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背教の時代における説教!
R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

PREACHING IN A TIME OF APOSTASY!
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて  
2007年9月23日、主の日の晩の説教

A sermon preached on Lord’s Day Evening, September 23, 2007
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“わたしはあなたの額を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした。 ゆえに彼らを恐れてはならない。 彼らの顔をはばかってはならない。 彼らは反逆の家である。 また彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉をあなたの心におさめ、あなたの耳に聞きなさい。 そして捕囚の人々、あなたの民の人々の所へ行って、彼らが聞いても、彼らが拒んでも、『主なる神はこう言われる』と彼らに言いなさい」”(エゼキエル書第3章9-11節)。

エゼキエル書の第3章に関して、スポルジョン(Spurgeon)はこのように言いました、

確かに、人々が彼らの説教者は[礼儀正しく、そして穏やかな口調で]あるように義務付けられている、と考えるのは、今の時代の忌まわしい誤りである。 もし、その目的が罪人に到来する怒りから逃れるように警告する事であるならば、なぜ[これが真実]であろうか? 私は、[奉仕において]兄弟達、あなた方が自らの真の任務を忘れ、主があなた方を派遣し警告すべき、その者達をくらますような働きをしていることを恐れる。 もし、人が寝ており、私は彼を起こさなければならないとしたら、私は歌を歌って彼を眠りから起こすような、すばらしいテナーの声を洗練する必要はない;しかし、彼が飛び上がって起きるまで、私は十分な声量と明瞭さで呼ばなければならない。(C. H. Spurgeon, “The Message From the Lord’s Mouth,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1972 reprint, vol. XXIV, p. 482).

多くの教会が、集会の4分の3ほどを音楽に費やしているような今の時代に、私達が再び、“私は歌を歌って[失われた者]を眠りから起こすような、すばらしいテナーの声を洗練する必要はない”と言ったスポルジョンに耳を傾けますように! 穏やかな話し方で“解説的な説教”をするこの時代に、“・・・その目的が罪人に到来する怒りから逃れるように警告する事である”と言った、“説教者のプリンス”に、私達が耳を傾けますように! 上品な“聖書の教義”をするこの時代に、“彼が飛び上がって起きるまで、私は十分な声量と明瞭さで呼ばなければならない”と言った、最も偉大なバプテストの説教者に聞き入り、私達が再び奮起させられますように! アーメン! エゼキエルとスポルジョンの神が、教会で人々を飛び上がらせるような説教者達を使わされますように! 人を眠りから歌って起こす事に努めるような牧師ではなく、“彼が飛び上がって起きるまで、十分な声量と明瞭さで”説教するような牧師をです。 単に大きな声で説教をするのではなく、そうではありません、それ以上の事でなければなりません。 それが益となるようなものとされるには、“驚かすような”説教でなければなりません。 それは、良心を探るようなものでなければなりません、そうでなかったら、それは、失われた罪人を助けられないでしょう。 それがこの背教の時代に必要な事なのです!

それは“古い”説教の仕方であると彼らは言います。 この近代の時代には、“近代”の人に訴えるやり方、すなわち、非常に穏やかに多少の福音の“ほのめかし”を遠回しに言うような話し口調の説教、もしくはたとえ話、が私達には必要であると、彼らは言います。 私は、最近、ジョン・ブローダス(Dr. John A. Broadus)の本、説教の準備そして話し方についてOn the Preparation and Delivery of Sermons )を読んでいます。 その一つの章は、“説教講演への現代的なアプローチ(Contemporary Approaches to Sermon Delivery)”と題されています。 私は、ブローダス博士が、“短い話の説教”、“たとえ話的な説教”、“会談的な説教”、“音声・視覚の補助”、“目標訓練”、“劇的な演出”、“劇そして説教”、“独白劇”、“対話的な技法”、そして“チャンセル(内陣)での話し合い”などを薦めていることを知って驚きました。 ジョン・ブローダス博士(1827-1895)は、彼の時代には“模範なる説教者”と呼ばれました。 私が驚いた事は、彼が、それらの“現代的なアプローチ”を用いる事を、牧師となる生徒達に勧めるという着想です。 私は、その補足説明を見るまで、この章の一つの言葉たりともブローダス博士によって書かれなかった、という事を知りませんでした! それは“改訂”版であり、そして、その章は新伝道主義者によって書かれていたのです! ブローダス博士自身が、教会の説教壇でそのような事をするように説教者達に話す事は決して無かったでしょう!

では、エゼキエル書の第3章の私達のテキストに入ります。 このようなすばらしい節は、私達がどのように説教をすべきかについての観点を与えてくれます。 ここで、私達は時代を超越した三つの真の説教の特徴を見い出します。

I. 最初に、説教者は人々を恐れてはならない。

立って、エゼキエル第3章9節を声を上げて読んで下さい。

“わたしはあなたの額を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした。 ゆえに彼らを恐れてはならない。 彼らの顔をはばかってはならない。 彼らは反逆の家である”(エゼキエル書第3章9節)。

着席してください。

神は、エゼキエルに“わたしはあなたの顔を彼らの顔に向かって堅くし”(エゼキエル第3章9節)と言われました。 誰の顔に向かって堅くされたのでしょうか? “あなたに聞くのを好まない。 彼らはわたしに聞くのを好まないからである”(エゼキエル書第3章7節)という人達に向かって堅くされたのです。 エゼキエルが神の言葉を宣告した時に、多くの人達は彼の言う事を聞かなかったのでしょう。 マチュー・ヘンリー(Matthew Henry)は、“エゼキエルは生来、内気であり、きわめて臆病であった、しかし、神が彼をふさわしいと見なされなかったとしても、神の恵みによって、大いなる困難に直面する為に、神は彼を適するようにされた (Matthew Henry’s Commentary on the Whole Bible, Hendrickson Publishers, 1996, volume 4, p. 601)。

ロイド‐ジョーンズ博士(Dr. Lloyd-Jones)は、 ジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield)の日誌を読んだ人達にこのように書いています、

今来の最も偉大な説教者の一人は、説教について、自分の躊躇を忘れないであろう。 彼は、自分が恐れている事によって不安にさせられた。 説教する事は並外れた事である、それゆえ、彼は、かなりの思考そして精神的な苦しみを貫いて来た。(Martyn Lloyd-Jones, M.D., Knowing the Times, The Banner of Truth Trust, 1989, page 262).

その説教者の内面の恐怖感は、ホイット・フィールドの日誌、そして、ルーク・タイアマン(Luke Tyerman)の二巻の作、ジョージ・ホイットフィールド師の生涯The Life of the Reverend George Whitefield (Need of the Times Reprint, 1995)を読む事によって知る事が出来ます。 若干21歳の青年ホイットフィールドは、“直ぐに私は、自分は羊の衣で覆われた狼達の中に送られた一匹の羊のようなものである事に気が付いた 、なぜなら、彼らは直ぐに私を思い止まらせようと[私が真剣である事を止めさせようと]努めたからだ・・・(vol. I, p. 33) 。 ホイットフィールドが始めて説教をした時、“今までに、25歳に過ぎない英国教会の若い聖職者が、このように振舞った事[自分の改心について伝記風な概略を書く事]は以前には決してなかった”とタイアマンは言っています。 主教そして司祭、執事そして 全ての定義説明書の[著者]は、不快にも驚かされ、多くは獰猛にも憤った” とタイアマンは言っています(ibid., page 45)。

ホイットフィールドは友人に、“明日私は、地下聖堂[St. Mary de Crypt]で説教をする、とは言え、私は、彼らの集会に対し反対する事を話すと断固として決めているので、ある人達を不快にさせるであろう。 私は、彼らに真実を語らなければならない、さもなければ、私はキリストの忠実な奉仕者とはならないであろう”と書いています。 その日が来て、ホイットフィールドは初めての説教をしました。 ホイットフィールドは、“私が[説教]を続けていると、最後まで、私は熱意がかき立たされた事を知った、非常に若くはあるが、私の子供の頃を知っている聴衆のまっただ中で、相当の福音の権利によって、私は話す事が出来た事を確信した。 何人かは[私を]嘲笑した、しかし出席したほとんどの人達は、当惑されたように思えた;そして、以来、私が15人を発狂[狂気]させたと言う苦情が出た事を聞いた” (Tyerman, ibid., p. 50) 。

そのように、神はホイットフィールド の額を“岩よりも堅いダイヤモンドのように”し始め、彼に言われました、

“ゆえに彼らを恐れてはならない。 彼らの顔をはばかってはならない”(エゼキエル書第3章9節)。

タイアマンは、“教養の無い聴衆者のひとりが、‘彼は獅子のように説教した’と言ったのも無理は無い”と言いました (Tyerman, ibid., p. 51) 。

私自身の最初の説教も似たような風に受け取られました。 私はとても若く、私の牧師が教会のかなりの若い者達のグループに向かって話すように、私に依頼してきました。 彼らの多くは世俗的でした。 私は、神に、説教のための聖書のテキストを下さるように祈りました。 そうして神は私にヤコブの手紙第2章20節を下さいました。

“ああ、愚かな人よ。 行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか”(ヤコブの手紙第2章20節)。

それが私の最初の説教の主題でした。 その後、若者達の指導者が私を外に呼び出し、はっきりと私に、二度とそのように説教をしてはならないと言いました。 心の中で私は、神は私を説教をするために使命されたのを知っていましたが、私は非常に屈辱を受け、何年もの間、再び説教をしませんでした。 その後、徐々に私は恐れを克服して行き、伝道的な説教を始めました。

どういうわけか、私は常に、伝道的説教は、律法から始まらなければならない事を知っていました。 それは、伝道的な説教は、罪を咎めそして失われた人に、彼が実に罪深く希望の無いものである事を自覚させなければならない、と言う事です。  ホイットフィールドは、今来の最も偉大な伝道者であることが、広範に渡ってみなされています。

彼ら自身、罪に定められた者である事をまったく感じた事の無い人達が、自分達の実際の罪だけではなく、元来の罪、特に、不信により非難される罪に対し自覚的に苦しまされた事のない者達が、どうして[救われた者]とされる事が出来るであろうか?・・・なぜなら、このような説教は・・・彼らが癒される前に、深く傷つけられ・・・彼らは、悟らされた人達以上に慰められないように慎重である (Tyerman, ibid., p. 393) 。

それは、伝道的な説教において、絶対に必要な事です。 説教者は罪人の良心を深く傷つけなければなりません、そうでなければ、改心はありえません。 なぜかは確かではありませんが、私が説教をするように使命されたその瞬間から、それを確信していました。 人々を傷つけ、彼らの罪、そして彼らの生まれ持った邪悪な心である本性を咎める事なくしては、伝道的に説教をする事は出来ません。 私が若い時、私は、よい説教者であるとしばしば言われました。  バプテストの神学校での私の説教の教授は、私は先が長いけれども、 続けていくには、“そのようなやり方”で説教をする事を止めなければならない、と私に語りました。 それは“不必要に、人々の心をかき乱す”を私は言われました。 もちろん、私の意見は、彼らの心がかき乱される事は絶対に必要であると言う事です! 伝道的な説教の全ての目的は-福音が説かれる前に-人々の心をかき乱す事なのです! もし、人々の心が説教によってかき乱されなければ、彼らは救いのゆえにキリストに逃避する事は無いでしょう!

もちろん、多くの人達がバイブル・スタディーや穏やかな説教の後に、“自分達の手を上げる”ことを私は知っています。 説教者が“罪人の祈り”をするよう問うならば、彼らはそうすることも私は知っています。 しかし、そのような事をするほぼ全ての人達は、依然として改心なしに留まり、地獄に行くことを私はまた知っています。 自分自身の事で心がかき乱されてこない限り、真の改心はありえません。 私は、全ての説教者がイアン・マレー (Iain H. Murray)の本、過去の福音伝道The Old Evangelicalism、新たな目覚めのための過去の真実Old Truths for a New Awakening (The Banner of Truth Trust, 2005)を読まれると良いと思います。 マレーはすばらしい明快さで大いなる真実を取り上げています。 私は、真実の改心に興味を持っている説教者達に、心から彼の本を勧めます。

穏やかな“聖書の教師達”とその点に関して何年もの間の繰り返しの口論の結果、私は、徐々にホイットフィールドの見解は正しく、近代の“説教”は誤っていた、と悟らされました。 しかし、私は、他の説教者が私の説教に関して思う事に気を使う事の無い境地にまで辿り着かなければならなかったのです

私は、神が私に話してもらいたいことを話すことができる前に―彼らの了承を必要としない、その所までもたらされなければならなかったのです。 私は全ての了承を失わなければならなかったのです。 私は、神が私に説教をしてもらいたい、そのやり方で説教をすることが出来る前に、私は、多くの友人、希望、夢、そして私にとって親密な人達までも無くさなければならなかったのです。 ある晩、サンフランシスコで、“今から、あなたは私の為に説教をするように。 今から、人々が聞きたいことではなく、私があなたに言ってもらいたいことを、あなたは説教するであろう”と神が言われる前に、私は、認められていない思い、そして孤独さによる哀れな体験を貫いて来なければならなかったのです。 私達が今晩読んでいる、この正に同じテキストから、神が私に語られたのはこの時期でした、

“ゆえに彼らを恐れてはならない。 彼らの顔をはばかってはならない”(エゼキエル書第3章9節)。

その夜以来、私は、そのように説教して来ました。 神御自身が、私の人への恐れを取ってくださいました。 何度も、その夜以来、説教者達は私に“そのように”説教は出来ないであろうと言いました。何度も、彼らは、私はよい説教者だけれども、“否定的”過ぎると言いました。 しかし、私は、彼らの言う事は決して、再び、聞きませんでした、なぜなら、神が私にこう言われたのを体験したからです、

“ゆえに彼らを恐れてはならない。 彼らの顔をはばかってはならない”(エゼキエル書第3章9節)。

私は、全ての若い説教者がそのような体験を貫く事-彼を人の賞賛から引き離し、彼を神の御手によって使われる器とされる事を望んでいます。 次のよく知られている言葉を述べた、リチャード・バックスター(Richard Baxter)のように語る説教者ほど力強いものはありません

“ 死んでいく者が死んで行く者達へと、決して二度と説く事のないように、私は説教をする”

“彼らは(が)聞いても、拒んでも”
      (エゼキエル書第2章5節;第3章11節)。

ですから、私は、もし若い説教者が伝道者として真に価値のある事をしようとするなら、エゼキエルと似たような体験が全ての若い説教者に来なければならないと信じます。 もし、彼が、この背教の時代に、永続する価値のある事をしようとするなら、彼は、自分が話している人達を恐れてはなりません。

“彼らの顔をはばかってはならない”(エゼキエル書第3章9節)。

それは私にとって、婚約を説教するという犠牲となりました。 しかし、誰がそれらを必要とするのでしょうか? 罪人達を恐れるよりも、婚約を話すことを失う方がまだましなのです。

今現在、神は、私に、美しく、勤勉で、そしてイエスを愛し、私の奉仕の全ての部分で助けてくれる妻、イリアナを下さった事がわかります。 私達には、二人の立派な大学出の息子達がいます。 一人は、公認会計士で、トップクラスの会計事務所で働いており、もう一人は、バプテストの神学学校で学んでいます。 そして、私達には、私の説教を完全に支持してくれる稀な非常に熱心な教会があります。 何人かの自信のない、恐れている説教は何とでもいえるでしょうが! 説教者が、失われた罪人を地獄の炎から救いたいと望むならば、彼は話をしている人達を恐れてはならないと言う事は、重要な事ですけれども、この要点について、私は、時間を費やし過ぎてしまいました。

II. 次に、説教者は、神から受けたものを話さなければならない。

立って 、エゼキエル書の第3章10節と11節の“主なる神はこう言われる”で終わるところまでを、声を上げて読んでください。

“また彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉をあなたの心におさめ、あなたの耳に聞きなさい。 そして捕囚の人々、あなたの民の人々の所へ行って・・・『主なる神はこう言われる』と彼らに言いなさい」”(エゼキエル書第3章10-11節)。

着席して下さい。

説教者自身が神の言葉によって動かされなければなりません。 彼は自分の心に神の言葉を受け入れなければなりません。 彼は自分の説教している真実によって“かきたてられ” なければなりません。 神の御霊が一つ一つのメッセージを下さり、そして彼の心に燃え立たしてくださらなければなりません。 ロイド-ジョーンズ博士は、彼の著書、説教と説教者Preaching and Preachers)の中で、このように言っています、

私が熱意と言う事は、説教者が、自分が言っている事によって彼自身をも捉えられたと言う表現を伝えなければならないと言う事である(Martyn Lloyd-Jones, M.D., Preaching and Preachers, Zondervan Publishing House, 1971, p. 87)。

毎週、説教者の一番の仕事は、日曜日に、神が何を彼に話すように望んでおられるかと言う事を見い出す事であるべきです。 そのテキスト、そして主題が彼自身の心をつかみ、動かさなければなりません、さもなければ、その説教は、日曜日にそれを聞く誰をも動かす事は出来ないでしょう

ある人が、説教を書いてはならないと言いました。 彼らは、もしあなたがそれらを書けば、それらに熱意がこもらないであろうと思っています。 もし、説教者が神からメッセージを受けたならば、彼がそれを書き上げている時に、彼自身にそれを説教する事が出来ます。 これが私のやり方です。 私が、一週間に三つの説教を書く時、私は、書斎で何時間も自分自身に向かって説教をします。 神からのメッセージを受け、自分の書斎でそれを説教し、書き上げ、それのために祈り、そうして、それを日曜日に与えるのです。

自発性は、しばしば怠慢のための弁解です。 ジョナサン・エドワード(Jonathan Edwards)の“怒りの神の手の中の罪人(Sinners in the Hands of an Angry God)” は、アメリカで今までされた最も偉大な説教であると見なされています。 それは、一言一言書き上げられ、そしてエドワードにより彼の会衆に向かって読まれました。 最初の偉大なリバイブルは、手によって書かれた説教にたどる事が出来ます。 神が人を動かす為にそれを用いられた時、最初の偉大なリバイブルが起こりました。

エドワードのように、エゼキエルは、彼の心の内に神の言葉を受け入れ、そして彼自身の耳でそれを聞きました。

“そして捕囚の人々、あなたの民の人々の所へ行って”
      (エゼキエル書第3章11節)。

エゼキエルがバビロン人に捕らえられた時、彼は25歳でした。 神が、彼を説教するように使命されたのは、彼が30歳の時でした。 彼の奉仕は22年間続きました。 彼は、エルサレムからバビロンへと、ネブカナザル王によって捕らえられたエホアキム王を含めた、一万人の指導者の中の一人でした。 彼が説教をしたのは、“これらの捕らえられた”人達でした。

伝道の奉仕は、私達の説教の主たるものでなければなりません。 それは当時そうであったように、今日でも“捕らわれの身から”失われた人達を取り戻す奉仕です。 使徒パウロは、説教者は、

“一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう”
      (テモテへの第二の手紙第2章26節)。

“それは、彼の目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得・・・”
      (使徒行伝第26章18節)。

それが、パウロのような説教者による奉仕です! そして、日曜日に説教壇の背後に立つ全ての説教者は、神の言葉によってこのように命じられています、

“伝道者のわざをなし” (テモテへの第二の手紙第4章5節)。

福音の説教者として、私は神によって使命されました。 私は、あなた方に真実を語る事を恐れてはなりません。 私は、神が御自分の言葉から私に“与えられた”事をあなた方に話さなければなりません。 私は、“捕らわれた身の”サタンによって盲目にされた、真実を受け入れていない、悪魔の支配によって滅びようとしている、あなた方に向かって話さなければなりません。 しかし、真実の説教には他の必要条件があります。

III. 最後に、説教者は“結果”を求めてはならない。

第11節をもう一度見てください。 立って、それを声を上げて読んでください。

“そして捕囚の人々、あなたの民の人々の所へ行って、彼らが聞いても、彼らが拒んでも、『主なる神はこう言われる』と彼らに言いなさい」”(エゼキエル書第3章11節)。

着席してください。

“彼らが聞いても、彼らが拒んでも”―彼らが聞こうが聞くまいが、主なる神が言われたことを彼らに話なさい。

エゼキエルは、大変に逸脱した背教した時代に説教をしました。 今日、私達は、ロイド-ジョーンズ博士が言うように、“18世紀[第一大覚醒の前]に似た、暗黒の状況の中で”説教をします(Martyn Lloyd Jones, M.D., The Puritans and their Successors, The Banner of Truth Trust, 1976 reprint, p. 302) 。 それがため、全ての説教者はエゼキエル書の第2章と第3章を読み思考すべきなのです。 それは、今日、説教壇で他の人達がする間違いからあなた方を引き上げるでしょう。

この背教の時に、真の説教を妨げるものの一つに、“結果”を求めることがあります。 それは“用をなすか?” これは、“実用主義”的な考え方です。 もし、それが“用をたすのであれば”、それは良いのである、と彼らは言います。 しかし、そのような考えが、説教者をコントロールすべきではありません。 彼は、自分の説教を“教会の発展のための技巧”に“合わせて”はいけません。 決してなりません! 彼は、“彼らが聞いても、拒んでも”、彼らが聞こうが聞くまいが、話さなければ成りません。

あなたが聞こうが聞くまいが、私は、神のこれから来ようとする怒りをあなたに警告しなければなりません! あなたが聞こうが聞くまいが、私は、炎の池から逃れることを、あなたに説き勧めなければなりません! あなたが聞こうが聞くまいが、私は、あなたの完全なる堕落のゆえ、あなた自身の堕落さを話さなければ成りません! あなたが聞こうが聞くまいが、私は、神の聖霊は“ながく人の中にとどまらない”(創世記第6章3節)ことを前もって警告しなければなりません! あなたが聞こうが聞くまいが、私は、あなたがクリスチャンになりたい時にクリスチャンにはなれないことを、そして、もし、あなたがぺリクスのように、“よい機会を得たら”その時に私は改心をしよう、と言うならば、ぺリクスに決して来なかったように、その時は決してあなたには来ないことを明らかに言わなければなりません(使徒行伝第24章25節)。 そして、私は最も強い口調で、あなたに言わなければ成りません、すなわち、よみがえられた神の御子の犠牲の御血による救いは、もしあなたが蔑ろにするのであれば、いつもあなたに用意されているわけではないのです。 あなたが聞こうが聞くまいが、私は神に、全ての失われている人々に次のように言うように使命されているのです、

“いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である” (ヘブル人への手紙第6章4-6節)。

あなたが聞こうが聞くまいが、それは、あなたへの私からの警告であり、それは神の警告でもあるのです。 しかし、あなたはこの説教者の拙い口から語られる神の言葉に耳を傾けるであろうことを願っています。 そして、神の御子に向かい、自分自身を投げ出すことを期待します。 それが、人が改心をする仕方です。 立って、讃美歌の第7番を歌って下さい。

貧しく、惨めな、弱く傷ついた、病の中にいる罪びとよ、来なさい;
イエスは力強く同情をよせて、あなたを救うために立っておられます;
彼にはできるのです、彼は救いたいのです;疑うことをやめなさい!
彼にはできるのです、彼は救いたいのです;疑うことをやめなさい!
彼にはできるのです、彼は救いたいのです;疑うことをやめなさい!

見よ!人の姿で来られた神、天に上げられ、御血による効徳;
彼により頼み、完全により頼み、他のものを頼らず;
イエスのみ、イエスのみ、より頼むところのない罪人の助け。
イエスのみ、イエスのみ、より頼むところのない罪人の助け。
   (“Come, Ye Sinners” by Joseph Hart, 1712-1768).

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読: エゼキエル書第3章1-11節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Jesus, I My Cross Have Taken” (by Henry F. Lyte, 1793-1847).

要 綱

背教の時代における説教!

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

“わたしはあなたの額を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした。 ゆえに彼らを恐れてはならない。 彼らの顔をはばかってはならない。 彼らは反逆の家である。 また彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉をあなたの心におさめ、あなたの耳に聞きなさい。 そして捕囚の人々、あなたの民の人々の所へ行って、彼らが聞いても、彼らが拒んでも、『主なる神はこう言われる』と彼らに言いなさい」”(エゼキエル書第3章9-11節)。

I.   最初に、説教者は人々を恐れてはならない。
エゼキエル書第3章9,8,7節;ヤコブの手紙第2章20節;
エペソ人への手紙第1章6節;エゼキエル書第2章5節;
第3章11節。

II.  次に、説教者は神から受けたものを話さなければならない。
エゼキエル書第3章10-11甲節;テモテへの第二の手紙
第2章26節;使徒行伝第26章18節;テモテへの第二の
手紙第4章5節。

III. 最後に、説教者は“結果”を求めてはならない。
エゼキエル書第3章10-11乙節;創世記第6章3節;
使徒行伝第24章25節;へブル人への手紙第6章4-6節。