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キリストが癒された最後の人、マルコス R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 MALCHUS – THE LAST MAN CHRIST HEALED ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて “シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕に切りかかり、その右の耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった”(ヨハネによる福音書第18章10節)。 |
過越しの祭りの食事を御自分の弟子達とされた後、イエスはゲツセマネの園の暗闇に彼らを引き連れて行かれました。 イエスはほとんどの弟子達を園のはずれに残し、ペテロ、ヤコブそしてヨハネをより園の奥の方まで連れて行かれました。 イエスは彼らをそこに残し、御自分お一人で少し先まで行かれ、神が、“われわれすべての者の不義を、彼の上に”(イザヤ書第53章6節)置かれ始めた際に、“ますます切に祈られた。 そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた”(ルカによる福音書第22章44節)。
何分か後に、イエスが弟子達に話をされていた時、ユダは“一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人たちの送った下役どもを”引き連れ、“たいまつやあかりや武器を持って”(ヨハネによる福音書第18章3節)そこにやって来ました。 イエスが彼らに、誰を探しているのかと尋ねられると、彼らは、“「ナザレのイエスを」と答えた”(ヨハネによる福音書第18章5節)。 イエス御自身が、“わたしが、それである”と答えられました。 イエスがお答えになるとすぐに、“彼らはうしろに引きさがって地に倒れた”(ヨハネによる福音書第18章6節)。 そこで乱闘が始まり、そして、
“シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕に切りかかり、その右の耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった”(ヨハネによる福音書第18章10節)。
イエスはペテロをお叱りになり、彼に剣をさやに納めるように言われました。
そこで、ペテロが耳を切り落とした、マルコスという人の名前が私達に知らされました。 この出来事は、聖霊が四人の福音書の著者達に記録するよう導くほど大切な事であると考えられました(マタイによる福音書第26章51節、マルコによる福音書第14章47節、ルカによる福音書第22章50節、ヨハネによる福音書第18章10節)。 四人の著者は共に、マルコスは祭司長の僕であったと伝えています。 しかしヨハネだけが、彼の名前がマルコスであったと伝えており、ヨハネのみが彼の耳を切り落とした弟子、ペテロの名前を上げています。 現代の多くの解説者達は、マタイ、マルコそしてルカがぺテロの名を挙げていない理由は、その当時、もしぺテロの名前が挙げられたならば、彼の身元が彼を危険にさらしたかもしれないであろうと判断しています。 しかし、ペテロはすでに危険にさらされていました、ですから私はそれが理由であったとは思いません! その疑問に対する応答は、私達には知らされておらず、また単に聖霊がペテロの名前、そしてマルコスの名前を挙げる事を最後の福音書の著者、ヨハネに示したと言う事が一番無難であるように、私には思えます。 そして、ルカだけが、イエスが切り落とされたマルコスの耳を癒されたと伝えています。
“そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった”
(ルカによる福音書第22章50-51節)。
マルコスが“祭司長の僕”(ルカによる福音書第22章50節)であったということ自体が、イエスを捕らえる為に、祭司長の個人的な代理として、ユダのすぐ後ろに立って兵卒達の先頭にいたと言う理由を明白にしています。 これは、他の弟子達の先頭にいたペテロが、なぜマルコスを切りつけたのかを明白にしています。 そうして、イエスは“その僕の耳に手を触れて、おいやしになった”(ルカによる福音書第22章51節)のです。 レンスキ博士は、このように解説しています、
これは、イエスが最後に成された、注目すべき奇跡である・・・その耳は切り落とされ、一片の皮膚によってつながっており、イエスが触られただけでそれは完全に元の状態に戻ったように[思われる](R. C. H. Lenski, D.D., The Interpretation of St. Luke’s Gospel, Augsburg Publishing House, 1961 reprint, p. 1082; note on Luke 22:51)。
“すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」”
(ヨハネによる福音書第18章 11節)。
“父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」”(ヨハネによる福音書第18章11節)。 マックギー博士は、“それは十字架で私達の為に負われた裁きの杯である。・・・救い主が、不本意ながら[十字架に行かれた]と思ってはならない。 へブル人への手紙第12章2節には、‘自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである’と書かれている”(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1983, volume IV, p. 485; note on John 18:11)。
この方は、神なる人、イエスであられた事を決して忘れてはなりません。 イエスが“わたしが、それである”と答えられた時に、イエスの御力の下で兵卒達は倒れました。 イエスの御力によって、イエスは御自分の敵であるマルコスの切り落とされた耳をお癒しになりました。 この方は、ペテロに剣をさやに納めなさいと言われ、また次のように語られた神なる人、イエスなのです。
“それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか”
(マタイによる福音書第26章53節)。
イエスは何千もの天の使い達を呼び、御自分を十字架から救う事もお出来になりました、しかしイエスは、私達の罪の償いの為に、自ら進んで十字架に行かれました。
彼らは、イエスが祈られていた園で、彼の両手を縛り上げた、
彼らは、恥辱の中、彼を連れて行った。
彼らは、穢れの無く罪の無い救い主につばを吐きかけた、
彼らは叫んだ、“彼を十字架にかけよ、彼が非難されるべきだ。”
彼は、世を裁き御自身を自由の身にされるために、
数千の天の御使いを、呼ぶことができたであろう。
彼は、数千の天の御使いを、呼ぶことができたであろう。
しかし、彼は一人であなたと私のために死なれた。
(“Ten Thousand Angels” by Ray Overholt, 1959).
イエスは、“ほふり場にひかれて行く小羊のように”(イザヤ書第53章7節)、私達の罪を償う為に、そして神の裁きから私達を救う為に、自ら進んで行かれました。
しかし、私達の今晩の説教は、祭司長の僕であり、ペテロの剣によって耳を切り落とされた人、イエスが十字架につけられる前に最後に癒された人、マルコスと言う人について集点を置きます。 彼は重要な人でしょうか? いいえ、彼はキリスト教においては、重要な人物ではありません。 しかし彼は四つの福音書によって記されており、ヨハネの福音書によって名指しされています。 そして彼はヨハネによる福音書で“大祭司の僕のひとりで、ペテロに耳を切りおとされた人”(ヨハネによる福音書第18章26節)と、二回記されています。
彼について、四つの福音書は五回挙げています。 聖書で彼について知らされているのはそれだけです。 ペテロが彼の耳を切り落とした事、そしてイエスが彼を癒された事だけで、彼についてそれ以外の記された言葉まったくありません! 更に、古くから言い伝えられている話の何においても、彼についてはまったく記されていません。 私は古くから言い伝えられている話にはそれほど価値を認めていません。 しかし、もし彼が後にクリスチャンになっていたとしたら、少なくとも一度はその事について歴史に残され伝承されているでしょう。 少なくとも一人の教父もしくはヒエロニムス、あるいは誰か他の者が彼について少なくとも何なりかは記したでしょう。 しかし、聖書で記されていること以外には彼について何も記されていません。 彼は、イエスが十字架につけられる以前に癒された最後の人です、にもかかわらず、彼についてはそれ以上一言も記されていません! それは私達にどういう事を語りかけているのでしょうか? その理由は明らかであると私は思います。 彼は回心しなかったのです。 彼はクリスチャンにならなかったのです。 私はそれは明白なる結論であると思います。
ではなぜ、彼の癒しが聖書で記されているのでしょうか? 私は、聖書の全てのへブライ語とギリシャ語は、霊感でもって与えられ、理由(わけ)があって記されていると私は信じます。 使徒のパウロは言いました、
“聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である”
(テモテへの第二の手紙第3章16節)。
テモテへの第二の手紙第3章16節が真実である事を信じるならば、マルコスの癒しから何らかの“有益である”ことを私達は学ぶ事が出来るでしょうか? レンスキ博士は、“[マルコスについての]この奇跡はどのような印象を残したであろうか? 私達は何も聞いていない”(同著、1083ページ、ルカによる福音書第22章51節に関しての解説)。 私はそれが、その回答であると確信します。 これがマルコスの癒しから私達が学ぶ教訓ですーすなわち、イエスは人の生涯に何の霊的な影響を及ぼすことなく、その人に奇跡を行う事がお出来になる。 人は身体における奇跡を体験する事は出来ても、不信、回心せず、決して救われない状態に留まる。 マルコスの癒しから私達が学んだ事は、そういう事ではないでしょうか? もしそのような事が、私達がここから学んだ事ではないならば、この奇跡を神なる御霊が聖書に記されたそれ以外の理由を私は考慮する事が出来ません。 あなたが救われること無く、神にはあなたの生涯で奇跡を行われることが可能なのです。 癒しや奇跡が非常に重要であると考慮されている今日において、それは私達が学ぶ重要な教訓なのです。
一つの話をしてこの説教を終る事にしましょう。 それはまったく実際にあった話であり、私はこの話を潤色する事無く話します。 私は、それらが起こったありのままの事実そのものをあなた方に話すだけです。
ある真夜中に私は電話を受け取りました。 私が幼少の時知っていた人が死にかけているというのです。 医者が、彼には一時間ほどしか余命が残されていないと言った事を、私は聞かされました。 彼らは私に彼が癒されるように祈る事を嘆願して来ました。 その日は大降りの雨で、彼は遠くの病院へ入院していましたので、私はケイガン先生に私と一緒に行ってくれるように頼みました。 私達は、どうにか病院へたどり着きました。 彼の家族の方達が、医者は彼をあきらめており、いつ死んでも不思議では無いであろうと私達に言いました。 ケイガン先生と私だけでその病室へ入って行きました。 私は手を彼に当て、神が彼を癒してくださるように祈りました。 そして私達はそこを去り、帰途に着きました。 私は完全に彼がその夜に死ぬとばかり思っていました。 翌日私は、彼がその晩、生き延びた事を聞いて驚きました。 更に、私は何日か後に、彼が病院を退院し家に戻された事を聞いて非常に驚きました! 彼の家族達は、それは奇跡であったと言いました。 彼の医師もそれが奇跡であったと言いました。 彼自身もそれは奇跡であったと言いました。 私自身、それが奇跡であった事を信じました。
さて、彼が死にかけた理由は、アルコール中毒が原因でした。 彼の肝臓は機能を無くしたのです。 しかし、どういう訳か、神は彼を癒されました。 ですので、数週間後に彼はまたお酒を飲み始めたことを知った時、私は非常に驚きました!
案の定、数ヵ月後に、私はもう一度真夜中に電話で起こされました。 彼の家族は、彼はまた死にかかっていると言いました。 このときは、医者は彼に直る見込みはないと告知しました。 しかし、彼らは私に見舞いに来るよう懇願しました。 再び、ケイガン先生と私は、長い道のりを経て病院に戻って行きました。 私達が彼の病室に入ったとき、彼はほとんど話せませんでした。 しかし、彼は私に、もし神が彼をもう一度癒すならば、彼は私達の教会に来て、“救われる”と呟きました。 私は再び自分の手を彼の上に置き、彼がいやされることを祈りました。 再び、奇跡が起こりました! 彼の医者達は、驚き呆れ返りました! 彼はその後すぐに病院を退院しました。 数週間ほどは、彼は半分自分の約束を守りました。 ある日曜日の朝、彼は私達の教会の扉から入ってきて、彼の妻と一緒に私が説教をしているまん前の最前列に座りました。 しかし、説教の間、彼は決して一度も私の方へ注意を払いませんでした。 彼は目の前の床を凝視していただけでした。 その説教を終えるにあたって、私は、救いについて話をしたい人達は手を上げるよう、招待しました。 この男性は、手を挙げませんでした。 説教が終わった後、私は彼と個人的に話をし、キリストに来るように懇願しました。 彼は私に言いました、“自分はそれについては、もう少し考えたい”と。
長い話を手短に言えば、彼はすぐさまお酒に戻ったのです。 数ヶ月後に、彼はそれで亡くなりました。 彼の家族から、彼の葬式をしてくれるよう私は頼まれ、私はそうしました。 しかし、私には彼らに慰めの言葉一つもかけられませんでした。 私ができたことは、簡単に福音の説教をし祝祷を捧げたことだけでした。 私は生きている限り、彼を思い出すでしょう。 彼は私の幼少のころからの友人でした。 彼は二度奇跡でもって癒されました。 しかし、彼は決して悔い改めませんでした、そして、決して回心しなかったのです。 彼は終わりまでキリストを拒否したのです。
要点は何でしょうか? そうですね、この説教が言わんとしている点は、大変に単純です―あなたは奇跡を受けても救われないということです。 あなたの祈りは通じてもあなたは救われないということです。 あなたは神の恵みを受けてもあなたは決して回心しないということです。 それが、聖書の中のマルコスの場合です、そして、それが、お酒をあまりにも愛しイエスに来なかった、哀れな失われた私の友人の場合なのです。 マルコスが、彼を癒された救い主に寄り頼まさせなかった、彼が非常に愛したものは何だったのでしょうか? 私達には分かりません。 聖書はそれについて何も語っていません。 しかし、私達にはこのことは確かです。 すなわち、マルコスには、人生において何か失うことのできなかったものがあったのです。 そのために、彼は自分の魂を失ったのです! イエスはこう言われました、
“たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか”(マタイによる福音書第16章26節)。
あなたを、あなたの罪を購うために十字架で亡くなられたイエスに来させないものは何ですか? 彼は、あなたを全ての不義から清めるために、ご自身の御血を流されました。 彼はあなたに命を与えるために死からよみがえりました。 これらの偉大なる永遠の恩恵を受けるにあたり、あなたをイエスに来させないものは何ですか? あなたが自分の罪から背を向き、直接彼に来る事を願っています。 なぜならイエスはこのように言われたからです、
“わたしに来る者を決して拒みはしない”
(ヨハネによる福音書第6章37節)。
全ての奇跡の中で最も大いなる奇跡は、あなたの魂の救いです。 神があなたをイエスに引き寄せ、そしてあなたがイエスに寄り頼む時、全ての奇跡の中で最も大いなる奇跡が、あなたの魂の中で起こるでしょう! あなたはイエスの慈悲と恩寵でもって生まれ変わるでしょう!
星座を天に張るには奇跡を要した、
世界を空間に据え置くには奇跡を要した。
しかし、彼が私の魂を救われ、私を清め、そして完全にされたとき、
愛と恵みの奇跡による!
(“It Took a Miracle” by John W. Peterson, 1921-2006).
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読:ルカによる福音書第22章39-51節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“It Took a Miracle” (by John W. Peterson, 1921-2006).