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最初の創造そして新たな創造 THE FIRST CREATION AND THE NEW CREATION ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて A sermon preached on Lord's Day Evening, July 22, 2007 |
“主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。 そこで人は生きた者となった”(創世記第2章7節)。
人は創造された当時、無抵抗でした。 人は創造されることを選ばなかったし、また、そのためのいかなる決定もしませんでした。 ですから、最初の人は神のみの御業により(monergistically)造られ、その人自身の補助なしに、神のみの御業によって、彼は、造られ、命をもたらされたという事です。
これは、新生の典型または描写であり、それもまた神のみの御業なるものです。 辞書は神のみの御業なるもの(MONERGISTIC)をこのように説明いています。
再生[新生]は聖霊のみの働きによるものであり、人間は・・・補助する事、または、共に働く事は出来ないという教え(Webster’s New Twentieth Century Dictionary Unabridged, Second Edition, Collins+World, 1978, p. 1160).
最初の人の創造は神のみの御業であり;それは、人は神のみの御業によって造られたという事です。 それは典型(タイプ)です。 対型(アンチタイプ)は、彼が生まれ変わった時の、人の新たな創造なのです。 それもまた神のみの御業なのです!
“わたしたちは、神の作品であって、キリスト・イエスにあって造られたのである”(エペソ人への手紙第2章10節)。
“だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた[“創造”スコーフィールド注釈]者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである”(コリント人への第二の手紙第5章17節)。
ライリー博士(Dr. Ryrie)は、その節に関してこのように述べています、
“新しく造られた者”は文字道理“新しい創造物”である。 古いものは過ぎ去った(不定過去形は救いがもたらす確かな変わりを示している);“見よ、すべてが新しくなったのである”(完了形はキリストにある新しい命の不変なる結果を示している) 神の恵みは罪を赦すだけではなく、“新しく造られた者”ともさせる、それは生き方が変わるという結果をもたらす(Charles C. Ryrie, Ph.D., The Ryrie Study Bible, Moody Press, 1978, note on II Corinthians 5:17)。
ですから、新生による“新しく造られた者”は、罪以前の元来の状態へと滅びた者を復帰させる、最初に造られた者の対型(成就)です。 このことは、私達が今日理解している“決断主義”は誤っている事を示しています。 エデンの園で、最初の創造において人がした以上には、人は、改心による新しい創造においてもはや協力しません。 ガイスラー博士(Dr. Geisler)は、これはマーティン・ルーテル(Martin Luther)、ジョン・カルバン(John Calvin)、ジョナサン・エドワード(Jonathan Edwards)、そして全ての改革者達の指示するところであったと指摘しています(Norman Geisler, Ph.D., Systematic Theology, Bethany House, 2004, volume three, p. 192)。 ガイスラー博士自身、その教示には従わなかったけれども、人の協力なしに神の恵みによってのみ(monergistically)、人は生まれ変わると言う事を信じた、ジョン・バニヤン(John Bunyan)、ジョン・ギル(John Gill)、そしてスポルジョン(C. H. Spurgeon)等を加えていたら、と思います。 また、神のみの御業による改心は、ウィリアム・ケリー(William Carey)、アドナイラム・ジャドソン(Adoniram Judson)達のような偉大な先駆的なバプテスト宣教師などによっても保たれていました。 創世記第2章7節の人の創造に関して、ルーテルはこのように述べました、
神そして天に関する全ての事に関しては、人は自由な意志を持つ事はなく、陶工が全てを成す間、何もする事なく、陶工にゆだねられた粘土のようなものである。 我々が、正に、自分達を選んだのではなく、我々は、神によって選ばれ、用意され、再生(新生)されたのである(Martin Luther, Th.D., Luther’s Commentary on Genesis, Zondervan Publishing House, 1958 reprint, volume I, p. 44) 。
これが、偉大な宗教改革指導者によって、明白に述べられた、神のみの御業による、という学説(monergism)です。 そして、彼は正しいのです。
“それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである”
(ヨハネによる福音書第1章13節)。
“主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。 そこで人は生きた者となった”(創世記第2章7節)。
最初の人を造り、そして、新しく造られた者として、罪なるものを再生されるとは何たる神の恵み の描写でしょうか。 最初の人が神の恵みのみによって造られ、命を与えられたように、キリストにある神の恵みのみによって、罪なる人が新生によって再生されるのです。
驚くべき恵みよ! なんと快い響き、
我のような惨めな者を救われた!
我、かっては、失われし、されど、今、見つけられし、
盲目なりし、しかし、今、我は見える。
(“Amazing Grace” by John Newton, 1725-1807).
星を宇宙に置くのは、奇跡を要し、
この世を空間に置くのは、奇跡を要す;
ながらも、神が私の魂を救われ、清め、そして完全にされる時、
それは、愛と恵みによる奇跡を要す!
(“It Took a Miracle” by John W. Peterson, 1948).
“主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。 そこで人は生きた者となった”(創世記第2章7節)。
間違えて取らないで下さい 。 私は、人の創造についての創世記の記録は世俗的な寓話である、とはまったく信じません。 私は、創世記第2章7節は、神が土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた、と言う真実に基づいた、文字道理の記述であると信じます。 それは、最初の人間の創造の事実に基づた、文字道理の記述なのです。
これは世俗的な寓話と聖書による典型(タイプ)の違いを表しています。 世俗的な寓話は道徳的な目的の為に使われる空想上の作り話です―世俗的な寓話であるイソップ物語のような。 しかし、聖書における典型(タイプ)は、新約聖書での実体を前もって例証する、 旧約聖書における文字道理の真実なのです。 創世記の最初の章の至る所に、新約聖書でそれらの成就を見い出す多くの典型(タイプ)があります。 スコーフィールド・スタディー・バイブル(The Scofield Study Bible)は典型(タイプ)について正確な記述を与えています:“典型(タイプ)とは、ある真実について神聖的に企てた例証である・・・。 典型(タイプ)は、(モーセの)五書[旧約聖書の最初の5巻]において、最も頻繁に起こり、他の箇所では、やや控えめに見出せる。 対型(アンチタイプ)または、典型(タイプ)の成就は、通常、新約聖書において見い出せる” (The Scofield Study Bible, 1917 edition, p. 4).
そのように、私達は、最初の人アダムの文字道理の創造についての記述は、人が生まれ変わった時の、新しく創造された者の“神聖的に意図された描写”であると信じます(ヨハネの福音書第3章3, 7節) 。
最初の人は造られました。 彼は進化したのではありません。 それは、典型(タイプ)です。 ですから、その典型(タイプ)の成就において、新たな創造によって人は生まれ変わったのです。 人はクリスチャンには“進化”しません。 人は両親がクリスチャンであるが為に、クリスチャンとなるのではありません。 人は教育や学ぶ事の行程を通して、徐々にクリスチャンになっていくのではありません。 人は、神の直接の働きによって、瞬時にクリスチャンになるのです。
“主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。 そこで人は生きた者となった”(創世記第2章7節)。
モリス博士(Dr. Henry M. Morris)はこのように述べています、
神は、人の身体を造る為に“土のちり”を使われた。それは、この地を構成する最も小さな粒子(近代のテクノロジーで、基礎となる化学的要素:窒素、酸素、カルシウム等)は、人間の体の根本的な物質的な要素でもある、といった思考に導く注目すべき表現である。
神は“命の息をその鼻に吹きいれられた”・・・人の身体は完全に造られていた、すなわち、鼻、肺そして全部の呼吸器官、また、骨や臓器そして他の付属した物で整えられていた、しかし命はなかった。 呼吸の機械的作用は活動化されなければならないし、心臓は血を押し出し、循環させなければならない、そして、全ての新陳代謝の機能は作動し始めなければならない。
しかし、命は命からのみ生じる事が出来る、そして生きる神は、唯一の自己現存の方であるから、それ[命]は最終的には神から出て来なければならない。 特に、人間の命の、神の命への独特な関係を強調する為に、この聖句[創世記第2章7節]が、神御自身が直接、人に命そして息を与えられると言う事を告げています。
“命の息”・・・“息”とは、ヘブライ語の“霊(ruach))”と同語で、それは、神が直接(距離を置かずに、神が話しかけることによって)“息”を“吹きいれ”た。
この時点で、活動化するために神の直接の活気づけが必要とされ・・・人は“生きた者”となった (Henry M. Morris, Ph.D., The Genesis Record, Baker Book House, 1986 edition, pp. 85-86)。
“主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。 そこで人は生きた者となった”(創世記第2章7節)。
それは、典型(タイプ)から生じる、人の創造に関する文字道理の記述です。 その対型(アンチタイプ)は、新しく造られた者です(エペソ人への手紙第2章10節;コリント人への第二の手紙第5章17節)。 モリス博士はこのように述べました、
命は、命からのみ生じる事が出来る、そして生きる神は、唯一の自己現存なる方で、それゆえ、それ[命]は、最終的に彼・・・神その方から直接生じなければならない(同書)
何と、 創世記第2章7節は新生を描写している事でしょうか!
“罪過によって死んでいたわたしたちを、[神は]キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―・・・あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。 それはあなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。 それは、だれも誇ることがないためなのである。 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。 神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである”(エペソ人への手紙第2章5, 8-10節)
“罪過によって死んでいたわたしたちを”神は“キリストと共に生かし(あなたがたの救われたのは、恵みによるのである。)・・・キリスト・イエスにあって造られたのである!
“主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。 そこで人は生きた者となった”(創世記第2章7節)。
マチュー・ヘンリー(Matthew Henry)はこのように述べています、
私達の主イエスが盲人の目を土で塗られた時、おそらく彼は、それが最初に人を土で造られたのは彼であったと知らせようとされたのであろう;そして、彼が御自分の弟子達に息を吹きかけられ、聖霊を受けよ、と言われた時、初めに人の鼻に息を吹き入れられたのは、彼であったと言う事を、知らせようとされたのであろう。魂を造られた方のみが、それを新たにする事が出来るのである (Matthew Henry’s Commentary on the Whole Bible, Hendrickson Publishers, 1996 reprint, volume I, p. 12; note on Genesis 2:7)。
魂を造られた方のみが、それを新しくされたのである! イエスがこう言われたのは、そのような意味だったのです、
“肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない”(ヨハネによる福音書第3章6-7節)。
それが再生です。それが新生です。人が生まれかわらない限り、誰も神の国を見ることは出来ないし、入る事もできません。 スポルジョン(Spurgeon)は、このように述べています、
“生まれわらなければならない ” [その]新生とは、想像可能な、最も徹底した全体的な変わりである。 それは、実際、変わる事以上のものであり、それは創造である・・・“あなたは清められければならない、改良されなければならない、昇進されなければならない”というのではなく、“生まれ変わらなければならない”のである・・・。 “新しい命を受けなければならない、そして、その代わりとしての現在の生き方の改善は十分ではない (C. H. Spurgeon, “Every Man’s Necessity,” The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publications, 1972 reprint, volume XXV, p. 50).。
ある人はこう言うかも知れません、“どのように生まれ変わるのですか?” 私達はこう答えます、それはキリストにおける神のみの働きです。 “しかし”、あなたは言うでしょう、“何かすることがあるのですか? 何を私はするのですか? 私達はこう答えます、あなたが習うこと、もしくはすることは何ら手助けにはなりません。 あなたは失望し、自分自身を助けることはできない、と感じなければなりません。 あなたの、自分でしようとする思いが無くなった時、神の御力があなたに働きます。 そうして、あなたは、ただ単にキリストに来ることでしょう。 そうして、あなたは自分自身により頼むことをやめ、代わりに、イエスに来ることでしょう。 そうして、彼の十字架での身代わりの死は、神聖なる神を満足させるでしょう。 そうして、彼の御血はあなたの罪を清めます。 そうして、彼の死からのよみがえりは、あなたに命を与えます。 そうして、あなたは生まれ変わるのです。 マチュー・ヘンリー(Matthew Henry)が、”魂を造られた方のみが、それを新たにする事が出来るのである“と言ったように、すべては、キリストにおける神の御力と恵みによってなされるのです。
驚くべき恵みよ! なんと快い響き、
我のような惨めな者を救われた!
我、かっては、失われし、されど、今、見つけられし、
盲目なりし、しかし、今、我は見える。
(“Amazing Grace” by John Newton, 1725-1807).
星を宇宙に置くのは、奇跡を要し、
この世を空間に置くのは、奇跡を要す;
ながらも、神が私の魂を救われ、清め、そして完全にされる時、
それは、愛と恵みによる奇跡を要す!
(“It Took a Miracle” by John W. Peterson, 1948).
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医師による説教前の聖書の朗読:
ヨハネによる福音書第3章1-7節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“It Took a Miracle” (by John W. Peterson, 1948).