寄られ、一緒に行かれました。 最初は、彼らはイエスであると気がつきませんでした。 イエスは彼らに、何を話しているのか、また、なぜ彼らはそんなに悲しそうなのかと尋ねられました。 彼らは、キリストがイスラエルを救われると思っていたが、十字架に付けられ、そして死なれた事を話しました。 また彼らは、ある女性達がその日の早朝キリストの墓に行った事を話しました。 その女性達は彼らに、キリストはよみがえられたと言いました。 それらの二人の弟子達は、彼らが話している方が復活されたキリストであることに未だ気付いていませんでした。 イエスは彼らの不信に対してこのように叱られました。

“そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた”(ルカによる福音書第24章25-27節)。

それでも彼らが食事をするために立ち止まるまでは、よみがえられたキリストと話をしていた事に彼らは気付きませんでした。 そうして、イエスは、

“・・・、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった”
       (ルカによる福音書第24章30-31節)。

デハーン博士(Dr. M. R. DeHaan)は亡くなったその日に、彼の有名なラジオ・バイブル・クラスに用いられるこれらの言葉を録音しました。 これらの言葉は、デハーン博士の最後のラジオでの説教でした。 

      イエスがパンを取りさいて、彼らに渡されるうちに、彼らはイエスご自身であることの記し、彼の御手の傷に気がついた。イエスがパンを彼らに渡しておられる時に、彼らはイエスの手に注視した。彼の手の傷はイエスである事の証明であった(M. R. DeHaan, M.D., Portraits of Christ in Genesis, Zondervan Publishing House, 1966 edition, p. 55)。

私はそのことを他のどこにも読んだ事はありませんが、それはそこで起こった事の道理にかなった説明であるように思われます。 しかしデハーン博士が正しかったとしても、 “彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった”(ルカによる福音書第24章31節)とあるように、そこには神の御業がありました。 “心の目”(エペソ人への手紙第1章18節)を明らかにされるには、神の御力を要します。

この話は、私達にどのようにこれらの人達がイエスを知るようになったかを示しています。 そして、それは全てのクリスチャンがどのようにキリストを知るようになるかをも描写しています。 最初にイエスは、聖書から彼らに説教されました(ルカによる福音書第24章27節)。 次に、“彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった”(ルカによる福音書第24章31節)。 しかし、彼らの目が開かれる前に、イエスはこのように彼らに言われました。

“・・・「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた”
       (ルカによる福音書第24章 25-27節)。

イエスはモーセによって書かれた言葉から始め、旧約聖書を通し、“聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを”(ルカによる福音書第24章27節)説き明かされました。 イエスはモーセによって書かれた創世記から始められたに違いありません、なぜなら、彼がモーセから始めて、聖書全体にわたり、“ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた”(ルカによる福音書第24章27節)と書かれているからです。 ですから私達は旧約聖書を通して、キリストがご自身の受難、そして特に彼の復活について彼らに教えられたに違いない幾つかの事を以下に挙げます。

I. 最初に、キリストの復活は彼の創造の働きを暗示した。

“はじめに神は天と地とを創造された”
      (創世記第1章1節)。

創世記のまず初めの言葉で、私達は、天と地の創造者としてのキリストを理解する事が出来ます。 新約聖書はこのように告げています、 

“初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった”(ヨハネによる福音書第1章1-3節)。

偉大な創造者、神の言はイエス・キリストでした。 このことは明白に、ヨハネによる福音書第1章14節で示されています。

“そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた” (ヨハネによる福音書第1章14節)。

キリストによる創造は、キリストの死からの復活へと密接につながっています。 コロサイ人への手紙第1章16-18節には、

万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている”(コロサイ人への手紙 第1章16-18節)。

“いっさいのもの”を創造する力を持つ方は、“死人の中から最初に生れたかた”(コロサイ人への手紙第1章18節)でもあります。 宇宙を創造するのに要した彼の力は、死からよみがえる彼の力を強く暗示しています。 疑いも無くイエスは、彼がエマオヘ向かう道で彼らに話されたこの聖句を告げられたでしょう。

“こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた”
       (ルカによる福音書第24章27節)。

II. 二番目に、キリストの復活はアダムに描かれている。

教会が彼のあばら骨で造られた時、 最後のアダムであられるキリストは、墓に葬られました。 これは、エバがアダムのあばら骨から造られたという事によって描かれています。

“そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた”
       (創世記第2章21-22節)。

これはキリストと教会を描いています。

“わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている”(エペソ人への手紙第5章30-31節)。

アダムは眠りました。 神は彼のあばら骨でエバを造られました。 スコーフィールド注解は、“エバはキリストの花嫁としての教会の典型である”(創世記第2章23節の解説)。 キリストは三日間葬られました。 デハーン博士は、“わき腹は開かれ、清めの水と、彼の義とされる血が流れ出た。 エバ同様、教会は新たな創造物であった”(DeHaan, 同著, p. 33)。 そしてまた、アダムはエバが彼のあばら骨で造られた後、目が覚めました。 それは死からよみがえった、最後のアダムであるキリストを描いています。 

“この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです”(エペソ人への手紙第5章32節:新共同訳)。

III. 三番目に、原福音(protevangelium:旧約聖書で説明される福音)におけるキリストの復活。

創世記第3章15節は、原福音(protevangelium)、すなわち最初に言及された福音であるということを疑う人はいません。 それはサタンに向けて書かれています。

“わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」”(創世記第3章15節)。

女の“すえ”とはキリストを指しています、なぜなら、“すえ”という言葉は旧約聖書の他のどこにおいても、女を意味していないからです。 女の“すえ”とはキリストを指しています。

“それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる”(イザヤ書第7章14節)。

“わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」”(創世記第3章15節)。

ですから、キリストのかかとを砕く事は、致命的ではないけれども、サタンのかしらを砕く事は致命的なのです。 デハーン博士は、“救い主のかかとは、彼の最初の出現で砕かれたけれども、サタンのかしらは、キリストの再臨で砕かれるであろう” (DeHaan, 同著, p. 64)と書いています。福音の最初の陳述のここで、死からのキリストの復活が描かれています。 

“こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた”
       (ルカによる福音書第24章27節)。

IV. 四番目に、キリストの復活は、アブラハムがイサクに害を与えないことに描写されている。

神は、アブラハムに彼の息子イサクをモリア山で燔祭として捧げるよう告げられました。 しかし彼らがその燔祭の場所に行った時、

“この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた”
       (早世き第22章13節)。

新約聖書は、死から救われたイサクは復活を描いていると告げています。

“この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである”
       (ヘブル人への手紙第11章18-19節)。

確かに、イエスは、エマオヘ向かっている彼らに語られた時、ご自身の死からの復活でこの譬えを挙げられたでしょう。

“こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた”
       (ルカによる福音書第24章27節)。

V. 五番目に、キリストの復活はヨセフの生涯に描き出されている。

ヨセフの兄弟達は彼をねたみました。 彼らはヨセフを穴に落としました。 そして彼らはその穴から彼を引き上げ、エジプトに奴隷として売りとばしました。エジプトで、神はヨセフを偉大な重要人物へと昇進させました。 長年の後、彼の兄弟達が飢えていた時、彼らはヨセフのもとにやって来ました。 ヨセフは彼らを養い彼らの命を救いました。 そこでヨセフは彼の兄弟達にこの言いました、

“神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。・・・”(創世記第45章7-8節)。

“あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました”(創世記第50章20節)。

デハーン博士の“The Perfect Antitype(完全なる非典型)”の章で、彼は、“ヨセフの話は、疑いなく、旧約聖書の中で見いだされるキリストの昇進の最も明白な典型である”(DeHaan, p. 178)。 ヨセフは彼の兄弟達の命を救う為にエジプトで高位に昇進しました。 そのようにイエスはこの世に命を与える為に死からよみがえられました!

ここまで、私達はモーセによって書かれた創世記の文書でイエスの復活の典型とその描写を見てきました。 この他にも、キリストの復活を預言的に示す多くの典型を挙げる事が出来ます。 ライス博士は、“旧約聖書には、並みの読者がおそらく気付いていない、後のキリストの復活の多くの暗示が記されている”(John R. Rice, D.D., The Resurrection of Jesus Christ, Sword of the Lord Publishers, 1953, p. 16)と書いています。 この説教で私は、墓から身体ごとよみがえられたイエスの預言的描写、これらの典型のうちのもう一つだけを挙げる事が出来ます。 その預言的な描写は旧約聖書のヨナ書に記されています。 

VI. 六番目に、キリストの復活はヨナによって描写されている。 

ヨナは神による使命から逃ていました。 しかし三日目に、神は魚にお命じになり、“魚はヨナを陸に吐き出した”(ヨナ書第2章10節)。 私はこの事についてマックギー博士が言った事に完全に同意します。

・・・魚の腹は彼の墓であった、墓は死人の場所である。生きた人を墓に置く事はしない。ヨナは大魚の中で死ぬ事、神が彼の祈りを聞き入られ、死からよみがえる事を知った(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1982, volume III, p. 749; note on Jonah 2:2)。

デハーン博士もマックギー博士と同じ事を言いました。 そしてヘンリー・モリス博士もそうでした。 そして私も彼らと正に同じ事を信じます。 ヨナは大魚の中で死にましたが、神は死から彼をよみがえらせたのです。 ヨナ書は、ヨナが大魚の腹の中に、“三日三夜”(ヨナ書第1章17節)いたと告げています。 

主イエス・キリストはこの事を、ヨナに起こった実際の事として話されました。 そしてキリストは、ヨナに起こったことを二回違った場所で話されました(マタイによる福音書第12章39-40節とマタイによる福音書第16章24節)。 私は、それら二つのうち最初のを話しましょう。

“すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう”
       (マタイによる福音書第12章39-40節)。

今朝私が取り上げている唯一の要点は、新約聖書におけるキリストの死からの復活を預言的に描写した、大魚からの三日三晩の後のヨナの死からのよみがえりです。 確かにそれはエマオヘの途中でそれらの弟子達にイエスが告げられた事のひとつです!

“こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事ども を、説きあかされた”
       (ルカによる福音書第24章27節)。

では次に、これから私達はこれらの典型と描写から、詩篇におけるイエスの復活について、明白に語られている言葉を見ることにします。 旧約聖書の詩篇第16篇8-10節を開けてください。

VII. 七番目に、詩篇第16篇で描かれたキリストの復活。

では、起立をして詩篇第16篇8-20節を声を出して読んでください。

“わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである”(詩篇第16篇8-20節)。

座ってください。 第10節の“陰府”とは、このテキストでは“墓”を意味します。 神が、“わたし”―すなわち、メサイア・イエスを墓に捨ておかれなかったのは明白で、神は、イエスの身体を“見させ”られなかったのです。 これらの言葉は、聖書の中で明瞭明白です。 五旬節の日に、使徒ペテロは、今あなた方が読んだように、彼らに説教をしました。 ペテロは言いました、

“ダビデはイエスについてこう言っている、『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。あなたは、いのちの道をわたしに示し、み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう』” (使徒行伝第2章25-28節)。

それから、その使徒は言いました、

“キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである”(使徒行伝第2章31節)。

ライス博士は、“我々は、旧約聖書の中で、父なる神は彼を黄泉に捨て置かれず、彼の肉体が朽ち果てることもなく、墓からよみがえられることを知り、彼の肉体は望みに生きる、というキリストご自身の喜びの気持ちを予告する。 イエスの肉体は決して朽ちず、塵にかえることはない。 イエスの肉体は、死からよみがえり、栄光のうちに天上へと引き上げられ、同じ救い主として、同じ復活された身体でもって、今我々を天国で待っていられる”(Rice, 同著, p. 15)と言いました。 アァメン! 詩篇の第110篇1節を開いてください。

VIII. 最後に、詩篇第110篇で予言されたキリストの復活。

起立をして、その節を声を出して読みなさい。

“主は我が主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と” (詩篇第110篇1節).

着席してください。

ヘンリー・モーリス博士は、“詩篇の第110篇1節は、新約聖書の中で四回(ヘブル人への手紙第1章13節)、(マルコによる福音書第12章36節)、(ルカによる福音書第20章42節)、(使徒行伝第2章34節)引用されている”(Henry M. Morris, Ph.D., The Defender’s Study Bible, World Publishers, 1995, p. 655; note on Psalm 110:1)と言いました。 詩篇第110篇1節は、新約聖書の中で、より多く触れられています。 使徒ペテロは、五旬節の日の彼の偉大な説教の中で詩篇第110篇1節を引用しました。

“ダビデが天に上ったのではない。 彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」”(使徒行伝第2章34-36節)。

キリストは死からよみがえりました。 彼は今、天国の神の右座に座しています!

旧約聖書の中で、キリストの復活を預言する箇所はまだ多くあります。 今朝私は、その内いくつかを話すことができただけです。 最初の復活祭の日曜日に、エマオに行く途中、キリストがそれらを弟子達に話したことは疑いの余地はありません。

“そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた”(ルカによる福音書第24章25-27節)。

あなた方が、“心のにぶいため、預言者たちが説いた(イエス・キリストの死からの復活について)すべての事を信じられない”人達にならないよう、私達はどのように祈ればよいのでしょうか! キリストは、身体ごと死からよみがえられただけではありません。 彼は天国へ戻られました、そして、あなた方は神の御力によって、天国へと引き寄せられることができるのです。 そうして、“キリスト・イエスにあって・・・共に天上で座につかせて”(エペソ人への手紙第2章6節)下さるのです。 私は今晩、“Resurrection Now!『復活は今!』” (May 2, 2010, 6:00 PM) と題した説教をします。 あなた方がキリストに引き寄せられることを祈ります。 あなた方が彼の尊い御血でもってあなた方の罪から清められますように。 あなた方が生まれかわりますように。 あなた方は、イエスに来て、いつ何時でも、永久に救われますように! イエスに来なさい、罪と永遠の命を受けなさい! イエスは言われました、

“父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない
       (ヨハネによる福音書第6章37節)。

あなた方がイエスに来るように。 あなた方が彼に来るとき、彼はあなた方を決して拒みはしないでしょう!

(説教終了)
ハイマーズ博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: ルカによる福音書第24章13-27節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Christ Arose” (by Robert Lowry, 1826-1899).

要 綱

旧約聖書で示される キリストの復活

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。”(ルカによる福音書第24章27節)

(ルカによる福音書第24章25-27、30-31節;
エペソ人への手紙第1章18節)

I.   最初に、キリストの復活は彼の創造の働きを暗示した。
創世記第1章1節; ヨハネによる福音書第1章1-3, 14節;
コロサイ人への手紙第1章16-18節。

II.  次に、キリストの復活はアダムに描かれている。
創世記第2章21-22節; エペソ人への手紙第5章30節。

III. 三番目に、原福音(protevangelium:旧約聖書で説明される福音)
におけるキリストの復活。創世記第3章15節;
イザヤ書第7章14節。

IV. 四番目に、キリストの復活は、アブラハムがイサクに害を与えな
いことに描写されている。創世記第22章13節;
へブル人への手紙第11章18-19節。

V.  五番目に、キリストの復活はヨセフの生涯に描き出されている。
創世記第45章7-8節;創世記第50章20節。

VI. 六番目に、キリストの復活はヨナによって描写されている。
ヨナ書第2章10節;第1章17節;
マタイによる福音書第12章39-40節。

VII. 七番目に、詩篇第16篇で描かれたキリストの復活。
詩篇第16篇8-10節;使徒行伝第2章25-28, 31節。

VIII. 最後に、詩篇第110篇で予言されたキリストの復活。
詩篇第110篇1節;使徒行伝第2章34-36節;
ヨハネによる福音書第6章37節。