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偽のキリスト―この世の終わりのしるし―その1 R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著 FALSE CHRISTS – A SIGN OF THE END – PART I ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて “多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう”(マタイによる福音書第24章5節)。 |
私達のテキスト、マタイによる福音書第24章24節は、以下の通り、
“にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう”
(マタイによる福音書第24章24節)。
弟子達は、“あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか”(マタイによる福音書第24章3節)とキリストに尋ねました。 そこで、イエスは彼らに、この世の終わりへの動向を示す前兆のリストを与えられました。 イエスがお与えになったまず最初の前兆は、不法な、偽の“キリスト達”の出現でした。
チャールズ・ウッドブリッジ博士(Dr. Charles J. Woodbridge)が、フラー神学校(Fuller Theological Seminary)の神学論上の自由主義への傾向のゆえに(Harold Lindsell, Ph.D., The Battle for the Bible, Zondervan Publishing House, 1976, p. 111)、そこを去ってまもなく、私は1961年9月28日に、彼がこの世の終わりに関して、ペテロによる第二の手紙第3章から説教した言葉を聞いて回心しました。 ですから、聖書の予言についての主題は、今でもそうですが、当時は私にとって非常に重要な事でした。 私は、日曜日の午後のラジオでのデハーン博士(Dr. M. R. DeHaan)の聖書の予言に関する説教を聞きました。 バーノン・マックギー博士(Dr. J. Vernon McGee)が、毎朝ラジオを通して聖書を教えていた時、仕事で車を運転する間、私は彼の予言に関しての教えを聞きました。 私はその当時、ビリー・グラハム(Billy Graham)のラジオ番組、“決断の時(Hour of Decision)”で、彼のキリストの再臨の前兆に関しての説教をも聞きました。 私自信の牧師テモシー・リン先生(Dr. Timothy Lin)はしばしば、聖書の予言の主題で説教しました。 40年以上も前のその当時には、キリストの再臨、そしてこの世の終わりに関しての説教を聞くのは、非常に通常な事でした。
それが最も必要とされる今日、私達はこの主題に関してほとんど聞くことはありません。 私達は今日、この主題に関してもっと聞く必要があります。 かって以上に―この世が裁きに向かって坂をすべり下っている現在、それは必要とされるのです。
弟子達は、“あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか”(マタイによる福音書第24章3節)と尋ねました。 そこでキリストは幾つかのしるしを彼らに与えられました。 最初のしるしは、その多くの偽のキリスト達に関してのしるしでした。 イエスはこのように言われました、
“多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう” (マタイによる福音書第24章5節)。
第24節でキリストが言われた事に気をつけて下さい、
“にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って・・・できれば、選民をも惑わそうとするであろう” (マタイによる福音書第24章24節)。
それらの節の両方共が、真のキリストについての、最後の時の惑わしに関して示しています。 両方の節のその“惑わし”という言葉は、ギリシャ語の“planaō”という言葉から訳されており、それは“真実から・・・道をそらさせる”(Strong)、“過ちに導く事によって、欺く事”(Vine)という意味です。 要点はこれです、すなわち、神によるこの世の摂理の最後には、キリストに関して非常な惑わしが起こる、と言う事です。 多くの偽のキリスト達が現れるでしょう。 それが、多くの誤った、偽のキリスト達のしるしです。 ここ何年間かに、それがますます起こって来ています。 私達の時代にまで至るキリスト達の増加は、世界の歴史に先例がありません。 私達は、現在、一般の人達を当惑させている、非常に多くの偽のキリスト達に直面しています。 今晩、あなた方にそれらの二つの要点を示すのが私の意図です、そうして、誰が真のキリストであるかを、聖書からあなた方に伝える事です。 私は、幾つか他にも指摘する事が出来ますが、来週の日曜日の夜にそれをします。 しかし私は、私達の主の来臨、そして、この世の終わりが近づいている前兆であると私が信じる、今日の最も一般的な偽の“キリスト達”について二つの要点に焦点を置きます。
I. 最初に、神学論上の自由主義による偽のキリスト。
その偽のキリストに関して、私は知っています。 私が大学を卒業した後通った二つの神学論的に自由主義である神学校で、その偽のキリストは私達と居合わせました。 端的に言えば、この偽のキリストはただの人のなのです。 彼には何の霊的な、または神性なものはありません。 彼は単なる人だからです。 彼には何か特別な神からの使命があり、また何らかのすばらしい倫理と道徳的な事などを述べる事があったと、彼らは言うかも知れません。 しかし結局は、彼は聖書に基づいたキリストではなく、人間として肉体を供えた神ではありません。 彼は罪を負い十字架へ行きませんでした。 彼は私達の罪の為に死にませんでした。 彼は墓から身体ごとよみがえりませんでした。 彼は身体ごと昇天されませんでした。 そしてまた、彼は、この地上に彼の御国を備える為に、雲に乗って再び身体ごと戻って来ません。 神学論的な自由主義による偽のキリストは聖書で示されているキリストではありません。 彼は、単なる正当な人で、道徳上の教師であった、私達は彼の模範に習い、彼のように正当な人間になるよう努めるべきである、と言うのが自由主義によるキリストのとる立場です。
スポルジョンは、“教会は近代の異端説の激しい悪口の下に埋もれているが、私はキリストの贖いの真実を支持する”と語った時、彼はキリストについて誤った見解に直面していました(C. H. Spurgeon, “The Blood Shed for Many,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1974, volume XXXIII, p. 374)。 神学論的自由主義による偽のキリストが一般的になったのは、スポルジョンの時代でした。 そしてこの誤りは主要なプロテスタントの教会などで、今日引き続がれています。 それは、アルバート・シュワイザー(Albert Schweitzer)の本、“The Quest of the Historical Jesus(歴史的なキリストの追及)”(1906)とその類の本によって一般化されました。 たちの悪い自由主義者のハリー・エマーソン・フォスディック博士(Dr. Harry Emerson Fosdick)は、そのような類のよく読まれているキリストについての本を書きました。 バラック・オバマ(Barack Obama)の長期にわたる牧師であったジェレミア・ライト博士(Dr. Jeremiah Wright)は、この観点から見たキリストについて教えました。 何ヶ月か前に、オバマが、ようやくこの自由主義の教会から去った事をうれしく思います!
自由主義の神学者達は“偉大な道徳の教師”と言って、イエスはただの偉大な人であったように言い表しています。 この自由主義の見解に反対したルイス(C. S. Lewis)はこのようには述べています、
私はここで、人々がしばしばイエスについて“私はイエスを偉大な道徳の教師として受け入れる覚悟である、しかし彼が神であるという主張は受け入れない”と言うような、まさに愚かな発言をすることを妨げようとしている。 そのような事だけは、私達は口に出すべきではない。 単なる人は、イエスに対しこのように言うかもしれない。 すなわち、彼はむしろ人の次元で言う落とし卵の変人であったのか、あるいは彼は地獄の悪魔であったかのどちらかだ、と。 あなたは自分で選択しなければならない。 すなわち、この人は神の御子であって、今でも神の御子であるのか、あるいは怒った人、あるいはそれ以下の人であるのか。 あなたは彼をばか者呼ばわりし、彼に唾をかけ、悪魔として彼を殺すのか、あるいは、彼にひざまずき、彼を主そして神と呼ぶのか。 しかし、彼を偉大な教師というナンセンスな思いは持つな。 私達にはそう考える余地はない。 彼はそうあろうとはしなかったのだ(C. S. Lewis, Mere Christianity, Macmillan, 1952, pp. 40-41).
私が聖職の博士号を取る間に通った、自由主義の長老派教会の神学校のある一人の教授は、“ハイマーズは、立派な学生であるが、彼は非常に狭い見解を支持している”と言いました。 あなたが聖書を信じれば、あなたは“狭い見解”を持っている、と彼らは言います。 では、あなたが車のバックミラーを見る時も、狭い視野があります。 しかしあなたが車線を代えようとする時、そこを見なければ、あなたは事故に遭うでしょう! 聖書はそのようなのです、 あなたがキリストに関して学ぶ為に、聖書でそこを見なければ、あなたは最後の裁きの場で真の破滅となるでしょう!
イエスは、弟子達にこのように尋ねられました、
“人々は、わたしをだれと言っているか”
(マルコによる福音書第8章27節)。
“彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。 しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」”
(マタイによる福音書第16章14節)。
他の言葉で言い換えれば、自由主義の神学者達が今日教えているように、人々は彼が人であると言っているのです。
“そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」”(マタイによる福音書第16章15-16節)。
イエスはペテロに答えて言われました、
“あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である” (マタイによる福音書第16章17節)。
キリストが事実、神の御子であり、神格の二番目の方であり、三位一体の二番目の方である事を現すには神の力を要します。
“キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており” (コロサイ人への手紙第2章9節)。
これは“神位そして神なる人の人間さを納得させる強い宣言である”(Charles C. Ryrie, Ph.D., The Ryrie Study Bible, Moody Press, 1978, note on Colossians 2:9)とライリー博士は言っています。 自由主義の神学者達はキリストについてのこの真実を知っていません。 彼らはイエスは単なる偉大な道徳の教師であったと信じています、なぜなら彼らは、神の力そして啓発によって回心させられていないからです。
“にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って・・・できれば、選民をも惑わそうとするであろう” (マタイによる福音書第24章24節)。
自由主義の神学論上では、キリストは単なる道徳の教師です。 しかし、これは世の最後のしるしとして、この世の場面に現れた偽の“キリスト達”の一人なのです、なぜなら真のキリストはただの偉大な道徳の教師よりもはるかに秀でた方だからです!
II. 次に、決断主義によって広まった偽のキリスト
19世紀の後半の始めに、神学的自由主義の反動としてファンダメンタリストの潮流が起こりました。 自由主義者達はキリストは単なる偉大な教師であったと言いました。 ファンダメンタリストは、キリストは人であり神である、すなわち神の人であると反論しました。 キリストの完全な神性は、ファンダメンタリストによって強調され擁護されました。 彼らは正しかったのです。
しかし、キリストの神性に対する彼らの強調は、形を変え時と共に誤った教義に発展していきました。 これは、“あなたの心にイエスが入って来るように彼に尋ねなさい”と強調する決断主義者に支えられ、ロバート・ボイド・マンガー(Robert Boyd Munger)の“私のこころ―キリストの家”というよく知られた小冊子になったのです。 徐々に、多くの“決断主義者”の伝道は、キリストを人々の心に住む“霊”として考えるようになり、聖書の中で語られている教義、よみがえられ、天国に上げられ、神の右座にいるキリストは、軽んじられ、重用視されなくなったのです。
“あなたの心にイエスが入って来るように彼に尋ねなさい”という、決断主義者の強調は、キリストの人間性が多くの人々に蔑ろにされ、彼はただ霊になったという誤解を招く結果を生みました。 しかし、真のイエスは霊ではありません! イエスが身体ごと墓から起き上がられた後に、イエスによってその事は大変明白になりました。 よみがえられたキリストが弟子達に現れたとき、
“彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った”
(ルカによる福音書第24章37節)。
しかし、よみがえったキリストは彼らにこう言われました、
“わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕” (ルカによる福音書第24章39-40節)。
数日後に、
“祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕”(ルカによる福音書第24章51節)。
そして、二人の御使いがやって来て彼らに言いました、
“言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」” (使徒行伝第1章11節)。
ですから、肉と骨をもった、よみがえられた同じイエスが天国へ昇天されたのです。 “この同じ”“肉と骨”をもってよみがえられたイエスが、天に上げられた(使徒行伝第1章11節)時と同じように、再臨の時に、栄光に包まれ天国から戻って来るのです!
今日、真のイエスはよみがえられた“肉と骨”(ルカによる福音書第24章39節)をもったままで、父である神の右座に座られています。 私達は何度も新約聖書の中で、彼はこの地上には居ないと教えられています。 私達は何度も彼は天国に上げられ神の右座にいる事を、へブル人への手紙第1章3節、第8章1節、第10章12節、第12章2節、ペテロの第一の手紙第3章22節、ルカによる福音書第22章69節、ローマ人への手紙第8章34節、エペソ人への手紙第1章20節、そして他の新約聖書の節で教えられています。
マルコによる福音書第16章19節は、それらを集大成して次のように言っています、
“主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。”(マルコによる福音書第章節)。
よって、決断主義者のイエスについての、“あなたの心に入る”“霊的なキリスト”の考え方は誤っているのです。 “決断主義”の“霊的なキリスト”は、神学的自由主義の“偉大な教師キリスト”と同様、偽りなのです。
“にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って・・・できれば、選民をも惑わそうとするであろう” (マタイによる福音書第24章24節)。
私達は、あなたが信仰によって真のキリストに来ることを祈ります。 彼は真に神の人です。 彼は真に“神の神格”の第二位の人です。 彼は真に人の罪の罰を贖うために十字架で亡くなりました。 彼は真に身体ごと死からよみがえり“肉や骨”(ルカによる福音書第24章39節)をもっているのです。 彼は真に天に上げられ、神の右座(ローマ人への手紙第8章34節、他)にいるのです。 そして、あなたがもし真のキリストに来るのであれば、彼はあなたの罪を彼の御血でもって洗い清め、あなたはいつの時に於いても永遠に救われるのです。 それがあなたに起こりますよう、私は祈ります。 彼の名において、アーメン。
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の朗読: ルカによる福音書第24章36-52節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“He Is Coming Again” (by Mabel Johnston Camp, 1871-1937).
要 綱 偽りのキリスト―この世の終わりのしるし―その1 R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著 “多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう”(マタイによる福音書第24章5節)。 (マタイによる福音書第24章5,3節)
I. 最初に、神学論上の自由主義による偽のキリスト。
II. 次に、決断主義によって広まった偽のキリスト。 |