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過ぎ越しの血 R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 THE BLOOD OF THE PASSOVER ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて “わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう” |
へブル人達がエジプトでの奴隷の身から立ち去り、約束の地へ向かう前の晩に、神は各々の家族に傷の無い小羊を取ってほふるように彼らに告げられました。 そうして、神は次のように語られました、
“その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない”(出エジプト記第12章7節)。
“その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう”
(出エジプト記第12章12-13節)。
今日に至るまで、四月の上旬にユダヤ人達は、ペサ(Pesach)と呼ばれる過ぎ越しの大いなる祭りをもって、その晩の出来事を思い起こします。“過ぎ越し”という言葉は、今晩の私達のテキストから来ています。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう”(出エジプト記第12章13節)。
それは、全ての真のクリスチャンの心に非常に意義のある、何ともすばらしいテキストではないでしょうか!
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう”
(出エジプト記第12章13節)。
今晩、その聖句について考えて見ましょう。 そのメッセージを私達の心と思いに奥深く潜めましょう。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう”
(出エジプト記第12章13節)。
今日、私達にとってそれはどうのような意味を表しているでしょうか?
I. 最初に、その血は、キリストの御血のタイプ(型)であった。
ウェブスターズ辞典(Webster’s Dictionary)には、タイプ(型)とは“後に生じる別の、特に他の事を表示または象徴する事柄もしくは出来事”と書かれています。 もしイエス・キリストの御血の明白なタイプ(型)もしくは象徴があったとしたら、正にこれがそうです。 旧約聖書を通して、後のキリストの御血について前もって表示された多様な事柄と象徴の全てを考えると、この聖句以上に明白なものはありません、
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう”
(出エジプト記第12章13節)。
イエスが過ぎ越しの祭りの間に死なれたのは、偶然の出来事ではありません。 イエスが十字架につけられる、その前の午後に、弟子達はイエスに尋ねました、
“「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」”(マタイによる福音書第26章17-18節)。
弟子達はイエスが彼らに告げられた事を行いました。 彼らは、その家に行き、過ぎ越しの祭りの食事の用意をしました。 そして夜になると、キリストは十二の弟子達と共に過ぎ越しの食事の席に着かれました。
“一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である”
(マタイによる福音書第26章26-28節)。
よって、主の晩餐に於いて、イエスはパンと杯でもって出エジプト記に記されているそのタイプ(型)の成就した事の意味を教えられました。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう”
(出エジプト記第12章13節)。
明白に思え自明に思える事が、今日しばしば知られていない事に注目して下さい。 パンと杯は二つの異なる物である事に注意を払ってください! ジョン・マッカーサー(John MacArthur)が間違えて教えているように、キリストの御血と死は同じ事を意味してはいません。 マッカーサー博士は、その血は“キリストの死”を表す“換喩”であると繰り返し教えています。 それは、キリストの御血はキリストの死を表す単なる別の用語であるという事です。 彼は、“血は死の代用語として用いられている”(The MacArthur Study Bible, note on Hebrews 9:14)と言っています。 それは危険な教えであり、もし人々がそれを信じるならば、彼ら自身の罪は清められていないかもしれません。 御血は罪を清める為の物です。 キリストの死を信じながらも、キリストの御血を拒否している人は、つまずき、そして罪から清められてはいないでしょう。
キリストの死は彼の御血と同様ではありません。 ですから、主の晩餐には、二つの要素があるのです。 パンはイエスの十字架につけられた御体を思い起こさせます。 杯はキリストの御血を思い起こさせます。 ジョン・ギル博士(Dr. John Gill)は、“二つの異なった物として、パンとワイン”について述べています(John Gill, D.D., A Body of Divinity, The Baptist Standard Bearer, n.d., volume 2, p. 919)。
異なった二つの物は、同じ事ではありません。 パンは私達の罪を償う為の、十字架での砕かれたイエスの御体を描写しています。 杯は、全ての罪から私達を清めるイエスの御血を表しているのです。 主の晩餐に於いて、杯とパンは、別々に取られます。 それらは救いに関して二つの特徴を表しているのです。
“「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である”
(マタイによる福音書第26章27-28節)。
使徒ヨハネは、次のように、この意味を非常に明白にしています。
“御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである”(ヨハネの第一の手紙 第1章7節)。
それはアンチタイプ(対型)です。 それは、タイプ(型)の成就、象徴の真意です。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう”
(出エジプト記第12章13節)。
それは、これらの事について語っています、
“新しい契約の仲保者イエス、ならびに・・・そそがれた血である”
(ヘブル人への手紙第12章24節)。
“・・・わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ”(コリント人への第一の手紙第5章7節)。
出エジプト記第12章での小羊の血は、完全なるキリストのタイプ(型)です。
“その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊”(ヨハネによる福音書第1章29節)。
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう”
(出エジプト記第12章13節)。
エジプトでヘブル人達が彼らの家の入り口のかもいに塗った血は、次の聖句を描いています、
“・・・御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである”(ヨハネの第一の手紙第1章7節)。
罪びとのかしらを、イエスは救われる;
約束された全ての事を、彼は成される;
罪のために開けられた泉で、清められよ。
そして、わたしはあなたがたの所を過ぎ越すであろう。
わたしはその血を見て、わたしはその血を見て、
わたしはその血を見て、
あなたがたの所を過ぎ越すであろう、過ぎ越すであろう。
(“When I See the Blood” by John Foote, 1892).
II. 次に、その血が塗られなければならなかった。
スコーフィールド・スタディ・バイブルは、出エジプト記第12章11節について、“その血を・・・塗らなければならない(出エジプト記第12章7節)。 これは、信仰による個人的な用とすることに答えている・・・” スコーフィールド・スタディ・バイブルのこの解説は正解です。 へブル人達が彼らの家の入り口のかもいに血を塗らなければならなかったように、あなた方も罪から清められる為に、キリストの血が無ければなりません。 もしあなた方がキリストの血をもたなければ、神はあなた方を過ぎ越さないでしょう。 エジプト人に起こったように、神の裁き、神の罪に対する激怒はあなた方に降りかかるでしょう!
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう”
(出エジプト記第12章13節)。
しかし、もし神が血を見られないならば、神はあなた方を過ぎ越さないでしょう!
“モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう”(ヘブル人への手紙 第10章 28-29節)。
キリストの血で罪を清められていない人は、神のとてつもない裁きの下に陥るでしょう。
“生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである”
(ヘブル人への手紙第10章31節)。
ですから、あなた方への質問は、あなた方にはキリストの血が流されていますか? 神は、こう語られています、
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう”
(出エジプト記第12章13節)。
あなた方には、キリストの血が流されていますか? スコーフィールドの“その血を・・・塗らなければならない(出エジプト記第12章7節)”の注解を思い出して下さい。 普遍主義は、全ての人は救われると言っています。 しかし聖書は、このように言っているのです、
“御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」”(ヨハネによる福音書第3章36節)。
あなた方の罪は、あなた方が神の御子を信じる瞬間に、イエスの御血によって清められます。 清教徒であり賛美歌の著者ジョセフ・ハート(Joseph Hart)は、私達の過ぎ越しであるキリストの血まみれの汗をこのように表 しています、
汗と血にまみれたイエスの御体、
地に流された御血は、紫色に溢れる;
尊い、ほとばしり出た豊富な御血は、
ひとの罪を洗い清めるために流れる。
(“The High Priest” by Joseph Hart, 1712-1768).
我が罰ゆえに、汝にお会いすべくひざまずく;
絶えられない重荷!
罪びとのための汝の御血を頂くために、
神への、我が嘆き、あえぎ!
(“The Wish” by Joseph Hart, 1712-1768).
彼ご自身の御血でまみれた布を纏ったイエスは、ゲッセマネの園で私達の前に立たれます。 兵卒達はまだ彼を捕まえていません。 また、彼らはイエスをまだ十字架にもつけていません。 イエスの皮膚の毛穴からほとばしるその御血はどこから流れるのでしょうか? その御血はあなた方の罪の圧力のゆえに流れ出るのです、そしてそれは、あなた方の罪に対する神の怒りの重さゆえに、イエスを地面に押し倒すのです。 少し後に、兵卒達は現れ、御血でまみれたイエスをその園から引きずり出します。 彼らはイエスの顔を殴りつけ、ひげを力いっぱい引っ張ります。 彼らは、イエスの着ているものを剥ぎ取り、彼の背がズタズタに傷つくまで傷つけます。 彼らは茨の冠をイエスの頭に押し付け、イエスの手と足を十字架に釘つけるのです。 イエスは言いようの無い苦しみと痛み、そして御血の中に吊るされます。 そして、エジプトの暗闇から、神は叫びます、
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう”
(出エジプト記第12章13節)。
あなたは、信仰でもってイエスの十字架の下に来て立ちますか? あなたは、今晩、血にまみれた救い主に来ますか? あなたは、屠られた小羊の血によって、あなたの罪のすべての害から清められませんか?
“・・・ほふられた小羊の・・・世の初めから・・・”
(ヨハネの黙示録第13章8節)。
起立してソング・シートの賛美歌五番を歌いましょう。
我ら、イエスの御血を多く語れども、
ほんのわずかしか知らん!
彼の受難はそんなにも激しいため、
御使い達さえ、完全なる理解はなし。
苦しまれる神の御子を見よ、
あえぎ、うめき、そして血の汗!
計り知れない神聖なる愛の深さ!
イエスよ、汝の愛の偉大さ!
(“Thine Unknown Sufferings” by Joseph Hart, 1712-1768,
to the tune of “‘Tis Midnight, and on Olive’s Brow”
by William B. Tappan, 1774-1849).
つみのけがれを あらいきよむるは
イエスキリストの ちしおのほかなし
イエスのちしお ほむべきかな-
われをあらい ゆきのごとくせり
(“罪のけがれを/Nothing But the Blood of Jesus”
by Robert Lowry, 1826-1899) 。
神がこの福音の説教に恵みを与えてくださるように。 そして、それによってあなたが生きている救い主イエスに来て、彼の御血でもって、あなたがあなたのすべての罪から洗い清められ、いつの時においても、そして永久に救われますように! イエスは、あなたの罪の償いのために十字架で亡くなりました。 彼は、あなたの全ての罪からあなたを清めるために、御自身の御血を注がれました。 彼に来て救われなさい! 彼の御血があなたの罪を清められますように! 彼によって、神の怒りからあなたが救われますように!
“わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう”
(出エジプト記第12章13節)。
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読: 出エジプト記第12章21-28節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“When I See the Blood” (by John Foote, 1892).
要 綱 過ぎ越しの血 R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 “わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう” (出エジプト記第12章7節) I. 最初に、その血は、キリストの御血のタイプ(型)であった。 II. そして、その血は塗られなければならなかった。 |