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救いに導く信仰と決断主義の対比 R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著 SAVING FAITH AND DECISIONISM CONTRASTED ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて “主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます” |
この説教のアイデアは、テネシー州メンフィスにあるサウス・ウッド・バプテスト教会の先任牧師でありリフォーム・バプテストの説教者フィル・ニュートン博士(Dr. Phil A. Newton)によって書かれた“The Way of Faith”の本から徐々に少しずつ収集されました。 彼はその出版書“The Way of Faith”(Founders Press, Cape Coral, Florida, 2002, pp. 21-25) の一章を割いて彼の注解を書いています。 私自身、適度にリフォームされているとは思いますが、ニュートン博士ほど完全にはカルビン主義の全て五つの要点を支持はしていません。 しかし、彼が救いに関して、神から選ばれた人達のみに神が与えられた救いの信仰に関して、彼の深い見解をこの章で書き上げている事を見出します。
ニュートン博士は、いわゆる四種類の“信仰”がある事を指摘しています。 ニュートン博士が説明している四種類の内の三つの信仰は、救いに導くのではなくむしろ地獄に導くものです、なぜなら救いに導く信仰は、多くの場合誤解されており、それゆえキリスト・イエスへの真の回心へとは導きません。
I. 第一の誤まった信仰は、ニュートン博士が呼んでいる“歴史的信仰”で
す。 これは聖書に関して歴史的な事実、それだけを信じている人
を表す。
キリストへの信仰について聖書が示している事のみを信じることは、真の信仰そして回心に十分ではありません。 聖書には歴史的信仰という一種の信仰がある、そのことをただ信じている人は、彼の信仰が聖書に基づいてはいても、それ以上の何物でもありません。 歴史的信仰における問題点は、それはあなたを救う事が出来きないという事です。 朽ちた悪魔でさえこのような信仰を持っていますが、彼らは救われていません。 聖書はこのように述べています、
“あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている”
(ヤコブの手紙第2章19節)。
ですから、聖書が書いている事のみに信仰を置いている人は、ニュートン博士が呼ぶ聖書においての歴史的な記録に基づいた信仰、“歴史的信仰”を持っています。 彼らはしばしば、“神がそう言っている、自分はそれを信じる、それで十分”と言ったような事を言っています。 しかし彼らは間違っています、なぜなら聖書における歴史的な著述を信じる事は、誰をも救わないからです! イエスはパリサイ人達を叱りました、なぜなら、彼らは聖書を信じていても、すなわち“歴史的信仰”をもっていても、彼らはキリストその方に救いの信仰を持っていないからです。 キリストは、このように言ってパリサイ人達を叱りました、
“あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”
(ヨハネによる福音書第5章39-40節)。
パリサイ人達は聖書を信じていました。 彼らは聖書における“歴史的信仰”に執着していましたが、それ以上の、主イエス・キリストに個人的な信仰を置く事を拒みました。 今日の教会に於けるこのような人々は、聖書への信仰を、更に聖書が述べているキリストへの救いの信仰に移すことを決してしません。 彼らは聖書への信仰を示すために、それを証明するテキストを示します、しかし、“救いへの計画”を信じる事は、キリストその方への生きた信仰の代わりとなりません。 何千人もの福音主義者達は、彼らの聖書への信仰をキリストその方を完全に知る事へと移そうと決してしません。 ですから、彼らは“妨げの岩”でつまずき、決して真の回心を体験する事が無いのです。 キリストについての知識はキリストその方を知る事には不十分な代用です! それは単に、キリストその方を知る事無くして、聖書の歴史そしてその言葉への信仰なのです。 聖書は逆に、このように書いています、
“永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります”
(ヨハネによる福音書第17章3節)。
永遠の命と完全なる救いは、イエス・キリストとの個人的な体験を通してのみに来るものであり、他に道はありません。 あなたは聖書を読みそしてそれを学び、それを信じることによって救われる事は出来ません。 聖書の目的は単にその言葉に同意し、もしくはその言葉を信じること以上にあなたを動かす事なのです。 聖書の真の目的は、あなたを聖書の著者であるキリストその方に面と向かって出会わせる事です。 あなたは聖書に関して多くを知る事が出来ても、キリストその方を知る事は出来ません。 それがパリサイ人達の誤りでした、そして それは今日の何千人もの福音主義者達が犯している同じ誤りです。 “歴史的信仰”、聖書のみへの信仰は、決して誰をも救いません。 キリスト御自身が救い主であり、聖書の御言葉ではありません。 使徒パウロはこのように述べてその事を非常に明白にしています、
“また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている”(テモテへの第二の手紙3章15節)。
聖書を学ぶ事の目的は、単にそれで終りではありません。 聖書の目的は、あなたを“キリスト・イエスへの信仰”に向かせる事です。 彼が救い主です。 聖書は救いの為にあなたをキリストに向かせます。 単に聖書を信じるだけで終わる人は、キリストその方を知る事を求めようとしないでしょう。 最後の審判で、キリストが彼についてこのように言われる時に、そのような人は自分の“歴史的信仰”が無益である事を知るでしょう。
“常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない”(テモテへの第二の手紙第3章7節)。
“そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」”(マタイによる福音書第25章46節)。
ですから、まず最初の誤りの信仰は、聖書もしくは聖書にある救いの道を単に信じる事です。 そのような信仰は救いません。 聖書は、キリストその方を信じなければならないと書いています。
“主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます”(使徒行伝第16章31節)。
II. 二番目の誤りの信仰は、ニュートン博士が呼ぶ“奇跡による信仰”です。
これは、奇跡が起こされ、もしくは祈りが聞かれ、それゆえに彼らが救われた事を信じる人達を示しています。 イエスはこのような誤りの信仰に対して、マタイによる福音書第7章21節から23節で、このように警告をされています、
“わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』”(マタイによる福音書第7章21-23節)。
ニュートン博士はこのように書いています、
イスカリオテのユダは3年間イエスに従い、そして彼は奇跡的な行いにも伴った。にもかかわらず、彼は地獄で滅びた! パロの魔術師達はモーセの行った奇跡を真似た、けれども、彼らはまったく信者ではなかった!イエスは、マタイによる福音書第7章21節から23節にかけてこのような誤りの信仰に対して警告をされた(同書)。
“ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である”
(テモテへの第二の手紙第3章8節)。
バーノン・マックギー博士は、テモテへの第二の手紙第3章8節に関してこのような注解をしています、
[ヤンネとヤンブレの]出エジプト記における記述は、サタンは勢力、超自然的な力があり、彼は大いなる模倣者、すなわち、神がなされる事を模倣する者であることを示している。ヤンネとヤンブレはサタンの力によって奇跡を行うことが出来た。モーセは神の力によってそれらの奇跡を行った。ここでこれらに言及する理由は、その対比を示すためであると私は思う。 我々は今日、サタンは神の力を模倣する事が出来ることを知る必要がある・・・今日、いたるところで、実際それがサタンからであるにもかかわらず、神の表れとして、その力の兆候が誤解されていることを私は憂う(J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson Publishers, 1983, volume 5, page 471; note on II Timothy 3:5)。
したがって、しるし、奇跡、そして聞かれた祈りに基づく誤りの信仰は、救いに導く信仰ではありません。 救いは、キリストその方を頼りとすることによって来るものです。
“主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます”(使徒行伝第16章31節)。
III. 三番目の誤りの信仰は、ニュートン博士が呼ぶ“一時的な信仰”
です。
マタイによる福音書第13章20-21節で、キリストはこう言われました、
“石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう”
(マタイによる福音書第13章20-21節)。
ルカによる福音書第8章13節で、キリストはこう言われました、
“岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである”(ルカによる福音書第8章13節)。
リエネッカー博士は“(信仰を)捨てる”―すなわち、ローカルの新約聖書に基づく教会とそこで説教される福音から“離れる、撤退する”に関して、この注解をしています(Fritz Rienecker, Ph.D., Linguistic Key to the Greek New Testament, Zondervan Publishing House, 1980 edition, p. 161; note on Luke 8:13)。 ニュートン博士は、このように言っています、
一時的な信仰というものがある、それはしばらく続くが、根がないためしおれてしまう・・・ある人達は宗教的な経験をもつか、あるいはクリスチャンの生き方に大いなる興奮をもつ、または、公に信仰の告白をする事もありうる。 しかし、もし神の言がその人の人生に、固い根を植えつけないならば・・・このような人は、クリスチャンとしての生き方が試される時、即座にしおれてしまう。 この種の信仰は救うことができない(同書)。
一時的な“信仰”は、キリストに根をもちません。 キリストが中心に置かれていません。 一時的な“信仰”は、感情の高まりや、教会での友人関係、あるいは他の身体的な、もしくは感情的な理由によるのです。 キリストが中心ではないので、それは救いへの信仰ではありません。 それは一時的な“信仰”にすぎないのです。
“主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます”(使徒行伝第16章31節)。
これらの全ては、誤りの“信仰”です。 誤りの“信仰”は、あなたを救いません。 聖書の句節だけを基にした“信仰”、そしてキリストを中心に置かない“信仰”はあなたを救いません。 奇跡に基づく“信仰”、あるいは祈りが聞かれたことによる“信仰”はあなたを救いません。 一時的な“信仰”はあなたを救いません。 しかし、四番目の種類の信仰は真実の救いへの信仰です。
IV. ニュートン博士が呼ぶ四番目の信仰は、“罪の赦し―救いへの信仰”
です。
彼は言いました、
罪の赦し・・・救いへの信仰は・・・我々に与えられた神からの賜物で、我々に代わりなされたキリストの仕業と人としてのキリストを信じることである。
“あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである”(エペソ人への手紙第2章8-9節)。
ニュートン博士はこう述べています、
救いへの信仰は、イエス・キリストの歴史的事実の単なる知識ではない。ほとんどの人達はこれを知っているが失われたままである・・・救いへの信仰は、イエスが救い主であるとか、イエスは救う事が出来るといった単なる知識ではない。救いへの信仰は、単に信じる事に信仰をもつ事でもなく、決断の中に信仰をもつ事でもなく、祈りの中に信仰をもつ事でもなく、公に告白する事[決断]で信仰をもつ事でもなく、あなた自身の救いの計画に信仰をもつ事でもない・・・。真の信仰とは・・・罪人が謙(へりくだ)ってイエス・キリストのみを信頼す時、罪の赦しの信仰がイエス・キリストへの完全なる依存として現れることである・・・それが信仰あるいは信じるという意味で、[イエス・キリスト]への完全なる依存もしくは信頼である。ピリピ人の獄吏が、パウロとシラスに、救われるために何をすべきでしょうかと尋ねた時、彼らは答えて言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝第16章31節)・・・。人が信仰でもってイエス・キリストに来る時、その人はキリストを違った感覚で知る・・・今、その人は、生きている、ダイナミックな関係をイエス・キリストともつのである。イエスは罪の力からその人を購い出したのである、それでイエスは今その人の贖い主である。イエスはご自身の御血と義をその人の人生に応用し、その人を神の御前に義とされたのである、それでイエスは今その人の義の正当者である。イエスはその人をこれから来る神の怒りから救われたのである、それでイエスは今その人の救い主である。イエスはご自身の死と力強い復活によって、その人に永遠の命を授けられたのである、それでイエスは今その人の主なのである(同書)。
“主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます”(使徒行伝第16章31節)。
私がこの説教を始める前に、グリフィス氏が「きたれ、なれを清むれば」(”I Am Coming, Lord”)を歌いました。 その賛美歌の言葉が、あなたの人生にとって真実なものとなりますように。
きたれなれを
きよむればと
のたもうみこえに
ききしたがわん
主よわれは
いまぞゆく
十字架の血にて
きよめたまえ
(「きたれ、なれを清むれば」
“I Am Coming, Lord” by Lewis Hartsough, 1828-1919).
真の救いへの信仰をもつ人は、簡単には教会の集会を休みません、特にクリスマスと元旦の集会です。 キリストに名誉を帰すこれらの集会を休む人は、通常ニュートン博士の言う“一時的な信仰”だけをもつ人で、クリスマスや元旦の時期の“誘惑の時に”、彼らは、来ていたローカルの教会から“離れ去ります”。 あなたが彼らの一人でないことを祈ります、そして、誘惑に打ち勝ち、クリスマスと元旦にこの教会でのキリストを崇めるエキサイトな集会に私達と一緒にいますことを祈ります。 あなたのための私達の祈りが聞かれますように。 あなたが信仰の大事なテストをパスしますように。 主の名に於いて、アーメン。
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読:
エペソ人への手紙第2章5-9節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“I Am Coming, Lord” (by Lewis Hartsough, 1828-1919).
要 綱 救いに導く信仰と決断主義の対比 R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著 “主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます”
I. 第一の誤まった信仰は、ニュートン博士が呼んでいる“歴史的信仰”です。
II. 二番目の誤りの信仰は、ニュートン博士が呼ぶ“奇跡による信仰”です。
III. 三番目の誤りの信仰は、ニュートン博士が呼ぶ“一時的な信仰”です。
IV. ニュートン博士が呼ぶ四番目の信仰は、“罪の赦し―救いへの信仰”です。 |