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福音の心髄

R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

THE HEART OF THE GOSPEL
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2009年3月22日、主の日の朝の説教

“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである”(コリント人への第二の手紙第5章21節)。

福音の真の心髄は、十字架でのキリストによる身代わりの犠牲です。この真実について説教する人達は、どんな他の間違いを彼らがしようとも、彼らは福音を述べているのです。 しかし十字架でのキリストの身代わりの犠牲を説教しない人達は、どんなに他の真実を彼らが述べようとも、彼らは新約聖書の中心となるメッセージを見落としているのです。1880年に、スポルジョンはキリストによる犠牲の教義に関するメッセージを精魂込めて説教しました、なぜなら、それはイギリスのバプテスト・ユニオンの自由主義の増大によって否定されていたからです。 今日その問題はいくらか異なっています。 あるアメリカのテレビを通しての説教者達は、キリストは地獄で私達の罪の為に贖われたと教えています。 それはまったくの間違いです。そのような事は聖書にはありません。 しかし、多くの福音主義派の教会では、その教義が無視され否定されている事はさほどの問題ではありません。 しかし残念な事に、不思議にも無視されているのです。 十字架でのイエスによる身代わりの死は、今日の福音伝道主義派の説教壇においてほとんど述べられていません。 実際、今日の多くの伝道主義派の教会では、キリストの死に関してあまり述べられていません。 多少は話されているかもしれません、しかし牧師が、この必須の教義に関して完全な説教をする事は、非常にまれです。 私は、これが福音主義の教会を離れ、全ての礼拝集会がキリストの死を中心に形成されているような、ローマ・カトリックやオーソドックス派の教会に加入している人々の大部分の寝返りの原因の一つだと思います。 救いに関して応用されてはいなくとも、十字架でのキリストの死は、彼らのミサで非常に 重要視されています。 しかし、福音主義派の教会では、人々はキリストによる身代わりの死についての非常に重要な教義を、すでに知っているものと仮定しているのです。 ですから、 仮にされているとしても、それはほんのごくわずかに話されているだけなのです。

私は、クリスチャンを訓練する事が主に強調されているバプテストの教会に出席し、しばらく時間を過ごしました。 25年もの間、その教会にいたひとりの女性が私達の教会にきました。 私は彼女に、人はどのようにして救われるのかと尋ねました。 彼女は、“私の罪を告白し、主の晩餐を受ける事によって”と答えました。 彼女の牧師がキリストによる贖いの教えを話す唯一の時は、月々の主の晩餐を受ける集会の直前に、人々が自分達の罪を祈りによって告白した後でした。 その結果として、長年バプテストであったこの女性のキリストによる身代わりの死に関しての理解力は、失われたローマ・カトリック信者以下のものでした。 彼女の教会の牧師は、25年以上もの間、クリスチャンとしての生き方に関して会衆に教えていました。そしてこの間、この人は失われた身で、地獄へと向かっていました!

私は、今日、多くのバプテスト信者そして福音主義者達の考えに、キリストによる罪の贖いに関してさまざまな誤りがあるのではないかと思います、なぜなら、私達の説教壇において、このまさに重要な主題の漠然的な軽視によるからです。 一般に牧師は“そういうことは説教する必要はない! その主題は単純すぎる! 私はクリスチャンの生活の上で彼らを助けるための他の事を彼らに教えなければならない”と考えています。ですから、これらの牧師達は、彼らの全ての奉仕を“豚に真珠をなげる”ように過ごしています。 彼らが“教えている”人々が真のクリスチャンにならないため、彼らの奉仕の多くが浪費となるのです。 

私達は、カウンセリング・ルームにて人々の意見を聞く事によってその事を知る事が出来ます。 多くの牧師が一方的に話をし、そして決して質問や応答を聞くこともありません。 ですからそれらの牧師達は、それらの人々が何を考えているのか検討がつかないのです! ですから彼らは―“単純すぎる”ことから程遠い―それらの人々が知らない、また受入れない、キリストによる身代わりの死についての主題を理解しないのです! 今日、多くの福音主義の教会で、キリストによる身代わりの死について力強い説教を聞く事は、衝撃的な事となるでしょう。 もし彼らが私達のテキストに関しての熱心な説教を聞くならば、長い間、噂を掻き立てる事になるでしょう。

“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである”
       (コリント人への第二の手紙第5章21節)。

私は、50年間の説教の経験から、この事を知っています。

多くの福音主義者達が救われていないのも不思議な事ではありません! 私達の教会が閉鎖しているのも不思議な事ではありません! 今日、人々が傾向としての福音主義の落下を予測しているのも驚くべき事ではありません。 私はスポルジョンに同意します。

キリストの受難の教義は、常に私と共にある。ポンペイが滅びた時でさえ、ローマ人の番人が、持ち場を動かなかったように、教会が激しい異端のぬかるみの下に埋められようとも、私はキリストの贖罪の真実を支持する。他の全ての事は、放っておかれる、しかしこの一つの真実だけは、声高らかに主張されなければならない。他の人達は彼らの言い分を主張するが良かろう、しかしこの説教壇においては、常にキリストによる身代わりの死を繰り返すであろう。 “わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない”(C. H. Spurgeon, “The Blood Shed For Many,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1974 reprint, volume XXXIII, p. 374)。

“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである”
       (コリント人への第二の手紙第5章21節)。

ライリー博士はこのように書いています、

これが福音の心髄である。すなわち、罪のない救い主が私達の罪を取られ、そうされる事で、私達が神の義を得る事が出来るのである(Charles C. Ryrie, Ph.D., The Ryrie Study Bible, Moody Press, 1978, p. 1759; note on II Corinthians 5:21)。

罪人の身代わりとなられたキリスト、これが福音の中心なる教義-福音の心髄なのです。 人は罪の内に失われており、そして神が彼らの罪を取り、そして御自分のひとり子におかれ、私達の為に罪の供え物とされました。 そしてキリストに来る者は、神の目前に正しく、義とされるのです。 これが全ての内の最も偉大な、そして最も重要な教義なのです。 

“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである”
       (コリント人への第二の手紙第5章21節)。

I. 最初に、私達の為に罪とされた方は誰だったのでしょうか?

“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかた・・・”
      ( コリント人への第二の手紙 第5章 21節)。

“罪を知らないかた”はキリストだったのです。 彼の地上での生涯を通じ、彼は罪を知っていませんでした。 キリストは、この世で罪を犯されなかった唯一の方でした。 彼が“あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか”と言われた時、彼らは答える事が出来ませんでした(ヨハネによる福音書第27章23節)。 ローマの総督ポンテ・ピラトでさえそれを認めました。 人々が“十字架につけよ”と叫んだ時、ピラトは“あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか”と言いました(マタイによる福音書第27章23節)。 彼らは、キリストの内に罪を見い出す事が出来ませんでした、ですから、彼らはキリストについて誤った事を言い、彼の言った事を歪曲しました、さもなければ、彼らはキリストに何の過失も見い出す事が出来なかったのです。

“キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった”
       ( ペテロの第一の手紙第2章22節)。

“・・・彼にはなんらの罪がない” (ヨハネの第一の手紙第3章5節)。

これらはキリストを誰よりも良く知っていた人達、彼の親密な使徒ペテロとヨハネの言葉です。 ペテロは、“キリストは罪を犯さず”と言いました(ペテロの第一の手紙第2章22節)。 ヨハネは、“彼にはなんらの罪がない”(ヨハネの第一の手紙第3章5節)と言っています。 キリストは、罪による傷も、罪のしみもない、神の小羊でした!

キリストは、十字架で罪人の身代わりとなる事が出来る方でした、なぜなら、キリスト御自身に罪はなかったからです。キリストの傍らで十字架につけられた罪人達でさえ、“このかたは何も悪いことをしたのではない”(ルカによる福音書第23章41節)と言いました。

II. 次に、神は罪を知らない彼をもって何をされたのでしょうか?

“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた・・・”(コリント人への第二の手紙第5章21節)。

その明白な意味は、罪は、有罪の罪人から引き上げられ、無罪のキリストの上におかれた、ということです。

“主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた”
       (イザヤ書第53章6節)。

“彼は・・・彼らの不義を負う”(イザヤ書第53章11節)。

単純明快な言葉です。しかし、もしより簡潔に表すならば、これです―すなわち、“彼はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた”ということです。

神は人類の罪の重み全てをイエスにおかれたのです。スポルジョンはこのように言いました、

罪はわれわれの偉大な身代わり[イエス]をたいへん痛く押しつぶした。彼はゲツセマネの園でその重みを感じた、そこでは、“(彼の)汗が血のしたたりのように地に落ちた。”彼が呪われた木[十字架]の上で釘付けにされたとき、[われわれの罪の]重み全体が彼の上に臨んだ。 そこでの暗闇の数時間、彼はわれわれが想像を絶する苦しみを耐えられ・・・われわれは、彼はわれわれのために苦しまれたことを知る・・・。“それから、彼らは彼の顔につばをかけた。”それは残忍な軽蔑であった・・・。われわれは、彼は想像できないほどの身体とこころの痛みを耐えたことを知る:彼はのどの渇きを覚え、苦しみの中で叫びの声をあげ、出血の中で死んでいった。われわれは、彼は自分の魂を死に注ぎ出したことを知る・・・。しかし、その裏にはこれを超えた、計り知れない犠牲の深みがあった・・・。“汝の知られない犠牲”・・・知る事の出来ない犠牲があった。彼は、われわれが思いつくことのできないであろう苦悩を耐えた。表現することの不可能なものを覆い隠すことは賢明である。 それゆえ、わたしはこれ以上は語らない。この聖句は、“神は・・・罪を知らないかたを罪とされた”と言っているように、彼の悲しみを覆い隠し、そして明らかにさせる。主は、完璧に無罪である方をわれわれのために有罪とされた。それは、あなたが思いつく、屈辱、闇、苦悩、そして、死、以上のものを意味する。十字架は、永遠に消える事のない苦痛の煙が立ち上がる[地獄]それ以上に、神の人類の罪に対する怒りの完全なる黙示の中にある。神の罪の憤りを知る者は、身体ならびに魂のうちに血を流され、死んでいった・・・一人子である御子(イエス)を崇めなければならない。それは“彼は、彼を悲しみの中におかれた”以上のことである。それは“神が、彼を見捨てられた”以上のことである。それは“われわれの平和のための叱責が彼の上におかれた”以上のことである。それは、全ての表現の中で最も示唆に富むこと、すなわち、“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。”あぁ、恐怖の深みよ、愛の高さよ!(C. H. Spurgeon, “The Heart of the Gospel,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1974 reprint, volume XXXII, pp. 390-391).

III. 最後に、結果としてあなたに何が起こるのでしょうか?

“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである”(コリント人への第二の手紙第5章21節)。

イエスに来て彼に安息を得る人は誰でも、キリストにより身代わりの犠牲を通して、神の目に義とされるのです。 私達は、イエス・キリストに信仰を持つことにより義とされるのです―その他の方法はありません。

“このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている” (ローマ人への手紙第5章1節)。

イエスに信仰を持つことによって、義とされ、よりと見なされるのです、

“・・・神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである” (ローマ人への手紙第3章26節)。

直接イエスに来なさい、そうすれば彼はあなたの罪を取り除け、彼の義の着物をあなたに着せるでしょう!

彼の義のみで着飾れ、
玉座の前に欠点なく立つ為に。
   (“The Solid Rock” by Edward Mote, 1797-1874).

“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである”
      (コリント人への第二の手紙第5章21節)

あるバプテストの牧師が、すべてこれをモルモン教の信者に説明しました。 そして、その牧師は彼に、“あなたはこれを理解できますか?”と聞きました。 その人は牧師に、“私はそれを理解できますが、それを信じません”と言いました。 よろしいですか、あなたはそれを信じなければなりません、そして、もう一歩踏み込まなければなりません―すなわち、あなたは実際にイエスに来て彼の内に安息を得なければならないのです! そうして、あなたは

“・・・彼にあって神の義となるためなのである”
       (コリント人への第二の手紙第5章21節)。

あなたは“彼にあって”でなければいけません―すなわち、イエス・キリスト彼御自身の中に入なければなりません!彼に来なさい、彼に安息を得なさい!キリストの中に入りなさい。“彼にあって神の義となるためなのである!”

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読:コリント人への第二の手紙第5章17-21節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Jesus Died For Sinners” (by Dr. John R. Rice, 1895-1980).

要 綱

福音の心髄

R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

“神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである”(コリント人への第二の手紙第5章21節)。

I.   最初に、私達の為に罪とされた方は誰だったのでしょうか?
ヨハネによる福音書第8章46節; マタイによる福音書第27章23節;
ペテロの第一の手紙第2章22節; ヨハネの第一の手紙第3章5節;
ルカによる福音書第23章41節。

II.  次に、神は罪を知らない彼をもって何をされたのでしょうか?。
イザヤ書第53章6, 11節。

III. 最後に、結果としてあなたに何が起こるのでしょうか?
ローマ人への手紙第5章21節;第3章26節。