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苦しめ、悲しめ、泣け R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 BE AFFLICTED, MOURN, AND WEEP ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて “苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ”(ヤコブの手紙第4章9節)。 |
ジョセフ・アレイン(Joseph Alleine)の書物『A Sure Guide to Heaven』の裏表紙に、イアン・ムレイ(Iain H. Murray)はこのように書いています、
20世紀の西洋諸国の精神的歴史が描かれるならば、それは霊的に怠惰で眠りこけている時代とみなされるであろう。永遠なる真実は漠然と定義され、日常の生活から遠ざけられているように思われ、世への服従が宗教上の事柄に関して軽視また軽率なる様態と化した(Joseph Alleine, A Sure Guide to Heaven, The Banner of Truth Trust, 2007 reprint, back jacket)。
アレインのこの本の本来の題名は、『An Alarm to the Unconverted(不信者への警告)』です。 イアン・ムレイは、その本は、“多くの人々を、命、そして死についての不安へと警告し、そして自覚させるのに用いられた”(同著)と述べました。
ジョセフ・アレインのそのような説教は、今日の私達の説教壇では稀にしか聞かれません。 ですから、これが、“20世紀の西洋諸国の精神的歴史が描かれるならば、それは霊的に怠惰で眠りこけている時代とみなされるであろう”といった事の理由なのです。 もし不信者が、その説教によって“警告”されなければ、彼らは回心しないでしょう!
私は、今日の多くの説教者達には、このテキストについて説教するような勇気があるとは、思いません。
“苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ”(ヤコブの手紙第4章9節)。
しかし、スポルジョンはこの聖句に関して次のように述べました、
‘ただ信じれば、あなた方は救われる’と言うような近頃非常に頻繁になってきた説教が、それを聴く人達によって、時たま完全に誤解されているという事の恐れを私が表現する時、私は理由なしに疑っているのではない。若者達が軽率に・・・そして、邪悪な生き方を続けながらも、なお彼らがイエス・キリストを信じていると主張することがある。あなた方が彼らを多少なり吟味するならば、キリストにおける彼らの信仰は、キリストが彼らを救われたと彼らが信じている事とあなた方は見出すであろう、けれども彼らの性格を知っている回りの人達は、彼らがまったく救われていない事を明白に知るであろう、では、彼らの信仰は偽りの確信であろうか?自分が救われているかのように振る舞った、正にその罪の中に自分が生きているがために、自分が救われていないと言う確証を自分の目前に知るならば、私の信仰は、自分が救われている事を信じるようには悟らせない。我々は、信仰と賜物なる救いによる義についての教義に一瞬の疑いは無いにしても、我々は“新しく生れなければならない”という、その相等しい真実を更にもっと宣べ伝えなければならない。我々は、ある伝道者達によって背後に置かれた“悔い改めよ”という神の言葉を前方に持ち出さなければならない。悔い改める事は、信仰と等しく救いに主要な事である・・・。涙なくしての信仰は、神の御国を見る事は無いであろう。罪に対する神聖なる嫌悪感は、常に、罪を負われた方への純真な信仰を[伴わせる](C.H. Spurgeon, “The Reason Why Many Cannot Find Peace,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1992 reprint, volume XXIV, p. 213)。
“苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ”(ヤコブの手紙第4章9節)。
私達の今朝のテキストの応用として、三つの事柄を考えてみましょう。
I. 最初に、これが、“律法”であるという事への異議。
私のまったく最初の説教は、ヤコブの手紙からの聖句でした。 多分私はそれを詳しく説明しなかったことでしょうが、その当時私自身も回心していませんでした。 根本的な主題は、当時の若者達がその聖句を聞く必要がある事であったと思います。 彼らは“救われている”と主張しましたが、何年か後になって彼らの信仰告白は、当時の私自身のものと等しく、無意味なものである事が証明されました。 私のその説教を訂正した男性自身も罪の中に生きており、私が向かって説教した人達同様、彼も間違いも無く地獄に向かっていました! その教会に欠けていた事は、昔ながらの神の律法を宣べ伝える事でした!
私達が、律法を守る事によって救われるのではない事は真実です。 しかし、それを聞く事無しに私達が救われる事は、まず不可能でしょう! 律法を説教する事に反対する人達は、それ無しには永続する救いが生じない、という事を見出すでしょう。 今日の私達の教会は“聖書研究”で満ちています。 しかし、キリスト教の摂理における“レオデキアの時代”に私達が生きている、という事に誰が同意しないでしょうか? スコーフィールド・スタディ・バイブル(The Scofield Study Bible)は、“レオデキアへのメッセージ。 背教の最後の段階”(note #7, p. 1334)と表示しています。 バーノン’マックギー博士はこのように言っています、
これが今日の教会の状態であり、残念ながら、それは根本主義、保守的な教会と称する非常に多くの教会の状態である・・・まったく驚くべき、そして恐るべき事は、[キリスト]が、“あなたを口から吐き出そう”と言われたことである(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1983, volume V, p. 922)。
そして、教会での“レオデキア人のような”生気の無い状態の理由は、神の律法が宣べ伝えられていないからです! そうであるので、人々はこのように考えるのです、
“あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない”(ヨハネの黙示録第3章17節)。
彼らが、自分達はみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていないのはどうしてでしょうか? その答えは簡単で巣。 なぜなら、彼らに向かって説教されたのを彼らは聞いた事が無いからです! 彼らは律法のとどろきをまったく聞いたことが無いのです、ですから彼らは真に回心していないのです!
“苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ”(ヤコブの手紙第4章9節)。
II. 次に、律法の必要性。
過去125年の間、説教者達は正道からそれていきました。 スポルジョンは1878年に、“ただ信じれば、あなた方は救われるであろう”というような説教によって多くの人達は混乱された(同著)と言って、すでにそのことに気ずいていました。 スポルジョンもグレッシェム・メイチェン博士(Dr. J. Gresham Machen)も、心に福音が根付く前に、あなた方の心は律法によって突っ込まれなければならない事を理解していました。 律法による働きに関してのメイチェン博士の本のある章は読む価値があります。 その章で彼は、“キリスト教は・・・心が砕けることから始まる、それは罪の意識する事によって始まる”(J. Gresham Machen, Ph.D., Christianity and Liberalism, Eerdmans, 1990 reprint of the 1923 edition, p. 65)。 罪人を、涙と悔い改めの境遇にまでもたらすのは、神の律法です。 使徒パウロは、このように言いました、
“このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである”
(ガラテヤ人への手紙 第3章24節)。
ルターは次のような適切な言葉を挙げています、
常に子供を懲らしめ、打ち、そして何も教えないような人とはいったいどのような養育係であろうか? にもかかわらず、学校が正に牢獄、地獄の様であった過去には、そのような養育掛がいた、そしてそれらの養育掛は、冷酷な暴君、そして正に殺戮者達の様であった。子供達は常に殴られ、彼らは学んだ、彼らが学んだとき、苦痛、そして苦悩を受けた。 律法はそのような養育掛ではない・・・なぜならそれは常に痛めつけ、怖がらす事をせず、それを正し棒でもって、我々をキリストへと導くからである・・・その律法は、我々に働きを要求するような、他の律法でもって我々を導くような養育掛ではなく、我々を義とされる方、そして救い主であるキリストへと我々を導く、そしてキリストに抱く信仰によって我々は義と導かれる養育掛であろう(Martin Luther, Th.D., Commentary on Galatians, Kregel Publications, 1979 edition, p. 217)。
それにもかかわらず、ルターはヤコブへの手紙は彼が告げているような律法そのものである事を完全に理解していませんでした。
“このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである”
(ガラテヤ人への手紙 第3章24節)。
III. 最後に、律法は、人を謙遜させ、悲嘆させ、そして嘆き悲しませることに必要である。
使徒パウロはこのように言いました、“律法によっては、罪の自覚が生じるのみである”(ローマ人への手紙第3章20節)。 あなた方には、自分は朽ちた罪びとであると認識し、神の律法を破り、失われた状態の中で、罪びと以外の何物でもないことを感じる必要があります。 もし、“救いの計画”を学ぶことによって救われることが出来ると信じるのであれば、あなた方は決して真の回心を経験することはないでしょう―なぜなら、回心は学ぶことから起こらないからです! あなた方の頑固な思いを砕かなければなりません。
“なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである”
(ローマ人への手紙第8章7節)。
あなた方の思いは、神に対して非常に頑固一点張りです。 それは、あなた方が生まれた時の自然な状態なのです。 あなた方は、自分自身は律法破りの常習犯であるという事実に面等向かわなければなりません、そして、(神の与えられる回心なくしては)あなた方はただの律法破りにしか過ぎないことを認識しなければなりません! あなた方がそれにこころから同意するのであれば、清めと義のためにキリストに導かれるかもしれません。 あなた方が律法にこころを打ち砕かれるとき、あなた方は泣き叫ぶのです、
“わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか”
(ローマ人への手紙第7章24節)。
最近、私は一人の若い女性と話をする機会がありました。 その女性は、言うべき全ての正しいことばを学んでいました。 その女性は、彼女の代わりに、彼女の罪のために、十字架にはりつけにされたイエスの身代わりの犠牲を学んでいました。 しかし、私は彼女に、彼女は救われていないと言わなければなりませんでした! 私はあなた方に言いますが、彼女は今でさえもまだ回心していません、なぜなら、彼女の証には罪に対する感情がないからです。 彼女は、実の無い教義を学んだだけです。 彼女のことばには、罪に打ちひしがれた感情がないのです。 そのため、私は彼女にこう言わなければなりません、
“苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ”(ヤコブの手紙第4章9節)。
スポルジョンは言いました、
悲しいかな、“私は平安を見つけられない、私は救いを得ることが出来ない”という人達と私は会ったことを言わなければならない。私は、礼儀をもって話をしたが、外で彼らは互いに、娯楽で楽しんでいるかのように冗談笑いをしながら・・・彼らには何ら思いはなく、罪に対しての悲しみなく、神の御前での恥もない・・・失われている状態の危険さを笑うとは、私には、地獄という演技場でコメディーを演じているような、恐ろしく残酷な思いを抱かせる・・・あなたの罪がゆるされていないのにあなたが笑うことに、神が怒りを表さないであろうか? 真剣になりなさい、死について、そしてさばきについて思い始めなさい、そうでないと怒りはすぐにでもあなたを訪れるであろう・・・もしあなたが救われるのであれば、あなたの精神は荘厳に永遠の真実に思いいるであろう。命と死に対して真剣になりなさい。罪の思いが、あなたを謙遜させ、悲しませるように(C. H. Spurgeon, ibid., page 215)。
“苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ”(ヤコブの手紙第4章9節)。
また、スポルジョンはこう言いました、
イエス・キリストは、[健康な人の]病気を癒すために来たのではない。また、打ちひしがれていない人達を束ねるために、そして決して殺された人をよみがえらせるために死んだのではない。神があなた方の霊を砕かれるよう、そのことはあなた方の中に起こらなければならない・・・もしあなた方のこころが決して打ちひしがれたことが無いならば、彼はどのようにそれを束ねようか?もし傷ついていないのであれば、彼はそれを癒すことができようか?私が彼らに話しているこれらのことは、大事なことである・・・あなた方の中で欺かれことがないよう・・・。“神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください”(C. H. Spurgeon, ibid., p. 216)。
“苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ”(ヤコブの手紙第4章9節)。
イエスに来る正しい方法は、罪深い女性がイエスに来た方法です。 彼女は“泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り・・・”(ルカによる福音書第7章38節)ました。 そうして、イエスは言われました、“それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」”(ルカによる福音書第7章47節)。
“苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ”(ヤコブの手紙第4章9節)。
かみのめぐみの
こぼれもなきか
つみをかさねて
きたりしわれに
かみのめぐみの
われにありしか
あいにさからい
みこえしりぞけ
いくどもおちて
けがれしみなり
かみのめぐみの
われにありしか
(“Depth of Mercy” by Charles Wesley, 1707-1788).
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読: ヤコブの手紙第4章4-10節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Search Me, O God” (Psalm 139:23-24).
要 綱 苦しめ、悲しめ、泣け R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著 “苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ”(ヤコブの手紙第4章9節)。 I. 最初に、これが、“律法”であるという事への異議。 II. 次に、律法の必要性。ガラテヤ人への手紙第3章24節。 III. 最後に、律法は、人を謙遜させ、悲嘆させ、そして嘆き悲しませる |