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カルヴァン主義は危険であろうか? R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著 IS CALVINISM DANGEROUS? |
ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて A sermon preached on Saturday Evening, July 22, 2006 “すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。 神はなんでもできるからである」。”(マルコによる福音書第10章26‐27節) |
インターネットで私の説教を読んだある人達は、私はカルヴァン主義者であると言っています。 彼らは、説教の中で私が過去のカルヴァン主義者達、たとえば18世紀の偉大な聖書注釈者であるジョン・ギル博士(Dr. John Gill)、『天路歴程』( Pilgrim’s Progress)の著者であるジョン・バニヤン(John Bunyan)、そして、特に“説教者のプリンス”と呼ばれるスポルジョン(C.H. Spurgeon)をしばしば引用していることを知っています。 これらの三人はすべてバプテストでした。 そして、三人とも神学上の立場は、完全なカルヴァン主義的なものでした。
私の説教を読んだ人達は、私はこれらの三人を大いに尊敬していることに気づきます。 彼らはまた、私が高い尊敬の念を、英語圏でもっとも偉大な福音伝道者である、ジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield)に抱いていることにも気づきます。 ホイットフィールドは、ファイブ・ポイント・カルヴァン主義者でした。 また、私はよく草分け的な宣教師である、ウイリアム・ケアリー(William Carey)、アドニラム・ジャドソン(Adoniram Judson)、そして、ディビッド・リビングストン(David Livingstone)を引き合いにだしますが、彼らもファイブ・ポイント・カルヴァン主義者でした。
しかし、私はこれらの先駆者達、ならびに清教徒(彼らもまたカルヴァン主義者でした)をたいへん深く賞賛していますが、自分自身私はファイブ・ポイント・カルヴァン主義者であるとは思っていません。 私は、カルヴァン主義の最初と最後の教旨(ポイント)でカルヴァン主義を支持しますが、第二、第三、第四の教旨を全面的には支持しません。 しかるに、私は“穏健カルヴァン主義者”とときには呼ばれています。
この立場をふまえ、私はカルヴァン主義の五つの教旨(ファイブ・ポイント)を上げ、どうして私は完全にはそれらの三つの教旨を支持しないかを簡単に述べてみたいと思います。 英語の頭文字をとって、カルヴァン主義の五つの教旨をTULIPとしましょう。 私の説明は、すべての人達に満足されるものではないと理解しています。 事実、だれも好まないかもしれません! それはどうであれ、カルヴァン主義の基本的な中核を擁護する前に、TULIPについて自分の見解を述べるべきである、と私は思います。
1. 全堕落(Total depravity) この教旨は、完全に聖書に忠実であると私は思います。 これは、改心していない人々は、“自分の罪過と罪とによって死んでいた”(エペソ人への手紙第2章1節)と教え、改心していない者は、“罪過によって死んでいた”(エペソ人への手紙第2章5節)のであり、そして彼らは、“彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ”(エペソ人への手紙第4章18節)ていると教えています。 これらの聖書の言葉は、多くのものと同様、人は完全に堕落しており、罪に死んでいるがために、その堕落した状態では、神に応対することができない、ことを語っています。 十二使徒がイエスに、“それでは、だれが救われることができるのだろう”と尋ねたとき、イエスは、“人にはできないが”(マルコによる福音書第10章27節)と答えられました。 しかるに、私はこの教旨-全堕落、に関して、完全にカルヴァン主義に同意します。 私は、聖書の中で述べられるこの教旨は、真実の、人の状態である、と信じます。
2. 絶対的選び(Unconditional election) このカルヴァン主義の教旨を、私は信じません。 選びは、誰が改心するかの神の予知によるものである、と私は確信します。 良かれ悪しかれ、罪人は“父なる神の予知されたところによって選ばれ”(ペテロへの第一の手紙第1章2節)ると私は信じます。 私は、誰が福音に応じ、キリストに来て救われのかを神は前もって知っており、その者達を神は事前に選ばれる(救いに選ばれる)、と信じます。 第二の教旨に関する私の見解は、厳格なカルヴァン主義者にとっては、私は“アルミニウス主義者(Arminian)”のように映るかもしれません。 しかし、私はアルミニウス主義者の堕落に関する見解に同意はしません。 人は病気ではありません。 人は死んでいるのです。 人は、不相応の神の恩恵から離れて、救いの望みを持ち合わせている、と私は思いません。 “わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、・・・わたしたちは救われたのである。”(テトスへの手紙第3章5節) ですから、私は絶対的選びの教旨を支持はしませんが、また、人はキリストへの従順のいかんによって選ばれる、というアルミニウス主義者の見解にも同意はしません。 それは、“神人協力説(synergism)”の誤りであるのでしょう。 神のみが改心における能動的な代行者であり、人は受動的であり、神のみにより人は改心される、とう事実は、神唯一説(monergism)と知られています。 人は、わずかかもしれないが、何かを提供できる、という学説は、神人協力説と呼ばれています。 福音に応答する、という意味は、神の恩恵に反対することを止めるという意味です。 人は止めることはできますが、堕落した状態では、福音に応じることはできません。 人は“自分の罪過と罪とによって死んでいた”(エペソ人への手紙第2章1節)者であるのに、どうして、キリストに従うことができるのでしょうか? あるいは、自分の救いに何かを施すことができるのでしょうか?
3. 限定的贖い(Limited atonement) カルヴァン主義全体にあって、これはもっとも軟弱な教旨であると私は思います。 聖書は明白にこう語っています。 “彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。 ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。”(ヨハネの第一の手紙第2章2節) “神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。 それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”(ヨハネによる福音書第3章16節) カルヴァン主義者は、これらの節そして同様な節に対して、答えを持ち合わせていることを私は知っていますが、彼らの答えに納得したことはありません。 カルヴァン主義的清教徒で説教者であり作者である、ジョン・グッドウィン(John Goodwin, 1593-1665)は、限定的贖いに反対する本、贖いによる救い Redemption Redeemed: A Puritan Defence of Unlimited Atonement (Wipf and Stock Publishers, 2004 reprint)を書いています。 彼の限定的贖いに反対する姿勢は、十分に読むに値するものです。 私は、“神の恵みによって、すべての人のために死を[味わわれる]”(ヘブル人への手紙第2章9節)キリストを信じます。
4. 絶対的な恵み(Irresistible grace) ルターは、意志の束縛を強く信じていました。 事実、彼は、彼のもっとも重要な著書、意志の束縛( The Bondage of the Will)を残しています。 彼は、その人自身の不改心でいようとする意志の中では、決定する力、受ける力、そして救いの恵みに応じる力をもつ人は誰もいない、と言っています。 しかし、ルターはまた、人はそれを拒否する力を持ち合わせている、と信じていました。 これは、ルターとカルヴァン主義の主要な異なる点です。 ルターは正しかったと思います。 この点では、カルヴァン主義は誤りです。 どうか私はルターが言ったすべてのことを支持すると勘違いをしないでください。 私はもちろん支持をしません! しかし、これに関して彼は正しかったと思います。 なぜある人は恵みを得、他の人は得ないのか、という質問に対して、ルターは単純に、それはミステリーであり、聖書では明らかにされていない、と述べています。 私は、聖書はなぜこのことがあるのかを明らかにしていない、という彼の見解に同意しようと思います。 それゆえ、私は絶対的な恵みを信じません。 恵みは拒否されることができますが、生まれ変わっていない人々の意志によって、受けられたり、受諾されたりはできません。 なぜなら、救いは神の働きだけによるからです。 “それでは、だれが救われることができるのだろう”(マルコによる福音書第10章26節)。 “人にはできないが、神にはできる。 神はなんでもできるからである”(マルコによる福音書第10章27節)。 人は救いを拒否することができますが、神のみが救いを与えることができるのです。 ルターは、“不信心者は神の意志を拒否する”と言いました。 聖書は、“あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている”(使徒行伝第7章51節)と語っています。 それゆえ、恵みは絶対的なものではないのです。
5. 神の選民の堅忍(Perseverance of the saints) これはカルヴァン主義の最後の教旨です。 私は、心からこれを信じます。 というのは、これは明らかに聖書に忠実であるからです。 “御子を信じる者は永遠の命をもつ[現在形]”(ヨハネによる福音書第3章36節)。 イエスはこう言われました、“わたしの羊はわたしの声に聞き従う。 わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。 わたしは、彼らに永遠の命を与える。 だから、彼らはいつまでも滅びることがない”(ヨハネによる福音書第10章27‐28節)。 人が一旦永遠の命をもてば、その人からそれを取ることはできないし、あるいは、その人がそれを失うこともない。 人が一旦本当に改心したのであれば、その人は、“不改心”でいることができない。 よって、私は真に改心した者の、カルヴァン主義的“永遠の確保”の教旨を全面的に信じます。
これが、“ミスター清教徒”と呼ばれたリチャード・バクスター(Richard Baxter, 1615-1691)が使った、“純粋キリスト教(mere Christianity)”が意味しているところなのだと思います。 “この見解は、彼を・・・カルヴァン主義とアルミニウス主義との仲介の地位に置くものである。”(Elgin S. Moyer, Ph.D., Who Was Who in Church History, Moody Press, 1974, p. 33) “バクスターが望んだものは、英語圏の宗教生活の中の極端主義者の間の仲介となることであった。”(J. D. Douglas and Philip W. Comfort, Who’s Who in Christian History, Tyndale House Publishers, 1992, p. 69) 私は、カルヴァン主義の五つの教旨で、第二、第三、そして第四の教旨に関して、ルター、清教徒のジョン・グッドウィン、そしてリチャード・バクスターのそれぞれの見解にある同意をみました。
これで、私はアルミニウス主義者ということになるのでしょうか? 現代の意味合いでは違います。 現代のアルミニウス主義者は、全堕落、人からの何らの手助けがいらない恵みだけによる救い、に重きを置きません。 そして、アルミニウス主義者は、ふつうには真に改心した者の永遠の確保についての聖書の教えを拒否します。
ある人は、実際には私は“穏健カルヴァン主義者”であると言っています。もちろん、私は超カルヴァン主義者ではありません。 というのは、すべての人達への、率直な、救いの説教を信じるからです。 ですから、よい言い方を望めば、私は“穏健カルヴァン主義者”なのでしょうか。 というのは、“それでは、だれが救われることができるのだろう”という問いに対してのイエスの答えに、私は完全に同意するからです。 イエスは正しかったのです。 彼はこう言ったのです。 “人にはできないが、神にはできる。 神はなんでもできるからである”(マルコによる福音書第10章26‐27節)。
言いましたように、私は、“穏健カルヴァン主義者”という自分の立場は、すべての人を満足させないかもしれない、ということは理解しています。 あるいは、だれも好まないかもしれません! しかし、それが聖書が教えていることだと思います。 私は、聖書はこの“穏健カルヴァン主義”の見解をすえた、基本的な真実を私達に与えていると強く信じます。 さて、私は、次の三点について、(1)今日のカルヴァン主義の誘因、(2)カルヴァン主義の中核的な真実、そして(3)これらの聖書の真実を適応する必要性、について話してみたいと思います。
Ⅰ 最初に、今日のカルヴァン主義の誘因。
今日のバプテストの動きの中に、カルヴァン主義が再起してきていることは疑う余地がありません。 リバティー神学学校(Liberty Theological Seminary)の学長である、イーガン・カナー博士(Dr. Ergun Caner)は、このように言っています。
最近のあるバプテスト誌で、“カルヴァン主義の教えをめぐるもう一つの分裂”というのを読んだ。 バプテスト誌の報道部は、この増えている問題について調査をし始めた。 南部バプテスト協議会(the Southern Baptist Convention)の会長選に立候補している候補者達は、“カルヴァン主義は脅威に映るか?”との鋭い質問を受けた。 先月布教部長に会ったとき、私は職務から家に帰る途中であった。 私達が話をしているとき、彼は、“改革された[カルヴァン主義的]動きは、止まないであろう。 彼らは徐々に主要な教会を奪取しようとしている”と私にささやいた。( National Liberty Journal, June/July 2006, p. 1)
なぜ、カルヴァン主義的動きが、多くのバプテストの間で一般化してきているのでしょうか? 私は、二つの理由があると信じています。
まず最初に、私達のほとんどの教会は、教義的に方向性がなくなってきています。 多くのバプテストは、救いについて自分達は何を信じているのか知らないのです。 そして私達は、チャールズ・フィニー(Charles G. Finney)によって生み出された“決断主義者的”教義が私達の間から消え去ろうという時代に生きています。 私達は、招きをし、人々は前方に出て洗礼を施され、私達は彼らを二度と見ないのです。 牧師は、この教義そして方法によって惑わされ、もっと堅実なものを求めているのです。 ですから、彼らの多くは、その解答を得るために完全なカルヴァン主義に向かっているのです。 その一方、フィニーの古い“決断主義者的”システムは私達の国、そして世界中を通して消えうせようとしています。
二番目に、多くの思慮深い牧師達は、スポルジョンの時代まで遡ると、事実上すべてのバプテストはカルヴァン主義者であったことを悟り始めました。 キリスト教徒の歴史や教義の中に、これらを研究した人から、その事実を隠すことはできないのです。 思慮深い篤学的な牧師がバプテストの歴史書を読み、古い書物に書かれたバプテストの教義を読むならば、“彼らは皆カルヴァン主義者であった!”と悟らざるを得ないでしょう。 思慮深い人達からその事実を隠すことはもはやできないのです。
ある晩のこと、私はあるバプテストの学校の教義信条を読みました。 以下がその教義信条で、“新生の恵み”についての箇所で、その学校のカタログに載っているものです。
“我々は、救われるために、罪人は新しく生まれ変わらなければならない;新生とは、イエス・キリストにあって新たに創造されたものであり;それは瞬時に起こるのであり、漸次に起こるのではない;新生により、罪過と罪の中に死んでいた者は、神性をあずかる者とされ、神からの惜しみない賜物である永遠の命を授かり;新生は、我々の理解を超越した行いによってもたらされるものであり、文化によるものではなく、徳性によるのでもなく、人の意志によってでもなく、完全にそして唯一、神の忠誠に関与している聖霊の力によるものであり、福音に対しての我々の自発的な従順を確保するためである;それにふさわしい証拠は、悔い改め、信仰、そして新しい生き方などの成果が現れる、ということを我々は信じる。”
その教義信条は、完全なカルヴァン主義です。 そして、そのような教義信条は、ほとんどの私達のバプテストの学校のカタログに載っています。
思慮深い学生が、それらのカルヴァン主義的教義信条をカタログでまず読み、これらの教義信条をカタログに載せているその学校の教室で、教授からまったく反対のことを聞かされ、はたして学校側は、彼らから尊敬の念を期待できるのでしょうか?
ですから、カルヴァン主義が私達のバプテスト運動の中で広がっている最初の理由は、私達の説教者達が教義の基準をさがしており、これはフィニーの“決断主義”を拒絶し始め、昔のほとんどすべてのバプテストがカルヴァン主義者であったことを発見し始め、これらのカルヴァン主義的教義の多くは、過去の昔から、私達の大学や神学学校のカタログの中に載っている教義信条に引き継がれていることに気づくのです! 私は、それらの考えはカルヴァン主義の誘因と今日のその復活を説明するのに役立つと思います。
Ⅱ 次に、カルヴァン主義の中核的な真実。
カルヴァン主義の復活の主要な理由は、その主な強調箇所が聖書に忠実である、ということです。 私達は、第二、第三、そして第四のカルヴァン主義の教旨に完全には同意しませんが、人は実際に失われており、神の恵みの仲介なしでは、その人自身を救うにはどうすることもできない、というような真実を避けることはできません。 ですから、ジョン・ニュートン(John Newton)の“驚くべき神の恵み(Amazing Grace)”は、バプテスト関係者の間では、すべての賛美歌の中で今でも最も人気があるのだと思います。 だれがその賛美歌の一番に不同意するでしょうか?
驚くべき恵み! その響きはなんと優しいことか
それは私のような惨めな者をお救いになる!
私はかって失われていたけれども、今は見つけられた、
盲目であったけれども、今は私は見える。
(”Amazing Grace,” by John Newton, 1725-1807)
そして今でも、その一番目の歌詞は、人は惨めで、完全に堕落した状態にあり、その人は神によって“見いだされ”るべきであり、そして、その人の霊的に“盲目”の状態は、神の恵みによってのみ変えられることができる、というカルヴァン主義の本質を述べています。 神の恵みは“驚くべき”ことです。 なぜなら、それは不相応であり、他のものと値しないからです。 彼らの教義が、あのバプテストのカタログに書かれてあるように。
新生により、罪過と罪の中に死んでいた者は、神性をあずかる者とされ、神からの惜しみない賜物である永遠の命を授かり;新生は、我々の理解を超越した行いによってもたらされるものであり、文化によるものではなく、徳性によるのでもなく、人の意志によってでもなく、完全にそして唯一、神の忠誠に・・・。
そこに私が聖書に忠実であると信じる、カルヴァン主義の中核をなす教義があります。 人は“罪過と罪に死んでいる”。 人はそこで“神性をあずかるものとされ、神からの惜しみない賜物である永遠の命を授かる”。 その“新しい創造[新生]は、我々の[理解]を超越した行いによってもたらされるものであり、人の意志によってでもなく、完全にそして唯一、聖霊の力によるものである”。 聖霊が死んだ罪人に“福音への従順”を与えられる。
これは神の恵みによる救いであり、人の“決心”による救いではありません。 罪人は生まれ変わり、
“血すじによらず[‘文化によらず、その特性によらず’]、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず[人の意志にもよらず]、ただ神によって生まれたのである。”(ヨハネによる福音書第1章13節)
キリストにある神は、“信仰の導き手であり、またその完成者である”(へブル人への手紙第12章2節)。 預言者ヨナが言い表したように、“救いは主にある”(ヨナ書第2章9節)のです。
神学上、これは“神唯一説(monergism)”と呼ばれます。 その意味は、神が唯一の救いへの信仰の導き手であり、完成者であるということです。 それは、救いは、
“神の賜物である。 決して行いによるのではない。 それは、だれも誇ることがないためである。”(エペソ人への手紙第2章8‐9節)
チャールズ・フィニーは、人は外面的な“決断”、たとえば、前に出ていったり、手を上げたり、あるいは“罪人の祈り”をしたりすることによって、救いに何らかの提供ができる(神人協力説”synergism”)、という教えを始めたとき、恵みによる救いからその本来の意味を取り除いてしまったのです。 しかるに、賛美歌“驚くべき神の恵み”の第一番は、フィニーの教義によると、もはや意味をなさないのです。 その二番目は、フィニーの間違った教えのために、その意味をなさないのです。
私に恐れを教えた恵み
恐れから私を解放した恵み
その恵みはなんと尊いものなのか
私が最初に信じたとき!
神の恵みだけが罪の裁きの恐れを醸し出します。 神の恵みだけが、罪人が救いにあずかれる唯一のイエス・キリストに来たとき、それらの恐れから解放させてくれます。 それが、すべての昔からのバプテストの中核をなす教えです。 私達は、救いに何ら提供するものを持たないのです。 救いはキリストにある神の恵み、それだけなのです。
聖霊の最初の働きは、失われた人にその罪を悟らせることなのです。
“それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開く[悟らせる]であろう。・・・罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。”(ヨハネによる福音書第16章8‐9節)
改心をしていない人が、自分の罪深い失われた状態を悟らされたときのみ、その人の思いと心の中で、聖霊はキリストをほめたたえるのです。
“御霊[聖霊]はわたしに栄光を得させるであろう。 わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。”(ヨハネによる福音書第16章14節)
Ⅲ 最後に、これらの聖書の真実を適応する必要性。
カルヴァン主義の中核となる真実は、人は罪過に死んでおり(エペソ人への手紙第2章1,5節)、そしてキリストにある神によってのみ生かされることができる、ということです。 ラザロのよみがえりは、キリストのみを通した、恵みのみによる救いの完全なる描写です。 ラザロは死んでいました。 彼は本当に死んでいたのです。 彼の妹はこのように言っています。
“主よ、もう臭くなっております。 四日もたっていますから。”(ヨハネによる福音書第11章39節)
このように、失われた罪人は描かれています。 彼は、死んでいただけではなく、死んでいるがために、神の目には臭く映るのです。 彼の失われた思いは、
“・・・神に敵するからである。 すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。”(ローマ人への手紙第8章7節)
しかし、イエスはラザロの墓に来られて、
“こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。 すると、死人は・・・出てきた。 イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」”(ヨハネによる福音書第11章43‐44節)
これは、神唯一説-キリストだけを通して、恵みだけによる救い、の完璧な描写です。 これが、カルヴァン主義の中核をなす教義で、聖書に忠実なカルヴァン主義の教えの一部分で、すべての昔のバプテストが信じていたことなのです。 そして、それは今日の教会で再び説教をされなければならないのです。
カルヴァン主義は危険であろうか? その教えの重要でない部分が、絶対的な教義として強調される場合のみ、そして、あたかもこれらの“恵みによる教え”が彼らを救うことができるように、すべての五つの教旨が、人の頭の中に詰め込まれた場合のみに危険となるでしょう。 しかし、カルヴァン主義の“恵みによる教え”は、決して誰をも救うことはないと言いましょう。 学説として教えられたこの教義は、すべて教会の分裂を生じさせるでしょう。
この説教のはじめの方で、私は、カルヴァン主義はバプテストの間での、“増えている問題”であるといったイーガン・カナー博士の言葉を引用しました。 彼は正しいと思います。 それはバプテストや他の伝道主義の人達が、無意味な話をこじつけ、堅実な教会を育て上げる、と考えるような、他の“一時的な流行”を起こします。 カリスマ的な強調は起こって消えます。 “成果にかられた”動きは現れましたが、今ではすみやかに“古臭い”ものになりました。 それ以前は、“バスと日曜学校”でした。 その前は、大きな“伝道集会”のクルセードでした。 私達は一つの一時的な流行から次の流行へと疾走して行き―そのうちにどこかで私達は堅実な教会を作り上げる方法を見出すであろうと。さて、私達はファイブ・ポイント・カルヴァン主義を試みています。 しかし、私はそれはもう一つの一時的な流行であろうと予想します。 本当の改心以外には、堅実なクリスチャンを教会に加えることはできないでしょう! 私達の説教のパターンを、聖書の勉強スタイルから、古くから行われていた、雷が轟くような、律法と福音の説教へ変えない限り、多くの改心したクリスチャンを持たないでしょう。―そして、説教者自身が、洗礼を施す前に、その人が実際に改心したかの場を数回もうけなければだめです。 それから、それからのみ、私達が持っているジレンマに対する答えを見出すでしょう。
カルヴァン主義的流行は、本当の改心を教会に加えません。 それはただ、カルヴァン主義的教義に強い不改心の人達を教会に加えるだけです。 マーチン・ロイド・ジョーンズ博士(Dr. Martyn Lloyd-Jones)は、彼の清教徒に関する著書、The Puritans: Their Origins and Successors (Banner of Truth Trust, 1996 reprint, pp. 170-190)の中に、読み応えのある章を書いています。 その章は“サンデマニアニズム”と呼ばれています。 ロバート・サンデマン(Robert Sandeman)は、ファイブ・ポイント・カルヴァン主義者でした。 彼は、恵みの教えを精神的に信じことが人を救う、と教えました。 それは、“サンデマニアニズム”の嘘です。 私は、この虚偽が、今日のカルヴァン主義の再起に悪影響を及ぼすのでは、と恐れます。
ジョージ・ホイットフィールドがボストンで説教をしていたとき、年のいった牧師が一人で彼のところに来て尋ねました。 “ホイットフィールドさん、私は恵みの教えを長い期間説教してきました。 私は、自分自身一度もその力を経験したことがないのです。 涙がその老牧師の頬に流れ落ちました。 ホイットフィールドは彼に数回カウンセリングをし、彼が実際に改心したかを確かめたのです。
もう一度言いますが、カルヴァン主義の教義をただ教えるだけならば、それは、ロイド・ジョーンズ博士が呼んだ、“サンデマニアニズムの異教”に辿り着くだけです。 このカルヴァン主義教義のすべては、それを教えるだけであれば、ただ混乱を招くだけです。 それは、しっかりとした新しい改心者を、外から教会に加えることはないのです。 サンデマニアン・カルヴァン主義、今日ではすでに手の負えない、はより多くの教会の分裂をもたらすだけでしょう。
しかし、カルヴァン主義の本質-すなわち、人の堕落とキリストだけを通しての恵みによる救いのみ-は生命を噴出しています! そして、それが説教をされなければならないものなのです。 (ただの教えではだめです)-しかし、高らかに声を上げて説教をする-この曲がった時代に向けて。(使徒行伝第2章40節)
私達が堕落した罪人に向かって、罪と黄泉を説教するとき、そして、死んだ罪人に対して、キリストのみによる恵みの救いを説教するとき-私達は、すべての昔のバプテストがしたように-キリストの贖いの血による、恵みの救いの証を彼らから聞くまで、カウンセリングをするのです。
すべての牧師は、キリストのみの恵みにより救われたかの確信を得るまで―一人一人個人的に、オフィスでカウンセリングをすべきです。 そして、罪人が、明白にその証の中で、“一人子のイエス・キリストの血”が、その人を“すべての罪”(ヨハネの第一の手紙第1章7節)から清めてくださったことを確認すべきなのです。
“すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。 神はなんでもできるからである」。”(マルコによる福音書第10章26‐27節)
(より詳しくチャールズ・フィニーとその“決断主義”のエラーについて研究を希望する方は、 Today’s Apostasy: How Decisionism is Destroying Our Churches, by Dr. R.L. Hymers, Jr. and Dr. C.L. Caganを読んでください。 購入したい方は、(818)352-0452までお電話ください。)
(説教終了)
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要 綱 カルヴァン主義は危険であろうか? R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著 |
“すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。 神はなんでもできるからである」。”(マルコによる福音書第10章26‐27節) (エペソ人への手紙第2章1,5節;4章18節;ペテロの第一の手紙第1章2節; I. 最初に、今日のカルヴァン主義の誘因。
II. 次に、カルヴァン主義の中核的な真実。
III. 最後に、これらの聖書の真実を適応する必要性。 |