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近代に於ける福音伝道主義の誤り
(福音伝道主義的説教シリーズ、その2)
R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

ERRORS OF MODERN EVANGELISM
(SERMON #2 ON EVANGELISTIC PREACHING)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2008年5月17日、土曜日の晩の説教

A sermon preached at the Baptist Tabernacle of Los Angeles
Saturday Evening, May 17, 2008

“あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”(ヨハネによる福音書第5章39-40節)。

ヨハネによる福音書のこれらの節は、近代に於ける福音主義の誤りを完璧に表していると、私は思います。 これらが二つの最も一般的な近代に於ける誤りです。

1. 永遠の命は、聖書が述べている事を信じる事によって得られる。
2. 永遠の命は、聖書が述べている事を信じる事、並びに、
    それに服従する決心をする事によって得られる。

これらは一般的に、二つの通称で呼ばれています、

1. 容易な信仰主義。
2. ロードシップ・サルベイション
    (イエスを主とすることによって得る救い)

両方の誤りが今日一般的に教えられています。 しかし、それらはヨハネによる福音書第5章39-40節によって訂正されます。 この説教では、私はそれらの三つの点を示します。 (1)永遠の命は、聖書を信じる事によって得られるのでははない、そして、それは聖書が述べている事を信じる事、並びに、それに服従する決心をする事によって得られるのではない。 (2)生まれながらのひとは、キリストのもとに来ようとしない。 (3)キリストのもとに来る全ての者は命を得る。

“あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”
      (ヨハネによる福音書第5章39-40節)。

I. 最初に、永遠の命は、聖書を信じる事によって、あるいは聖書を信じ、
そして、それに献身する事によって得られるのではない。

イエスが話された人々が、聖書を信じていた事は明白です。実際、永遠の命に於ける彼らの望みは、彼らの聖書への信仰に基づいていたのです。

“あなたがたは、聖書の中に命があると思って調べている”
      (ヨハネによる福音書5章39節)。

これは、彼らの“信仰”は悪霊に勝るものではない事を示しています。 悪霊どもでさえ神を信じています。

“あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。 悪霊[悪魔]どもでさえ、信じておののいている”
      (ヤコブの手紙第2章19節)。

しかし、悪魔どもはそれだけではなく、彼らはイエスが神の子である事も信じています。

" また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です。」と言った”
       (マルコによる福音書第3章11節)。"

悪魔どもは彼を、

“いと高き神の子イエスよ”(ルカによる福音書第8章28節)。

とも呼んでいます。

そして、悪魔どもは地獄を信じ、またキリストが彼らを地獄へ落とす権威を持っている事も信じていました。

“すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」”(マタイによる福音書第8章29節)。

{これらの思考はウェイン・ジャクソン(Wayne Jackson)の“The Demon’s Creed (悪魔の信念)” Pulpit Helps, April 2008, pp. 16-17の説教からの見解によるものである}。

ですから、悪魔どもは神を信じ、イエスが神の子、更に“いと高き神の子”である事、そして彼らは地獄という所があり、イエスが彼らをそこへ落とす権威を持っている事も信じている、ことは明白です。

ですから、人がイエスに関するそれら全ての聖書の教えを信じる事は出来ても、悪魔のように失われている事も明白です!

“あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”
      (ヨハネによる福音書第5章39-40節)。

それでは、今日しばしば教えられている、もう一つの選択はどうでしょうか? もう一つの選択とは、聖書が述べている事を信じ、そして、それに服従する決心をする事です。 しかし、それは正にイエスが私達のテキストで述べていた人達、偽善者達(パリサイ人達)が行っていた事ではないでしょうか? それらの偽善者達は聖書を信じていただけでなく、できる限りを尽くして聖書に従いました!

“パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します”
      (ルカによる福音書第18章11節)。

ですから、当然、私達はローマ人への手紙第10章9-14節に於いての近代の誤った解釈、すなわち救いは祈りのことばによって得られる、ということについて正さなければなりません。 ジョン・ギル博士(Dr. John Gill)は次のように正しく言っています、

弟子達はここで[ローマ人への手紙第10章10節]信仰と告白についての本質と習慣を説明している、真の信仰は福音への赤裸々な知的精神の同意にあるのではなく・・・知能にあるのではないのと同様に、舌にあるのでもない、しかし、心にあるのである。 信じられるべきことは、世間共通の知識でもなく、ひとが信じていることを言うのでもない。 それは、最善をもって心を尽くし信じる、心の働きなのである・・・それは魂を出でてキリストに向かい・・・思い切って彼の存在に赴き、彼の足もとにひれ伏し・・・彼に寄り頼むことなのである(John Gill, D.D., And Exposition of the Old and New Testaments, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume 8, p. 521) 。

そのように、永遠の命は聖書を信じることによって、もしくは信じ、そして決心をする、もしくは祈りの言葉を口することによって、得られるのではないと言うことがわかります! これらの全ては人間の考えそして行いなのです。 それらの一つも、もしくはそれらのどの組み合わせによっても、誰も救う事が出来ません。

“あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”
      (ヨハネによる福音書第5章39-40節)。

II. 次に、生まれながらの人は、キリストのもとに来ようとしない。

このテキストは、人々は死んでいることを暗示しています。

“しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”(ヨハネによる福音書第5章39-40節)。

これは彼らに命がないことを示しています。 キリストは彼らがご自身に来ることを駆り立ててはいません。 キリストは彼らがご自身に来るようには告げてもいません。 まったくそうではありません。 キリストは彼らの状態を表しているのです。 キリストは“あなたがたは・・・・わたしのもとにこようともしない”と言っています。 それが生まれながらの人間の状態なのです。 生まれながらの人は“私は彼のもとに来ない”という状態なのです。 そして、正にキリストは正当に彼らを表しており、全ての人々はこのような生まれつきの状態にあるなのです。 このように“しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”。 それが、人間の状態なのです。 それは、暗示により、人は死んでおり、彼は命を持たないことを表しています。 そのような死んだ状態で、人はイエスに来ようとせず、それゆえに、命のない状態を保持しているのです。

あなたの死んだ状態を三つの点に上げることが出来ます。 最初にあなたは合法的に死んでいます。 先週、私は新聞で一人の人が処刑された事を読みました。 彼は処刑の何ヶ月前に合法的に死にました。 裁判官は死刑を宣告しました。 その後、弁護士達がそれを廃止するよう努めました。 彼らは出来ませんでした。 そして、ついに彼は処刑されました。 しかし、彼はそれ以前に、裁判官が最初に彼の死刑を宣告した時に、彼は合法的に死んだのです。  彼は独房に閉じ込められ、合法的に死にました。 それがあなたの状態です。 あなたは最後の審判で裁かれるのではありません。 そうではなく、聖書はこのようにあなたについて語っています、

“すでにさばかれている”(ヨハネによる福音書第3章18節)。

あなたはすでに裁かれているのです。 あなたが罪を犯したその瞬間に、あなたの名前はブラックリストに載せられました。 あなたはその瞬間、神により死を宣告されているのです。 “すでにさばかれている”、あなたはその刑が最終的に容赦なく施行され、確固として、不動なく、必ず行われるその時まで、生き延びています。 なぜならあなたは“すでにさばかれているからです” あなたは合法的には死んでいます。 そしてその合法的に死んだ状態で、

“しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”(ヨハネによる福音書第5章40節)。

そしてまたあなたは霊的にも死んでいます。 あなたの最初の両親が食べてはならない木の実を食べ、そして害なる死があなたに遺伝として下されたのです。

“このようなわけで・・・罪がこの世にはいり”
      (ローマ人への手紙第5章12節)。

スポルジョン(Spurgeon)はこのように述べています、

それで現在、全ての人々は霊的なことに関して“罪の中に死に”・・・またその魂が墓に収容されている体以上にも命があるわけではない。“破滅”と言う適した言葉があなたの心について書かれており、死があなたの命に印されているように、あなたは完璧ではない。 道義をわきまえた人よ、神のみ前にあなたの道義でもって立てると思ってもみるな、なぜならあなたは何物でもなく合法的に象徴された着飾った死体であるからだ・・・神の御霊があなたの心に働きかけるまでは、神のみ前には、あなたは冷たい腐った屍と同じ不快なものである。 あなたはテーブルの上に横たわった死体と一緒に生きることを願わないであろう、また、神もご自身の御前にあなたがそうであるのを好まないのである(C. H. Spurgeon, “Free Will – A Slave,” The New Park Street Pulpit, Pilgrim Publications, 1981 reprint, volume I, pp. 396-397) 。

あなたが合法的に死んでいると同様、あなたは霊的にも死んでいるのです。

“しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”(ヨハネによる福音書第5章40節)。

霊的な死と合法的な死が、聖書が語っている“第二の死”に導きます。

“しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行なう者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。 これが第二の死である”(ヨハネの黙示録第21章8節)。

“第二の死”と“火の池”は同じものです。

“それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。 この火の池が第二の死である”(ヨハネの黙示録第20章14節)。

“第二の死”は、あなたが死を途絶えさせると言うことではなく、それはあなたは地獄で完全に意識があると言う事です。

最後の審判であなたは神の御前に来ます。 神はご自身の書物を開き、あなたの名前を呼ばれます。 神はあなたの罪を一つずつ読まれます。 しかし、神が読まれる最も大いなる罪はこれです。

“しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”(ヨハネによる福音書第5章40節)。

説教者が“イエスに来ませんか?”とたずねた時、あなたは“いいえ”と言いました。 最後の審判で、これらの言葉があなたの心に浮かび、つきまとうでしょう。 “いいえ、私はイエスには来ません”。 何千年もの間、永遠なる時が経過する時、尽きることのない罰へのあなたの魂の判決がこれらの言葉によって運命付けられるでしょう、

“しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”(ヨハネによる福音書第5章40節)。

一度、今の命が終わってしまえば、二度目のチャンスはありません。 ほかに救いはありません

“あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”
      (ヨハネによる福音書第5章39-40節)。

III. 最後に、キリストのもとに来るものは命を得る。

イエスはこのように言われました、

“しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”(ヨハネによる福音書第5章40節)。

父なる神を通して、罪人は命を得ることは出来ません。  聖霊を通して、罪人は、命を得ることは出来ません。 命は神の子イエスのみを通してあるのです。 イエスはこう言われました、

“わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない”
      (ヨハネによる福音書第6章35節)。

“そしてわたしに来る者を決して拒みはしない”
      (ヨハネによる福音書第6章37節)。

キリストの中には合法的な命があります。 アダムに於いてあなたは合法的に罪をおかしました。 彼の罪はあなたの中に残っています。 しかし、あなたは自分自身の罪ももっています、罪をおかす度にあなたの記録に残るのです。 しかし、あなたがキリストに来る瞬間に、あなたの全ての合法的な負債は支払われ、あなたの全ての合法的な罪はキャンセルされるのです、なぜなら、カルバリーの十字架で、あなたの罪のために、キリストがあなたの身代わりとして死なれたからです。 あなたの全ての罪はゆるされるのです。

“また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである”(マルコによる福音書第10章45節)。

十字架で、あなたに代わりキリストによって、全ての罪の宣告は破棄されるのです。

“こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない”(ローマ人への手紙第8章1節)。

彼はあなたの罪の為に鞭うたれたのです。 イザヤはこう言いました、

“その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ”
      (イザヤ書第53章5節)。

彼はあなたの罪の為の罰を支払うために、十字架に磔にされました。

“彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ”(イザヤ書第53章5節)。

“こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない”(ローマ人への手紙第8章1節)。

あなたがキリストの中にある時、あなたは合法的な命をもつのです。

また、あなたは霊的な命もキリストの中にもつのです。 あなたは罪の中に霊的に死んでいても、神はキリストの中にいるあなたのために霊的な命をもっています。 あなたは死んだ罪人で霊的に死んでいるが、キリスト・イエスの中に命があります。

あなたは長い長い間、福音の説教を聞いているかもしれません。 しかし、効果はありませんでした。 あなたは、屍のように死んでいました、そして、全ての説教は聞き流されただけでした。 しかし、突然、キリストがご自身の指であなたの耳を開けられたように、福音の言葉があなたの心に入って来るのです。 神の手はあなたの心に触れ、命は流れ込んで来ます。 そして、あなたの高慢さを砕き、罪に気づかせ、悲しみと自覚でもってあなたの心を溶かすし、あなたの目をイエスに向けさせ、単純なる信仰でもってあなたをイエスに来させるのです。 今夜ここにいる多くの私達は、神の恵みが私達を死から目覚めさせ、私達が最終的に救い主へ来た時に経験した、自覚、流した涙、魂の葛藤思い出します。 私達が死からのそのよみがえりを経験した時、それは正に神の恵みであったことを知りました。 それは、キリストを通して私達を霊的な死から導かれた、神の恵みそのものだったのです。 キリストはラザロに、“出てきなさい”と呼ばれました、

“死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。 イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」”(ヨハネによる福音書第11章44節)。

そして、正にそのように、イエスがあなたを身もとに呼ばれる時、彼の超自然の力によって、ちょうどラザロが墓から彼のもとに来たように 、あなたも彼のもとに来るでしょう。

最後に、キリストの内に永遠の命があります。 地獄での永遠の死は、私達が描くことのできないほどの恐ろしさです。 しかし、あなたがキリストの内にいる時、その恐ろしい場所の火炎を見たり、そこに入るチャンスはないでしょう。 なぜなら、

“彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである”
      (ヘブル人への手紙第7章25節)。

イエスは彼の内にいる人を、罪から遠く離れさせ、そしてはるか彼方へと、その人を救われるのです。 イエスに於いて、あなたは永遠に救われ、あなたは永遠の命をもつのです。 永久に救われ、あるいは現代語で表現するならば、“彼は・・・彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである”(ヘブル人への手紙第7章25節)。

イエスは、返礼目当てで彼の内にある人々に命を与えません。 人種的にあまり敏感でなかった時代に、その人を“インディアン・ギヴァー”と呼びました。 それは、何かをあなたに与えて、後でそれを取り戻す人を意味します。 アメリカ・インディアンがそのようなことをしたのを、私は一度も見たことがありませんが、古くからの言い伝えです。 イエスはそのような方ではないことを、確証を持ってあなたに言えます。 イエスがあなたの罪を放免し、あなたに霊的な命を与えられた時、彼はそれを取り戻すようなことはしません―決して、彼の内にある人々に与えた命を取り戻すことはしないのです。 なぜなら、彼はこのように言われました、

“わたしは彼らに永遠の命を与える。 だから、彼らはいつまでも滅びることがない”(ヨハネによる福音書第10章28節)。

キリストの内にある人には、地獄は待ち構えてはいないのです。 なぜなら、イエスはこう言われました、

“わたしは彼らに永遠の命を与える。 だから、彼らはいつまでも滅びることがない”(ヨハネによる福音書第10章28節)。

あなたがイエスのもとに来る時、あなたの魂は再び彼から離れることがないのを、あなたは知るでしょう。 それは、キリストにある神によって保たれるからです。

“神の御力に守られている”(ペテロの第一の手紙第1章5節)。

これらの全ての偉大な恩恵はイエスの内のみに見つけられるのです、他にはありません。 罪の償いはイエスに於いて弁償されたのです。 霊的な命はイエスに於いて復活するのです。 全ての罪はイエスに於いてゆるされ、放免されるのです。 イエスの内にある者にとって、地獄はもはや脅威、恐れではないのです。 しかし、強情な心、害、死んだ魂はあなたをイエスから遠ざけます。 この考えはあなたの心の中で起こるべきです、すなわち“私は生まれつき罪深く、イエスに来ることができません。 そのために、私は地獄へ落ちなければなりません。 私の心は虚偽的で、全く醜く、私はイエスに来ることが出来ません。 私はそのために地獄へ落ちなければなりません。”  そして、もしその考えがあなたの心を打ち砕き、あなたを罪に悟らせなければ、他にどのような方法があるのでしょうか。 神があなたをへりくだらせ、罪を自覚させ、あなたをイエスに導かれるように。 主の名において、アーメン。

(説教終了)
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要 綱

近代に於ける福音伝道主義の誤り
(福音伝道主義的説教シリーズ、その2)
R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

“あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない”(ヨハネによる福音書第5章39-40節)。

I.   最初に、永遠の命は、聖書を信じる事によって、あるいは聖書を信じ、
そして それに献身する事によって得られるのではない。
ヨハネによる福音書第5章39節;ヤコブの手紙第2章19節;
マルコによる福音書第3章11節;ルカによる福音書第8章28節;
マタイによる福音書第8章29節;ルカによる福音書第18章11節。
マルコによる福音書第3章11節;ルカによる福音書第8章28節;
マタイによる福音書第8章29節;ルカによる福音書第18章11節。

II.  次に、生まれながらの人は、キリストのもとに来ようとしない。
ヨハネによる福音書第5章40節;ヨハネによる福音書第3章18節;
ローマ人への手紙第5章12節;ヨハネの黙示録第21章8節;
第20章14節。

III. 最後に、キリストのもとに来るものは命を得る。
ヨハネによる福音書第5章40節;第6章35, 37節;
マルコによる福音書第10章45節;ローマ人への手紙第8章1節;
イザヤ書第53章5節;ヨハネによる福音書第11章44節;
ヘブル人への手紙第7章25節;ヨハネによる福音書第10章28節;
ペテロの第一の手紙第1章5節。