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新たな年への期待-そして警告! R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著 A NEW YEAR’S PROMISE – AND WARNING! ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて A sermon preached on Lord’s Day Morning, December 31, 2006 “もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。 もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。”(テモテへの第二の手紙第2章12節) |
スポルジョンがロンドンで牧師としての初期の頃に、彼は毎年一枚の紙切れの入った封筒を受け取りました。 その紙には、彼の年明けの説教のテキストとして用いられる聖書の一句が書かれていました。 これらのテキストは、若く、立派に成功したバプテストの説教者スポルジョンの為に、英国教会の高齢の牧師によって選択されたものでした。 この高齢のアングリカン派の牧師は、小さな村の教会で奉仕していましたが、スポルジョンは彼を非常に尊敬しており、何年も続けて、この偉大な説教者は宗派の異なったこの高齢の信心深い人によって、年明けの説教として彼のために祈りを込めて選ばれたその一句を説教しました。 彼はその牧師の名前を公然にはしませんでしたが、スポルジョンは常にその高齢のアングリカン派の聖職者が、スポルジョンの年明けの説教に用いようとするその一句を選択した事を話しました。
1864年、1月3日に、スポルジョンはこの高齢の聖職者によって彼に与えられた一句を再び説教しています。 1864年の年明けに贈られた節は、
“もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。 もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。”
(テモテへの第二の手紙第2章12節)
私は、簡潔に編集したスポルジョンの説教を話します。 私は、幾分近代の時代に、信仰のゆえに耐えているクリスチャン達のいくつかの例を取り上げて最初のポイントについて詳細に話します。 次の二番目のポイントでは、スポルジョンの説教である、“耐え忍びそしてキリストと共に支配する”Suffering and Reigning with Jesus(C. H. Spurgeon, The Metropolitan Tabernacle Pulpit Pilgrim Publications, 1991 reprint, vol. X, pp.1-12)の中で、彼自身が上げているキリストを否定した二つの恐ろしい例を付け加えます。
“もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。 もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。”
(テモテへの第二の手紙第2章12節)
そのテキストは明白に:キリストと共に耐え忍ぶ事の報酬-キリストを否む事で課せられる報い、との二つに分けられます。
Ⅰ. 最初に、キリストと共に耐え忍ぶ事の報酬。
耐え忍ぶ事は全ての人に共通した実情です。 そういう実情から逃れる事は不可能です。 私達が生まれて来る時、私達は苦しみながら世に来、そして、私達が死ぬ時、苦しみながら私達はこの世を去っていきます。 ヨブはそれをこのように語っています。
“女から生れる人は日が短く、悩みに満ちている。” (ヨブ記第14章1節)
誰も人生の中での苦痛や苦難を避ける事は出来ません。 更に、ヨブ記にはこうも書かれています。
“人が生れて悩みを受けるのは、火の子が上に飛ぶにひとしい。”
(ヨブ記第5章7節)
耐え忍ぶ事(苦しみ)は、罪により堕落した世の全ての人々の常なる運命であるからには、あなた方がそれを経験したからと言って、報酬を受けるであろうとは限りません。 あなた方は、この世での非常な悲しみを耐え抜くかもしれません、しかしそれは後に来る神の怒りからあなた方を救いません。 あなた方は、大いなる苦しみを耐えているかもしれません、しかし、なおかつ失われているのです。 なぜなら、
“だれでも新しく生なければ、神の国を見ることはできない。”
(ヨハネによる福音書第3章3節)
ですから、この世でのどんな苦しみも、改心していない人を天へと入らせる事は出来ません。
耐え忍ぶ事はクリスチャンだけが経験している事ではありません。 また、耐え忍んだからと言って、それが報酬をもたらすとも限りません。 そのテキストは、キリストと支配するには彼と共に耐え忍ばなければならないと、まさに明示しているのです。
キリストと共に支配する結果を生ずるような苦しみは、主イエス・キリストと共に耐え忍ばなければなりません。
もし、あなたがキリストの“内に”いないのであれば、あなたはキリストと共に耐え忍んでいる、と思ってはいけません。 もし、あなたがキリストに来ていなければ、この世でのあなたの苦しみは、あなたが後に黄泉で経験しようとする永遠の苦しみの前兆にしかすぎません。 改心によって人が救い主の“内に”いる時のみに、その人は自分の苦しみをキリストと共に分かち合っている、と主張する事が出来ます。 あなたはキリストへの生きた信仰によってキリストの内にいますか? あなたはキリストのみを信頼していますか? もし、そうでなかったならば、この世での、いかなる災難や哀れみを耐え抜いたとしても、あなたは神の国でイエスと共に支配する望みはありません。
更に、もし災難が罪の結果として私達に生じたのであれば、私達はキリストと共に耐え忍んでいる、と思ってはいけません。 ミリアムがモーセについて悪事を語り、らい病が彼女の身体を毒した時、彼女は神の為に耐え忍んだのではありません。 ウジヤが不法にも神の宮に入ってきた時、そして彼が死ぬまでらい病で苦しんだ時、彼は公正にも苦しんだ、とは言えませんでした。 もしあなたが故意に自分の手を火の中に入れれば、火傷をします。 手を焼くのは火の自然現象だからです。 あなたは火傷の犠牲者である、と愚かにも誇ってはなりません。 もしあなたが悪事を行いそれによって苦しめば、何の報いがあるでしょうか? あなたの誠実や正直さが、クリスチャンだからといって、私達が苦しんでいるなどと主張することを止めるべきで、実際に、罪の結果として私達は苦しんでいるのにすぎないのです。
私達はキリストの御霊を保つべきであり、そうでなかったならば、私達の苦しみは受け入れられません。 私達はキリストを模範とし、そしてキリストのゆえなる非難を耐え忍ばなければなりません。 その時のみに、私達は真にキリストと共に耐え忍んでいるのです。
では、今日、イエスと共に耐え忍んでいるすばらしいクリスチャン達の幾つかの例を考慮してみましょう。 キリストを愛するが為、そして彼に従順する為に、金銭的に耐えている人達がいます。 私は、何日か前にも私達の執事の一人を指摘し、もし彼が日曜日に働くならば、今の収入の3倍または4倍の収入を容易に稼ぐ事が出来る、という事実を伝えました。 私達の教会におられる女医さんにしても同じです。 彼らがキリストを非常に愛しているが為に、主の礼拝の日には彼らは働かないので、毎年、何千ドルもの損失に彼らは耐え忍んでいます。 私達は、仕事を失ったクリスチャンの人達をも知っています。 それは単に彼らが忠実なクリスチャンであるが為に、彼らの雇い主は彼らに対し偏見を持っていたからです。 キリストへの信仰を軽蔑する学校の教師により、高校や大学などで成績を低くされた学生達も知っています。 それが私達のテキストにあるように耐え忍ぶという事なのです。
“もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう・・・”
(テモテへの第二の手紙第2章12節)
しかしながらより多くの場合、この耐え忍ぶということは、軽蔑、嘲笑、そして非難のマトにされるのです。 彼らが神の御子の信者であるが為に、職場などで冷笑され、彼らは間抜けで、惑わされた愚か者である、などと影口をされる事もあります。 また学校の友人が彼らを避けたり、影で彼らのことを軽蔑的に忍び笑いをしたり、彼らがイエス・キリストの主張を曲げない為、彼らは“奇妙である”などと言ったりする時に、若く忠実なクリスチャンにとって、耐え忍ぶことは特に精神的に痛ましい苦痛です。 彼らの家でも、真のクリスチャン達は、仏教やクリスチャンではない他の宗教を持つ両親の、彼らに対する卑劣な発言も避ける事は出来ません。 彼らが救い主を愛するが為に、彼ら自身の兄弟や姉妹なども彼らの事を愚か者などと呼ぶでしょう。 これもまた、私達のテキストで示しているような苦しみです。
“もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。”
(テモテへの第二の手紙第2章12節)
イエスや彼に従う者達に対しての偏見や嫌悪で満ちているこのような時代には、救い主の言葉を思い出す事が賢明です。
“そして家の者が、その人の敵となるであろう。 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。 わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。”
(マタイによる福音書第10章36-38節)
なぜ、不信者はクリスチャンをそれほど嫌うのでしょうか? イエスはこのように答えています。
“もしあなたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。 しかし、あなたがたはこの世のものではない。 かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。 だから、この世はあなたがたを憎むのである。”
(ヨハネによる福音書第15章19節)
今日のような“決断主義”の誤った邪悪な時代は、いろいろな面でキリスト教徒の“暗黒時代”と似通っており、そして、多くの忠実な牧師達は、聖書に対して、そしてキリストが救う為に成された事の、明白な信仰告白がない人達には、バプテスマ(洗礼)を授ける事を拒ぶという、バプテストの伝統に忠実であるが為に、激しい攻撃に耐えなければらなかったのです。 これもまた、私達のテキストで示しているような苦しみです。
“もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。”
(テモテへの第二の手紙第2章12節)
私は、購読している月刊誌、殉教者の声The Voice of the Martyrs を読むと、私達のテキストを思わされずにはいられません。 2006年12月の版には、イランの説教者がテヘランで福音を説教したが為に、牢に入れられた事が記されていました。(同著、p. 3)
また、名ばかりのクリスチャンの男性と結婚したパキスタンに住む女性についても書いてありました。 彼は後に、イスラム教に改宗しました。 なぜならイスラム教は二人の妻を持つ事を許可したからです。 彼のクリスチャンである最初の妻がイスラム教に改宗する事を拒んだ時に、このイスラムの男性は棒で彼女を打ち「寝台の柱の下で彼女の手を強打した」。 そして、彼女が教会に出席するのを望んだ時、彼は彼女を殴り部屋に閉じ込めました。 その部屋で彼女はこう祈りました、“イエス様、あなたは私達の為に非常な苦痛を耐えられました。 私の苦痛などとは比べものになりません。 私に勇気をお与え下さい。 私は決してあなたを離れません。” (同著、p. 4)
その同じ月刊誌の中で、鉈(なた)で顔から首まで打撲を与えられたインドネシアに住む15歳のクリスチャンの少女の事が書かれてありました。 彼女は一生涯顔の外観を損なってしまったのです。 なぜなら、彼女がキリストを信じたからです。(同著、p. 6)
インドネシアの子供達は、クリスチャンの学生達がイスラム教の過激派のターゲットである事は知っていいます。 しかし、彼らは恐れの為に隠れる事もしません。 彼らは、刑務所の中であっても、外であっても、キリストを証言します。(同著、p. 7)
インドに住む牧師は、彼が復活祭の日曜日にキリストの復活について説教をしている時に、好戦的なヒンズー教徒が彼を攻撃し、死ぬ思いを経験しました。 その月刊誌の中の写真では、彼のずたずたに切られ包帯に巻かれた体が描かれていました。(同著、p. 8)
中国では、殉教者の声 The Voice of the Martyrs の月刊誌で、数えるのも不明なぐらい、幾度も福音を説教したが為に監禁されたリュウ兄弟の事を書いています。 彼はこう言っています、“主の道に従うのは、苦難な道程であると主は言われた。 主に従う為には、人は自分の十字架を負わなければならない、という道程である。” 一回のむち打ちを受けた時、彼の耳は電動のバトンで叩かれ、その負傷は6ヶ月もの間、彼に痛みと苦しみをもたらしました。 彼は更にこう言いました、“私はこれらの事を多く経験した。 しかし・・・私が学んだ最も尊い事は、主は我々以上に苦しまれたという事である。 私の家族は自分達の苦しみの中で、倒れる事はなかった。 むしろ我々は主に従う事に大胆になった。 現在、私の子供達は最後まで主に仕える奉仕者となった.。”(同著、p. 11)
ベトナムからは、その月刊誌は三人のクリスチャン、二人の男性と一人の女性の写真を載せており、ホア地方のタンで伝道したが為に、彼らの顔が文字どうり、どろどろにつぶされるほど彼らは打たれました。 四月には、ベトナムでのクリスチャン達に対する残酷な活動がますます増加し始めました。 これらの三人のクリスチャン達が2006年に共産主義者達によってむち打たれたのは二度目でした。 しかし、彼らを止めるものは何もありません!(同著、p. 13) 悲しい事に、今日アメリカにおいても、キリストの為に証をする人達は、時折り迫害に会います。
コロンビアでは、月刊誌、殉教の声 The Voice of The Martyrsは、15歳の少女の事を報告しています。 彼女の父親はその少女に、箴言31章に出てくる女性のようになるよう語りました。 その後で、彼は仕事に出かけて行きました。 彼は教会の素人牧師だったので、共産主義のゲリラ兵達は、彼の信仰のゆえに、車で彼を橋まで連れて行き、彼を殺しました。 その後まもなく、共産主義者達はその少女の村に戻ってきました。 2005年の9月14日までにそこにあった教会はすべて閉ざされてしまいました。 15人のクリスチャン達は家に隠れ、聖書を読み、共に祈りました。 その中にこの15歳になる少女ジャクリーンもいました。 彼女は、“もし、困難な状況に会ったら、それがどんな理由であろうとも、前向きに進み、決して神を妥協してはならない”と言っています。(同著、p. 14) 世界中の多くのクリスチャンの苦難についての報告は、インターネットのwww.persecution.com で読む事が出来ます。 私は、この説教を読んでいる人達がこのウェブサイトの資料を2、3週間おきぐらいに読む事を望みます。
このような人達が私達のテキストに描かれている人達です。
“もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。”
(テモテへの第二の手紙第2章12節)
Ⅱ. 次に、イエスを否む事、そしてそれに対する報い。
起立して声をあげテモテへの第二の手紙第2章12節を読みましょう。
“もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。 もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。”
(テモテへの第二の手紙第2章12節)
着席してください。
“もし”という言葉は、恐ろしく、且つ、あなた方の何人かには応用できるであろう“もし”なのです。 “まさか、わたしではないでしょう”とユダが最後の晩餐で、キリストを裏切ろうとする彼が、まさにそのような質問をしたように、今朝ここに座っているある人たちは思うかもしれません。 そして、もしあなたがペテロのように、“たとい、みんなのものがつまずいても、わたしはつまずきません。”と言っても、あなた自身がたぶんにつまずくでしょう。
ある人達はキリストをにがにがしく拒絶します。 不信者は彼を公であざけります。 他の人達は、誤った教会や宗派に属して、キリストを拒絶します。 そこでは、キリストを神の人として、キリストの完全なる神聖を拒否します。 また、他のある人達は、キリストは霊であると言い、栄光の内に身体ごとよみがえったこと、神の右座に上げられたことを拒否します。
さらに、他の人達は沈黙を保ってキリストを拒絶します。 彼らは、不信者と一緒にいるとき、その親戚や友人はそうすることを嫌うので、食事の前に祈りを捧げることを恐れます。 もっとひどい例になると、正式にキリストへの信仰を告白した人達が、その信仰を捨ててしまうのです。
あなた方の中で、この例えにあう人がいるのではありませんか? もし、それがあなたのことを描写しているのであれば、私に怒らないで、主の言葉を聞きなさい。 このことを知りなさい―(すなわち)たとえ、キリストを拒絶していたにせよ、もし、あなたが救い主に来、こころと精神を込めて、本当に改心するのであれば、あなたは朽ちないでしょう。 しかし、もし今のままでキリストを拒絶し続けるのであれば、次の恐ろしい一節があなたを悩ますでしょう。
“彼もわたしたちを否むであろう。” (テモテへの第二の手紙第2章12節)
スポルジョンは、フランシス・スピラの死を話しました。 著名な改革者として知られたスピラは、真実を知っていました。 しかし、カトリック教会により死に直面した彼は、信仰を撤回しました。 彼は、恐れからプロテスタントの信仰を諦めたのです。 ときを待たずに、彼は絶望にさいなまされ、この地上にあって精神的にもまた霊的にも地獄を味わったのです。 彼の悲鳴は、記録に残すべきでないほど凄まじかったのです! 彼の悲運は、その時代への警告でした。
スポルジョンの先任者で、彼の教会の牧師であったベンジャミン・キーチは、清教徒的信仰を明確に語っていたが、カトリックの迫害中、自分の信仰を拒絶しました。 彼の死に際の状態は恐ろしいものでした。 彼は神を捜し求めたが、主は彼に背を向けた、と彼は言いました。 彼は抗しがたい絶望に負けたのです。 時に、彼は呪いました。 また、ある時には彼は祈りました。 しかし、彼は望みを持たずに死んだのです。 もし私達はキリストを拒絶するならば、私達は自分自身そのような恐ろしい運命に負かされるでしょう。
キリストを失うよりは、他のいかなるものでも失いましょう。 魂を失うよりは、他のいかなるものでも失いましょう。 私が先ほど話をしたイランやパキスタンやインドネシア、中国、ベトナム、そしてコロンビアにいる若者達のようになろうではありませんか。 迫害に耐えることによって、次の使徒パウロの言葉を言えるようになろうではありませんか。
“しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。 キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。 それは、わたしがキリストを得るためであり”(ピリピ人への手紙第3章7‐8節) それを私達のモットーにしましょう! それを私達の目標にしましょう! それを来年の、私達が全力を尽くしてやるものにしましょう!
“もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。 もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。”
(テモテへの第二の手紙第2章12節)
いつかあなた方のある人達は、偉大な純白の御座の前に立ちます。 キリストはあなたにこう言われるでしょう、“わたしはあなたを知らない。” あなたは、今の改心しないままでいるように、友達にそそのかされています。 あなたは、あなたに掛かる代償を恐れ、キリストを拒絶しています。 もしくは、あなたが受けるであろう迫害を恐れ、キリストを拒絶しています。 その日には、あなたはキリストに、天国に入れてくれるよう懇願するでしょう。 しかし、主はあなたにこのように言われるでしょう。
“あなたがたを全く知らない。 不法を働く者どもよ、行ってしまえ。”
(マタイによる福音書第7章23節)
“そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう。”(マタイによる福音書第25章46節)
もし、火と硫黄との恐ろしい黄泉の牢を避けたいと希望するのでしたら、私はあなたに懇願します、イエスに向かってこう泣き叫びなさい。 “主よ、わたしを救ってください。 主よ、わたしを素早く抱きしめ、御許にいさせてください。 御許にいさせてください。 御許にいさせてください! 汝と共に迫害を耐えられるように助けてください。 しかし、汝を拒絶することがないように。 そして、最後の審判のときには、わたしを拒絶することがないように。” 今朝、その叫びが、イエスに対するあなたのこころからのものであるようにしなさい。 彼に来なさい、そして、十字架の上で、あなたをあなたの罪から清めるために流された、彼の尊い御血でもって洗い清めてもらいなさい。 今年最後の日である今朝、あなたがイエスに来ますことを願って。 そして、改心をし、彼に救われ、彼の救済の恵みの中に永久の安全を得られ、手新しい年を迎えられるように! アーメン
“もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。 もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。”(テモテへの第二の手紙第2章12節)
(説教終了)
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クレイトン L. チャン医士による説教前の聖書の朗読:
テモテへの第二の手紙第2章1-13節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith) による説教前の独唱:
“Jesus, I My Cross Have Taken” (by Henry M. Lyte, 1793-1847)
要 綱 新たな年への期待-そして警告! R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著 |
“もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。 もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。”(テモテへの第二の手紙第2章12節)
I. 最初に、キリストと共に耐え忍ぶ事の報酬。テモテへの第二の手紙第2章12節
甲;
II. 次に、イエスを否む事、そしてそれに対する報い。テモテへの第二の手紙第2章12節乙; |