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主題! 限り無い主題!

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

THE MAIN SUBJECT! THE INEXHAUSTIBLE SUBJECT!
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2010年2月7日、主の日の朝の説教

“なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである”(コリント人への第一の手紙第2章2節)。

私は非常に自由主義的な神学校を卒業しました。 それは、私には保守的な神学校に通う為の十分な学費が無かったからです。 私は、教授達がどのように教えても聖書に忠実であり、それから離れることの無いようにと決心し、私は出来る限りを尽くしました。 しかし、私を困惑させるような一人の自由主義派の著作者がそこの学校にいました。 カール・バース(Karl Barth)は、“新聞を片手に取り、片手に聖書を持って説教せよ”と教えました。 当時それは良い考えのように思えました。 彼の考え方は、説教を適切なものにさせるには、新聞の記事に関連させなければならない、というものでした。 しかし私は今、彼の正しくない助言を聞き入れた事を後悔しています。 そうして私は随分前にそのような事を止めました。 この説教で、なぜ私の考えを変えたかをお話しましょう。 

多くの保守的な説教者達が、ほぼ全てのニュースの記事を取り上げ、聖書の予言に関連させようとしているのを聞いて私は驚かされます。 彼らは無意識にも自由主義派の見解を取り入れているように私には思えます! 私が現在取り上げて説教する唯一の“ニュース”の記事は、五千百万人のアメリカの無力な子供達の虐殺を認める最高裁判所の罪悪的な判決の行事に関してのもので、毎年一月に一度ないし二度、妊娠中絶に反対し説教します。 しかし、この罪に対して説教する時でさえ、私は、アメリカは現在クリスチャンの国ではないということ、人間の完全なる邪悪を示し、罪の束縛からの救いにおける人への唯一の望みは、十字架につけられたイエス・キリストに見出されると言う事を知らせる為です! 

“新聞を片手に、そして聖書を片手に”説教する事を止めたひとつの理由は、新聞を読む人が少なくなったからです! 政治的なそして社会的な変遷は、彼らの日々の生活には稀にしか影響はありません。 今日の景気後退、不正な大統領、戦争、気象状態、そしてその他の“重大ニュースとして取り上げられる”出来事等は、後には忘れられるのです。 現在それらは重要な事のように思われますが、そのような事は、人間の記憶から消え去ってしまうでしょう。 誰がナポレオンの成した事を覚えているでしょうか? 誰がボーア戦争また第一次世界大戦で起こった事に関心を持っているでしょうか? しかし、今から一千年後の永遠なる魂の運命は、今朝の私達のテキストの主題にかかっているのです。 ですから、  

“わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである”(コリント人への第一の手紙第2章2節)。

使徒パウロがそれらの言葉を書き記し時、 残虐な悪党ネロがローマ帝国の主権の座にいたにもかかわらず、パウロは彼について明瞭でない概略のみを語り、彼の名前させも出さずに、彼はクリスチャン達に、“王たちと上に立っているすべての人々のために”(テモテへの第一の手紙第2章1節)祈るように述べました。 ですから、説教者は政治に関する主題はラジオやフォクス・ニュースに報道させておくべきであるように私には思えます。 私達は使徒パウロの模範に従うべきであり、人々が何処でも聴けない偉大な主題にとどまるべきであるように私には思えます。 ですから、私達は、“わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。” 三つの成句がこのテキストで挙げられています。

I. 最初に、“決心したからである”の語句。

“わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである”(コリント人への第一の手紙第2章2節)。

英語訳の“決心した”という言葉は、ギリシャ語で“krinō.(キリノ-)”です。 それは、“決心すること”(Strong)という意味です。 パウロは、彼の説教はキリスト中心となる事を決心したのです。 それは偶然的な事ではありませんでした。 それは彼が自ら決心した事であり、十字架につけられたキリストを彼の説教の中心となる主題とする決断なのです。 アルバート・バーンズ(Albert Barnes)次のように、明確に表しています、

      これは全ての福音説教者の決意であるべきである。これが彼の役目である。政治家となることではなく、人々の闘争そして論議などに携わること無く・・・感銘を与える哲学者もしくは形而上学者になることでも無く、十字架につけられたキリストを、彼の配慮とすべき最も重要な目的とすることである。そして、常にあらゆる所にキリストを知らせることである。彼は、キリストが十字架につけられたという謙虚な教えを何処ででも恥じるべきではない。世間の人達は、嘲笑するであろうが、哲学者達は軽蔑するであろうが、富んだ者、幸福な人はそれを嘲るであろうが、これは説教者にとって最も重要な目的となるべきであり、いつにおいても、どの社会においても、それを彼は恥じてはならない・・・神聖なる布教に関して、尊さ、奉仕、教義、人、そしてキリストによる贖いなどを伴った説教は、好結果を生むであろう!そのように、使徒達の時代もそのようであり、宗教改革の当時も同じであり、モラビア人達の宣教の時代もそうであり、全ての今までに起こったリバイバルでも同じであった。 キリスト中心なる説教には、哲学そして人の道理には無い力が潜む。キリストはこの世の救いの為の‘神の偉大な聖礼典’である、そして我々は犯罪に出くわし、この世の悲痛な苦悩を緩和する。それを乗り越えるために、そして慰安の芳香を他に注ぐために調和の中に、我々は十字架に負う(Albert Barnes, Notes on the New Testament, Baker Book House, 1983 reprint, note on I Corinthians 2:2).

パウロは時おり、予言について語りましたが、それは彼の中心となる主題ではありませんでした。 彼は時おり、結婚そして家庭についても話しましたが、それらも彼の中心となる主題ではありませんでした。 また、成功する方法や平安を得る方法といった、“現代”の人間中心の説教で常に評判になったような主題を話してはいなかった事は明白です。 マイケル・ホートン博士(Michael Horton)は、彼の著書、Christless Christianityの中で、福音主義派による説教を含めアメリカの多くの説教は、彼の言う“善悪に対する教訓的、治療法的理神論” が土台となっていると書いています。 彼は、善悪に対する教訓的、治療法的理神論に関して、“生活の中心なる目標は幸福になること、そして自己を満足させること”であると言っています(Michael Horton, Ph.D., Christless Christianity, Baker Books, 2008, p. 41)。 彼は、このような目標がアメリカの説教に現れ、“自己満足させる方法”“自己不振を乗り越える方法”、“満足し成果の出る生活を送る方法”、“お金に操られること無くお金を扱う方法”、“成功した家族生活の秘訣”等の主題で話すように牧師達を導いていると書いています(同著、p49)。 これらは、彼があるバプテスト教会の促進活動用のパンフレットから引用した実際の説教の主題です。 使徒達がこれらの主題に関してまったく宣べ伝えていない事は、奇妙に思われませんか? しかし、現代の福音主義派の説教者達は、それらに関して途絶えることも無く説教しています。 それは弟子達が宣べ伝えた事ではなく、それらは聖書に基づいた説教ではない、と誰も気がつかないのでしょうか? これらの現代の主題は、人中心であり、キリスト中心ではありません。 それらは、神学的にでは無く、心理的に有益と意図されています。 “全ての問題は実際、霊的な問題である。 全ての問題は霊的なものであり、あなた方が神を知るならば、全ての事はそれ自体が後には解決されるであろう”と言ったトーザー博士(Dr. A. W. Tozer)の言葉を、私は読んだのを覚えています。 私は彼に同意します。 聖書に関する彼の説教記録で知るように、使徒パウロが決してそのような現代的な主題について説教しなかった理由はそういうことなのです。 パウロは絶えず十字架につけられたイエス・キリストを説教しました、なぜなら、人は十字架につけられたイエスを通してのみ、神に来る事が出来るからです!

いかなる時にも常にパウロは 、“十字架につけられたキリスト”を彼の説教の正に中心とすることを“決心した”のです。 最初から、すなわちパウロが回心し洗礼を受けた後から、彼はそうしたのです。

“ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、”
      (使徒行伝第9章20節)。

そしてまもなく、

主の名によって大胆に語り、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちとしばしば語り合い、また論じ合った” (使徒行伝第9章28)。

パウロはコリント人達に言いました、

“わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える”
      (コリント人への第一の手紙第1章23節)。

彼はローマ人達に、

“わたしは福音を恥としない” (ローマ人への手紙第1章16節)。

と言いました。 正に、スポルジョンはパウロについて、“ひとつの主題に執着する人!”と言いました。 スポルジョンは、その説教の中で、

パウロはことに断固な人であった、そして彼が引き受けたことは何であっても心からそれを維持した。一度彼が“決心した”と言うならば、精力的な行動を確信[出来るであろう]・・・彼が迫害した同人物のイエスの弟子と彼がなった時、彼のすべての才能を十字架につけられたキリストについての説教に捧げるとは・・・それほど驚くべき事ではなかった。彼の回心は非常に明白であり、正に完全であり、彼がイエスへの信仰を獲得したゆえに、彼の心、魂、全力を尽くして、彼の十字架につけられた主以外何も知るまいと決心した(C. H. Spurgeon, “The Man of One Subject,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1971 reprint, volume XXI, p. 637)。 

私が最初に説教を始めた時に、キリストの来臨が私の中心となる主題でした、なぜなら、私はその主題のメッセージを聞いている時に回心したからです。 しかし年をとる毎に、そして更に聖書を読む事で、私自身がこのようになりました

“イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである”
      (コリント人への第一の手紙第2章2節)。

II. 次に、“イエス・キリスト”の語句。

“わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである”(コリント人への第一の手紙第2章2節)。

私はギル博士の本を読むのを好みます。 彼は、聖書の全本、創世記から黙示録を通して、九巻の注解書を書きました。 それらの注解書の何処を開いても、そしてほぼ全てのページにおいて“キリスト”、“イエス・キリスト”、“主イエス・キリスト”、もしくは“福音”などの言葉を見出します。 “超カルバン派”などと呼んで人々がギル博士に対して批判しても、彼がイエス・キリストを激賞し、聖書の全てのページにキリストを見出した、と言う事は確かです。 彼のように全てのクリスチャンは聖書を注視すべきです。 なぜなら聖書の最も中心なる主題はイエス・キリストだからです! 聖書の中心なる主題は成功する方法ではありません。 ばかげた事です! 主題は、予言についてのすばらしい要点ではなく、 自分自身を満足させる方法でも無く、幸福な家庭をつくる方法でも無く、子供を育てる方法でも無く、今日の多くの説教者達にとって重要に思えるような主題でもありません。 イエス・キリストが全聖書の最初から最後までの中心なる主題なのです! キリスト御自身がこのように言われました、

“わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである” (ヨハネの黙示録第22章13節)。

どのようにイエス・キリストの主題を余すところ無く述べる事が出来るでしょうか? どのように私達はキリストに関して聴くのを飽きるでしょうか? どうしたら私達がキリストに関する全ての主題を説教するに十分な時間を見出す事が出来るでしょうか? 実に、どうしたら私達がイエス・キリスト以外の多くの事を考慮し、また話す事が出来るでしょうか? 

“わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである”
      (コリント人への第一の手紙第1章30-31節)。

クリスチャンに全てのこのようなあわれみをかけられたのはキリストです。

“なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである”(コリント人への第一の手紙第2章2節)。

ギル博士は、使徒パウロが彼の説教で、イエス・キリストを主題にしたと書いています。 

彼はそれをもっとも喜びまた楽しみとした。人なるキリストに関して、彼が神、神の御子、そして真なる人であったこと、神であり人であられたこと、キリストがメシアであり、仲介者であり、預言者、祭司、そして王、頭、主人、救い主、そして教会また人々の贖い主であった事などの彼の役割に関して、キリストにより得られる神の恵みなる賜物、キリストの義によって正当化されること、キリストの御血による罪のゆるし、キリストの犠牲のみによる救い、などのようなキリストの御奉仕に関して、彼は知らせた。彼の決心は、キリストのみを宣べ伝えることであった(John Gill, D.D., An Exposition of the New Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint of the 1809 edition, volume II, p. 607; note on II Corinthians 2:2)。

ギル博士は、ここでイエス・キリストに関しての一年間分の日曜日の説教を挙げました。 いや一生涯を通してぐらいの説教を! 何年か前に、私はゲツセマネの園のキリストについて、七つの説教を続けて話しました。 それでも、私はその主題についてさほど触なかったような気がします! 2007年に私はイザヤ書第52章13節から第53章12節にかけて、神の苦しまれた僕、イエスに関して、続けて十四ほど説教しました。 また、聖書から丹念に集められたイエス・キリストに関しての説教を他にもしたことは確かです! イエスについての説教、イエスに関しての読書、そしてイエスに関して思考をめぐらすこと以上に、すばらしく、意味のある、あるいは私達に有意義となることはありません! 私は、グリフィスさんが先ほど独唱された賛美歌の作者である、サムエル・メドレーに完全に同意します。

イエスさま! 汝のみが必要なりと、
   我がこころにそう刻む。
我は全てから逃避出来しが、
   決して、決して、主よ、汝からはそうせず!
(“Jesus! Engrave It On My Heart” by Samuel Medley, 1738-1799;
     to the tune of “Just As I Am”).

私はあなた方にコリント人への第一の手紙第2章2節を使っています。 もし、あなた方が感心するどなたかの説教者をも語ってないのであれば、私にはどうすることも出来ません。 テキストはあります。 私は使徒パウロが語ったことのみを与えます。聖書にあるではないですか! あなた方が好むことをしなさい―聖句はそこにあるのです!

“なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである”(コリント人への第一の手紙第2章2節)。

しかし、今朝私達が考えるべき最後のことがテキストに残っています。

III. 最後に、“十字架につけられたキリスト”の語句。

“なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである”(コリント人への第一の手紙第2章2節)。

使徒パウロが説教したのは、幻想的な“霊のキリスト”ではありませんでした。 本当の肉と骨をもった、十字架につけられたイエス・キリストでした! それは、キリストの例としての聖霊でもなく、パウロの中心的主題である再来されるキリストでもありませんでした。 私の語ることを思慮をもって聞きなさい。 それは、私達が聖書で読むキリストでもありませんでした。 なぜなら、パウロが説教するキリストは、本当の人間だったからです。 ただ単に説明されるキャラクターではないのです。 イエス御自身がこう語られました、

“あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。”
      (ヨハネによる福音書第5章39節)

パウロは真実のイエス・キリストについて説教しました、すなわち、ゲッセマネの園で彼におかれたあなた方の罪に正に苦悩された―本当に―園の暗闇の中で苦しまれた方を。

“イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた” (ルカによる福音書第22章44節)。

ピラトに鞭打たれ、二人の強盗の間に十字架に釘付けにされたイエスは真実なのです。 使徒パウロはこう言いました、

“なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである”(コリント人への第一の手紙第2章2節)。

イエスの十字架でのはりつけは、私達が正餐式を行うときだけに考えるといったようなものではありません。 また、復活祭の時期だけに出されるような主題ではありません。 違います! イエスの十字架でのはりつけは、真のキリスト教の枢軸となる主題なのです! それがために、四つの福音書の中で詳しく描かれているのです。 それがために、使徒パウロが、繰り返し繰り返し使徒行伝ともろもろの書簡の中で語っているのです! 五旬節の日の説教の中で、パウロによって与えられたキリストの十字架でのはりつけは、福音の原点でした。

“このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した”(使徒行伝第2章23節)。

そして、使徒パウロはこのように語りました、

“しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える”
      (コリント人への第一の手紙第1章23節)。

奇妙にも、キリストの主題、すなわちキリストの永遠に御子であること、永遠の実存性、そして彼の御血の効果性といった点で間違った見解を持つジョン・マッカーサー博士(Dr. John MacArthur)は、正確にもこのように語りました、“十字架に関しての説教は、初期の教会では普通であったので、信者達は、死人を崇拝していると非難を受けた”(The MacArthur Study Bible, Word Bibles, 1997; note on I Corinthians 2:2)。 彼の教会を含む今日の多くの教会で、そのことが説教されているとは私は思いません。

皆さん、偉大な聖者や殉教者がそうであったように、そのことが私達に語られていることを祈りましょう! この教会に来ている人達がいつも、私達の罪のために十字架で死なれた神の人、イエスのことを考えるように祈りましょう!

回心しない人達は、十字架につけられたキリストのことを考えたくないのです! 肉にある人達は、自分達の感情や思いが何にもまして大事なのです。 彼らはキリストの十字架でのはりつけをただ単なる興味で見ているだけです! しかし、彼らはまちがっています! これは、生と死に関わることなのです! これは聖書の正に中心となる主題なのです、そして、いかなる男女がこの世もしくは来世で向き合う最も大事なしゅだいなのです! これを聞きなさい、なぜならあなたの魂の救いはこれにかかっているからです。

“しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう”
      (ローマ人への手紙第5章8-9節)。

イエス・キリストは、あなたの罪を購うために、あなたに代わり十字架で亡くなりました。 その真実を信じなさい、そしてあなたの自分の思いから離れイエスに来なさい。 そうすればあなたの罪はゆるされ、あなたは救われるのです! その真実をつかみ、彼を受け入れなさい、そうすれば、イエス・キリストは、人生の荒波と苦悩からあなたを導き出されるでしょう。 そして、あなたを安全に神の御国へ連れて行かれるでしょう! それがために、

“なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである”(コリント人への第一の手紙第2章2節)。

我が[キリスト]! 我が王!
   我は永遠に汝の名を歌う。
栄光と賛美は汝にあれ、
   唯一必要なこと、それはイエスなり!
(“Jesus! Engrave It On My Heart” by Samuel Medley, 1738-1799;
     altered by Dr. Hymers; to the tune of “Just As I Am”).

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読:ルカによる福音書第23章32-36節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Jesus! Engrave It on My Heart” (by Samuel Medley, 1738-1799).

要 綱

主題! 限り無い主題!

R. L. ハイマーズ、Jr. 神学博士 著

“なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである”(コリント人への第一の手紙第2章2節)。

(テモテへの第一の手紙第2章2節)

I.   最初に、“決心したからである”の語句。
コリント人への第一の手紙第2章2甲節;
使徒行伝第9章20, 29節;
コリント人への第一の手紙第1章23節;
ローマ人への手紙第1章16節。

II.  次に、“イエス・キリスト”の語句。
コリント人への第一の手紙第2章2乙節;
ヨハネの黙示録第22章13節;
コリント人への第一の手紙第1章30-31節。

III. 最後に、“十字架につけられたキリスト”の語句。
コリント人への第一の手紙第2章2丙節;
ヨハネによる福音書第5章39節;
ルカによる福音書第22章44節;
使徒行伝第2章23節;
コリント人への第一の手紙第1章23節。
ローマ人への手紙第5章8-9節。