これらの説教文書は、毎月221か国以上の約11万6千台のコンピューターへwww.sermonsfortheworld.com
から送られています。他に数百人の人々がユーチューブのビデオを視聴していますが、各々のビデオは、直接私達のウェッブサイトを紹介していますので、すぐにユーチューブを離れ、私達のウェッブサイトにやって来ます。
説教文書は46カ国語で毎月何十万人もの人々へ送られています。また、説教文書は著作権で守られていませんので、説教者の方々は、私達の許可なく使用することが出来ます。
イスラム教圏やヒンズー教圏を含む世界中へ福音を広めているこのすばらしい奉仕への支援に御関心のある方は、
月々の寄付金の送金方法をお知らせしますので、ここをクリックして下さい。
ハイマーズ博士に電子メールを送られる際は、どこの国にお住まいかをいつもお知らせ下さい。そうでありませんと、先生はお答えすることができません。ハイマーズ博士の電子メール住所は
rlhymersjr@sbcglobal.netです。
キリストの血による平和 R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著 PEACE THROUGH THE BLOOD ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles “そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである”(コロサイ人への手紙第1章20節)。 |
ダグラス・マッカーサー将軍(General Douglas MacArthur)は第二次世界大戦時の偉大なアメリカのヒーローの一人でした。 マッカーサー将軍はかつて“人々は、この世の初めから平和を求めた。 軍事同盟、権力の釣り合い、国家連盟など、全ては達成できなかった”と言いました。 その通りです。 聖書は“滅びが来るとき、彼らは平安を求めても得られない”(エゼキエル書第7章25節)と言っています。
私が幼少の頃、私達は常に核戦争を恐れていました。 私の祖母の家で、頭上を飛ぶ飛行機の音を聞きベッドに横たわっていた事をはっきりと覚えています。 それらの飛行機の一機が原子爆弾を私達の上に落とすであろうと、私は布団の中で冷や汗をかきながら横たわり、私の腹の中がよじれるまで寝返りをしました。
今日の若いあなた方にはそのような恐れはありません。 私達が“冷戦”と呼んだ、ソビエトとの戦争は終わりました。 私達には平和の期間がありました。 現在では、些細な軍事行動がイラクで成されています。 しかしそれは、ベトナム戦争や冷戦ほどのものではありません。
それでも私が話す多くの人達は心の平安を感じていません。 現在、平和があり、戦争はありません。 それでも私達の心中には平安はありません。
心の安らぎを得る為に麻薬を使う人々の数は増え、多くの社会学者や心理学者達は、何万人もの子供達が自分達をコントロールする事が出来ない為、処方薬を使っているという事実に驚かされています。 幼少期にでさえも、彼らには安らぎがありません。 十代の若者達は心の安らぎを得る為に、お酒と麻薬に走ります。 自殺は、三十歳以下の大学の年頃の若者の間で第二の死因となっています。 うつ病や恐れは、今日の若者の間の一般的な特徴です。 しかし、現代のテクノロジー 、科学、麻薬、そしてアルコールなど、また、有り余るほどの娯楽時間、そしてテレビやビデオゲームなどをもってしても、心の平安は今日の多くの人々、特に若者達にとって把握外にあるように思えます。 “滅びが来るとき、彼らは平安を求めても得られない”(エゼキエル書第7章25節)。
若者達は人生での失敗を恐れています。 彼らは自分達にはやっていけないのではないかと恐れています。 彼らは、自分にあった結婚相手を見つけることが出来ないのではないかと恐れています。 彼らは決して真に満足する事がないであろうと恐れています。 そして、彼らは死を恐れていると言っています。 彼らが何をしても、彼らの求めている心の安らぎを見出す事がないように思われるのです。
あなたは酔っ払い麻薬をうつこともできるでしょう、しかし恐れは心の底に留まっています。 あなたはナイトクラブへ行き、何時間もダンスをすることもできるでしょう、しかし恐れは心の底に留まっています。 セックスをしても、恐れは心の底に留まっています。 そうではないですか? あなたは真の満足感を決して得られないのではないですか? 心に、そして生活の中にあるべき安らぎがあなたにないのは確かではないですか?
キリストの受難の話から私が安らぎについて説教しているのは奇妙に思われるかもしれません。 マルコによる福音書第15章24節から39節でのキリストの死についての記述で、血の流された場面の描写には、何の平和もないようには思われます。 そこにはキリストの受難が書かれています。 しかし、これらの聖書の言葉が平和についての事なのです。 それは真の平和を得ることについて、多くを語っています。 私達のテキストはこのように言っています、
“その十字架の血によって平和をつくり”
(コロサイ人への手紙第1章20節)。
キリストの受難の話は、心の平和を得る事について幾つかの事柄を私達に伝えています。
I. 最初に、よこしまな者には平安がない。
聖書では“わが神は言われる、「よこしまな者には平安がない」”(イザヤ書第57章21節)と言っています。 そしてそれは、十字架でのイエスの死の記述で明白に描写されています。 十字架につけられたキリストを眺めに来た群衆達は、怒り、辛らつさ、そして不信で満ちていました。 彼らは“平和の道”(ローマ人への手紙第3章17節)を知らなかったのです。 その群衆達の心には平安がありませんでした。
そこにはローマの百卒長らがいました。 彼らはイエスを十字架につけ、ひざまずきサイコロなげなどして、キリストが着ていたおおいに賭けをしました。 彼らは無情で無感覚な者達でした。 人を十字架につけることが彼らの仕事でした。 彼らは毎日のように人々を十字架に釘付けました。 それはローマの処刑のやり方であり、彼らはその執行者でした。 彼らの心は非常に無情であり、彼らの良心はとても冷血であり、釘がイエスの手足の肉を裂く時の痛みで彼が叫んだ時でさえ、彼らは嘲笑したのです。 聖書は“兵卒どももイエスをののしり”(ルカによる福音書第23章36節)と書いています。
今日でも、彼らのような人達はいます。 無感覚で、冷血で、邪悪な憤った人達、これらの人達は私達の回りにいます。 もしかしたら、あなたもそのような性格をもった人なのかもしれません。 宗教の着想自体があなたにとってなんともジョークにしか思われないのです。 “馬鹿げている!”とあなたは言うかも知れません。 あなたは、キリスト教は年老いた女性や子供達の為にであって、あなたのような賢明な人の為にではないと思っているでしょう。 ローマ兵達のように、あなたの心は非常に無感覚であり、良心の呵責をもつこと無く罪を犯すことが出来るのです。 いかなる罪を犯しても、あなたの良心はまったくあなたを悩ます事もないのです。
しかし、なぜかしら、あなたは心に平安を見出していないのです。 外見的には、あなたは大丈夫だと回りの人達は思っています。 しかし内面では、あなたはむなしく、孤独で、恐怖感を抱いているのです。
“わが神は言われる、「よこしまな者には平安がない」”
(イザヤ書第57章21節)。
それから、“ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた”(マタイによる福音書第27章38節)。 そして聖書は、彼らはイエスをののしり、そして叫んで言った、と私達に教えています。 聖書は“一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった”(マルコによる福音書第15章32節)と書いています。 彼らもまた、平安を見出すことが出来ず、彼らの怒りを十字架にかけられた救い主へと向けたのです。
あなたは“なぜそれらの強盗達はそうしたのか? 彼らも死ぬのではないか? なぜ死のうとしている者がイエスをののしるのだろうか?”と言うかもしれません。 確かな質問です。 しかし人々は常にそのような事をしています。 知っているように、私達は皆、いつか直ぐにも死んでいきます。 もしあなたが七十歳ぐらいまで生きるなら、それはあなたが思ったよりも速く過ぎていくでしょう。 全て私達は比較的直ぐに死んでいきます。 にもかかわらず、あなた方の何人かはののしっています。 あなたはまさにそれらの強盗達がしたようにののしっているのです。
あなたはこの集会を去り、出て行き、そして今日ここで聞いた事全てを笑い事に処するでしょう。 そして、あなたのクリスチャンでない友達や家族もあなたに同意するでしょう。 彼らは“あのバプテスト教会へは戻る必要はない。 狂信者にはなるな。 説教者に洗脳されてはいけない。 彼が言う事全てを聞くんじゃない。 行き過ぎるな”などと言うでしょう。 そのような事をあなたの信者ではない友人や両親、そして親戚の人達はしばしばあなたに向かって言うでしょう。 多くのあなた方は、今日聞いた説教を彼らと一緒に嘲笑し、ジョークのネタにすることでしょう。 あなた方は正に、あの日にキリストをののしった二人の強盗達と同じなのです。 その日の後に、彼らの内の一人が回心をしクリスチャンになりましたが、もう一人の方はキリストをののしりながら死にました。 “わが神は言われる、「よこしまな者には平安がない」”(イザヤ書第57章21節)。
そして、そこには宗教の指導者達がいました。 聖書はこのように言っています、
“祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう” (マタイによる福音書第27章41-42節)。
これらの祭司や律法学者達は全て知っていると思っていました。 この都市にも、彼らのような大学の教授やカトリックの祭司そしてプロテスタントの説教者達がいて、正に彼らと同じである事があなたに分かるでしょう。 彼らは口先ではキリストに仕えていますが、彼らはあなたは回心する必要はないと言うでしょう。 彼らは“あのバプテストの説教者に耳を傾けるな。 今のあなたの状態で十分である”と言うでしょう。
しかし、彼らは、あの日、十字架のそばに立ち、キリストをののしった祭司や律法学者達と同じように間違っているのです。 あなたには、キリストが必要なのです。 あなたは回心する必要があります。 完全なる回心のみが、あなたに神との平安を与えることが出来ます。
“わが神は言われる、「よこしまな者には平安がない」と”
(イザヤ書第57章21節)。
II. 次に、キリストに信頼を置く人々に平安がある。
私達のテキストはこう言っています、
“そして、その十字架の血によって平和をつくり・・・”
(コロサイ人への手紙第1章20節)。
キリストが彼らの罪の為に十字架で死なれたその当時、何人の人達が彼らの心に平安を見出したかに注目してください。
そこにはキリストの母親の聖母マリアがいました。 彼女は自分の息子、イエスの使命を完全に理解していませんでした。 もちろん、彼女は見使いを覚えています。 彼女はイエスの不思議な誕生を覚えています。 彼女はイエスが他の人達と違っており、神が彼を呼ばれた事を知っていました。 しかし聖書は、キリストの使命と彼の運命を完全には理解していなかったように示しています。 聖書は、キリストの異父兄弟でさえ、キリストの復活の後まで彼を信じていなかったと書いています(ヨハネによる福音書第7章5節)。 マルコによる福音書の第三章で、イエスの親戚の者は彼の説教をやめさせようとし、彼を気が狂った者のように呼びました。 そして彼の異父の兄弟と母親は、彼をやめさせ、あるいは、彼の説教を“静め”させようともした、と聖書の他のところで書かれています。 しかしキリストは“神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである”(マルコによる福音書第3章35節)と言われました。
バーノン・マックギー博士(Dr. J. Vernon McGee)はこのように語っています、
主は、今日最も強い絆はキリストと信者との間の絆であると言っておられる。 もしあなたが神の子であり、そしてあなたに救われていない家族がいるならば、あなたを生んでくれた母親を含めたその家族よりもあなたはイエス・キリストに親密なのである。 あなたは救われていない家族よりも、他の信者達にもっと親密に結びついているのである(Thru the Bible, volume IV, p. 70, notes on Matthew 12:46-49)。
彼が十字架にかけられたその日、キリストの母親はそこにいました。 彼女はそこに立ち、十字架にかけられた自分の息子を見上げていました。 そこでイエスは彼女を見つめ、それから使徒ヨハネを御覧になり、イエスは、御自分の母親を世話するようにヨハネに告げられました(ヨハネによる福音書第19章26節)。
キリストの母親と彼の兄弟達は、キリストが死からよみがえられた後、完全にキリストを知るようになりました。 そして彼の母親は、息子、イエス・キリストを知る事によって、大いなる平安を見いだしました。 そのように、もしあなたが、彼女がしたようにイエス・キリストに信仰を置き、信頼するならば、あなたも同じ平安と罪の許しを得る事が出来ます。
キリストの横で十字架にかけられた二番目の強盗もまた、キリストの十字架で流された御血によって平安を見いだしました。 彼は午前中、もう一人の強盗と同じようにキリストをののしりました。 しかし、日がたつにつれ、キリストに耳を傾け始めました。 彼は十字架でのキリストの七つの言葉を聞きました。 彼は、キリストが十字架から説教をされたように、彼に耳を傾けたのです。
午後の初め頃に、その二番目の強盗は回心しました。 彼はイエス・キリストへの信仰を体験し、生まれ変わりました。 この回心した強盗は自分の十字架から、血まみれの十字架にかけられたイエスを見たのです。 そしてその強盗は、イエスにこう言いました、“「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」”(ルカによる福音書第23章42-43節)。 彼はイエスを信じる事によって、神との平安を得ました。
そのように、私達はこの強盗からクリスチャンになるという事に関して大いに学ぶ事が出来ます。 彼は行いによって、もしくは洗礼を受けることによってクリスチャンになったのではありません。 彼は十字架につけられ、死のうとしていました。 彼には、よい行いをすることや洗礼を受ける時間はありませんでした。 そうするには遅すぎたのです。 彼にはイエスを信じる時間しかありませんでした。 彼は信仰を通して神の子に身を投げました。 彼はイエスを心から信頼しました。 そのように、彼のキリストへの単なる信頼だけで十分だったのです。 イエスは彼を救わ、彼は神との平安を体験したのです。
ですから、もしあなたがイエスを完全に信頼するならば、彼はあなたをも救う事が出来ます。 それはただキリストに関する事柄を信じるというのではありません。 イエスがあなたの罪の為に死なれた、その事、もしくは彼が死からよみがえられたという、その事を信じるだけでは十分ではありません。 それらは教義であって、教義だけではあなたを救うことは出来ません。 聖書は“主イエスを信じなさい。 そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます”(使徒行伝第16章31節)と言っています。 そうして、この強盗が信じたように、あなたもイエスを信じることが出来るのです。 あなたが完全なる信仰をキリストに置く時に、彼はあなたをも救われます。 イエスはご自分の御血でもってあなたの罪を洗い流し、あなたは罪の苦しみから救われるでしょう。
III. 最後に、キリストを通して神との平安がある。
さて、それがここコロサイ人への手紙第1章20節で聖書が述べている事なのです。 それは神との和解―すなわち、神との平安について述べています。
聖書は、人類は神に対して反抗したと教えています。 アダムは反抗しました。 彼の罪は人の本性を没落させました。 聖書は、私達は本性により罪人であると教えています。 私達は、アダムより罪深い本性を受け継ぎました。
そして罪があなたを神から引き離しました。 ですから神はあなたにとって真実のように思われないのです。 あなたは自分の罪によって神から引き離されているのです。 聖書はこのように語っています、
“ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ” (イザヤ書第59章2節)。
あなたと神との間には隔たりがあります。 あなたは、あなたの罪によって、神から隔てられ引き離されています。
では、あなたが本性において罪人であるならば、あなたには自分を救う為に出来る事は何もありません。 なぜなら、あなたは罪の窮地で絶望的に失われているので、あなたは自分自身で罪から抜け出す事が出来ないのです。 あなたのする事、また言う事は何も罪からあなたを救う事は出来ず、その結果は、地獄なのです。 神は主導権をとられなければならなかったのです。 聖書が、あなたの罪の問題への唯一の答えを上げています。
”しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである” (ローマ人への手紙第5章8節)。
神は、ご自身の一人子である御子を十字架で死なせるために天国から送られました。 神はあなたの罪の贖いのため―すなわち、あなたを神と和解させ、神との平安をあなたに与えるために、十字架で死ぬためにキリストを送られました。
ご自身神聖である神が、どのようにして罪人を赦し正当とされるのでしょうか? その唯一の答えは、イエスが十字架で死なれ、彼の死でもってあなたの罪の贖いをなし、彼の御血でもってあなたの罪を洗い清める、ことにあります。 彼の死と御血は、あなたを神との正しい関係に戻す―すなわち、神と和解させるのに十分です。
あなたは、キリストの御血を通して、神と再び絆をもつことができるのです。
“ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである” (エペソ人への手紙第2章13節)。
“このように、わたしたちは・・・わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている” (ローマ人への手紙第5章1節)。
“そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである” (コロサイ人への手紙第1章20節)。
先ほど、グリフィス氏が偉大な賛美歌を歌いました。 それは、あなたのような罪人を罪から洗い清めるイエスの御血についてその全てを歌った賛美歌でした。 キリストが、ご自身の御血を通して提供された平安を受けるためにあなたは何をする必要があるのでしょうか?
最初に、あなたは教会に継続して来る必要があります。 長く来れば来るほど、あなたには福音を信じ回心する機会が増えます。 回心とは、簡単な救いの祈りを上げることでも、聖句を暗記することでも、あるいは二、三の教義を習うことでもありません。 回心はあなたの人生を根本的に、正に今、そして永遠に変えるものです。
教会へ継続して来て、このような説教を聞けば聞くほど、あなたにはキリストへ回心する機会が増えます。
さて、あなたの周りの人達は、あなたが教会へ行くのを阻害するでしょう。 悪魔は、あなたが回心することを嫌うので、彼らを利用するでしょう。 悪魔は、あなたに地獄に来てもらいたいのです。 そこで、悪魔はあなたの友達や親戚のものを使い、あなたが教会に戻ってくるのを止めさせるのです。
ある若者が、車の免許書を持たずに運転をしていました。 彼の家族はペンテコスト派のクリスチャンです。 彼らは、本当ならば1998年に“救われていた”はずです。 しかし、この若者は二、三回日曜日の集会に来ました。 彼のペンテコスト派の兄弟達は、この若者が教会に来るのを止めさせようとしました。 彼らは、彼に働いてもらいたかったのです。 多くの新福音伝道主義者やペンテコスト派のクリスチャンのように、彼らは彼に嘘をつきました。 彼らは彼にこう言いました“クリスチャンになるのに、教会へ行く必要はない”と。 それは嘘です! それは、今日悪魔が人々に言う最も大きな嘘の一つです。 あなたはそれをサポートする事は出来ません、なぜなら、聖書にはそのようの言葉はないからです。 聖書は“そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである”(使徒行伝第2章47節)と語っています。 それは真実です! クリスチャンになるのに、教会へ行かなくともよい、と言うのは嘘です! この教会では、あなたは繰り返し福音の言葉を聞きます、そしてそのことは、あなたが救われるのに大変役に立つ事なのです。
さて、これらのラテン系の伝道主義者たちは、この若者が教会へくるのを全力を尽くして阻止しました。 彼は運転免許を持たずに、配送のためクルマを運転していました。 彼は日曜日にそうするのを止めて、土曜日にそうしました、なぜなら、教会に行けるからです。 ある土曜日に、警察官は彼を止め無免許の罪で罰則のチケットを彼に切りました。 それらの新伝道主義者の兄弟達は大いに立腹しました! 彼らは彼に怒鳴り散らしました、“あのバプテスト教会にもう行くな。 もしいつものように日曜日に運転をしていたら、チケットはもらわずに済んだんだ!”
ケイガン先生がそのことを聞いた時、その若者は“日曜日には警察官は止めてチケットを切らないのですか?”と質問しました。 もちろん彼らはそうします。 しかし、これらの救われていない伝道主義者達は、このように論理的には考えません。 彼らは自分達の思いつく馬鹿げた口論を使って、この若者が教会に行き救われ、真のクリスチャンになることを止めさせようとしているのです。
ですから、ここに戻ってくることが、最初にすることです。
次に、私が説教するキリストの福音を注意深く聞くことです。 あなたの永遠の魂は、福音を聞きそれに従うことにかかっています。 あなたの人生がこれにかかっているように、福音の説教を聞くことです―なぜなら、それは、まさにそのことにかかっているからです!
そして、三番目に、イエス・キリストに来ることです。 彼は死んでいません。 彼はよみがえています。 彼は天国で神の右座で生きています。 そうして、あなたは神の御子イエスに来る事が出来、彼はあなたを救い、あなたを赦し、あなたを回心するでしょう。 あなた自身を、信仰で持って、イエスに投げ出しなさい!
“そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである” (コロサイ人への手紙第1章20節)。
(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
住所:www.realconversion.com (Sermon Manuscripts) をクリックしてください。
クレイトン L. チャン医師による説教前の祈り。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Saved by the Blood of the Crucified One” (by S. J. Henderson, 1902).
要 綱 キリストの血による平和 R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著 “そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである”(コロサイ人への手紙第1章20節)。 (エゼキエル書第7章25節)
I. 最初に、よこしまな者には平安がない。
II. 次に、キリストに信頼を置く人々に平安がある。
III. 最後に、キリストを通して神との平安がある。 |