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パリサイ人達とカナンの女性との相違 ロバート ハイマース 神学博士 著 THE PHARISEES AND THE WOMAN |
ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
A sermon preached on Lord’s Day Morning, May 7, 2006
“そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。 あなたの願いどおりになるように」。 ・・・”(マタイによる福音書第15章28節) |
クリスチャンである私達は、聖書を読んだとき何か新しいことに気がついたような体験をもつことがあります。 私達が今までに何度も読んだ一節が不意にひらめき、そして突然今までに読んだ中で最も重要なことのように思えてくるのです。 私は今朝のテキストの中にそのような体験が真実であると思いました。 私は、この同じ出来事についてマルコの福音書の一節を通して取り組んでいましたが、それは来週の日曜日の母の日の朝に説教をした方がよいのでは、と不意に思いつきました。
こうして、その同じ出来事が記録されているこの節に戻ってきたのです。 そして、違ったよい考えが含まれているマタイの福音書の一節の中に見た話は、来週の日曜日の母の日の朝の説教としてあなた方に用意しましょう。 私の信頼する助言者、ギル博士(Dr. Gill)、マチュー・ヘンリー(Matthew Henry)、そしてスポルジョン(Spurgeon)等の意見を考慮しながら、私はこの話の出来事を読み、そしてもう一度聖書のその一節を繰り返し読みました。 マタイとマルコの福音書の中のこれらの章節に関して、私の見解、祈り、そして瞑想などにより、一つの考えが浮かんできたのです。 それについて私の結論は、マタイによる福音書第15章には、キリストに直面した、二つのタイプの人達について描かれているということです。 神の目には、この世は二つのタイプの人々しか存在しません。 私は今朝ここにいる皆さんもこれらの二つのタイプの中の一つに当てはまる、と言ってよいでしょう。 そのシリア人の女性の話がでる直前まで、キリストはパリサイ人達を叱責していました。 彼らは当時の律法主義者達でした。 そして彼らはキリストに論争を挑むために来ました。 そこでイエスは彼らに対し厳しい説教をされ、その説教にほんとうに納得がいかないまま、そして当惑したまま彼らを去らせました。 彼らはイエスの言われたことを何も理解しませんでした。 それが私の最初の要点です。
Ⅰ 最初に、イエスに正しくない方法で近づく人達は
神の内に救いを見出すことはできない。
マタイによる福音書第15章のはじめの方で、パリサイ人達はそのようにイエスに来たのです。 しかし、イエスの叱責以外は何も得ることができず、救いを見出すことはむりだったのです。 彼らはイエスをけしかけ、誤りを探そうとし、無礼な質問をしました。 しかし、私たちの主から彼らが蒙ったのは、厳格な応答だけだったのです。 今朝、それがあなた方の実情ではないでしょうか。 あなた方は、彼の内に探している誤りを見つけることもなく、あるいは、キリストに対する何らかの反発をあなた方の思いの底に潜ませているのではないでしょうか。 この章の中でそのような人達は、もしパリサイ人達のようであったならば、キリストに救いを見出せなかった、ということに注目して下さい。 パリサイ人達のような人達をイエスは気にお留めになられず、ほおっておかれるのです。 イエスが彼らのご自分に対する論争を終始された後、マルコによる福音書第7章24節にあるように、女性の話が上げられています。
“さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。 ・・・だれにも知られないように、・・・隠れていることができなかった。”(マルコによる福音書第7章24節)
ひょっとしたら、あなたの心の中の、キリストに対する不一致は、多くの人から、あなたの家族からさえも、実際隠されているのかもしれません。 彼らには、あなたは立派で他の人よりも優れており、生活に於いては不自由なく、身なりもよく、教会にも毎週来ているように見えるかもしれません。 しかし、彼らはあなたの心の内面を知らないでしょう? もし、彼らが神のようにあなたの内面を知ることが出来るならば、イエスがパリサイ人達をごらんになったように―不正な考え、貪欲、プライド、罪なる欲望、おろかさなどのようなものがあなたの心の中にある、ということを彼らは思わないのでしょうか?(マルコによる福音書第7章22節) そして、彼らの“他の物への貪欲”があなたとイエスとの間の障害となる、と思いませんか? それが、あなたが彼に来ず、彼を信頼しない理由ではないのでしょうか? そこには、大いに真実があるのではないでしょうか? あなたの心の底には、キリストに対する反論が実際あるのは事実ではありませんか? それは、キリストがあなたの宗教的な習慣や先入観から、あなたが抜け出すことを望んでおられるにもかかわらず、あなたは彼の言われることを聞こうともしない、ということではないでしょうか?
あなたは、イエスの足元にひざまずき、彼をあなたの人生の主とすることを望みますか? それとも、パリサイ人達がしたように、彼に来ることに対して、言いのがれをしますか? もしそれが真実であるならば、あなたの境遇は私達の教会の執事であるケイガン先生(Dr. Cagan)の改心する前とまさに同じようなものです。 彼は言いました、「私はイエスに対して論争を挑んでおり、彼に来ようとしなかった。 私はプライドが高すぎた。 しかし、伝道者が聖書からの真実を説教していたのを知っていた。」 ケイガン先生は、二年間もの心の葛藤を貫いて来ました。 なぜなら、彼自身パリサイ人達のようだったからです。 彼はキリストに対し論争しており、服従せず、彼に信頼しようともしなかったのです。 今朝、ここにそのような人達がいます。 あなたもその一人ですか? もしそうでしたら、救いは見出せません。 それは、イエスに近づくには正しくない方法だからです。
Ⅱ 二番目に、イエスに正しい方法で近づく人達は、彼の中に救いを見い出します。
私達のテキストの中で語られているその女性は、パリサイ人達とはまったく異なってました 彼女はイエスに反抗しなかったのです。 彼女は、こう叫び続けました。
“主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。”(マタイによる福音書第15章22節)
最初、イエスは彼女に答えられませんでした。 しかし、彼女には堅い決意がありました。 これは、強い決意がある人のみがイエスを見つける、ことを示唆しています。 彼女は彼を求めて叫び続けました。 彼女は、生存以前の人間の姿となられたキリストにこのように言った、ヤコブを思わせます。
“わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません。”(創世記第32章26節)
それが私達のテキストの中でこの女性がなしたことです。 ヤコブがしたように、その女性はキリストが彼女を救われるまでけっして諦めませんでした。 あなたはそういうことをしましたか? “私を祝福して下さらないなら、あなたを去らせません。”とキリストに言ったことがありますか?
イエスは彼女を試すため、このように荒々しく答えられました。
“子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない。”(マタイによる福音書第15章26節)
彼女は正しい答えをしました。 彼女は反抗して、“私は犬ではありません。”とは言いませんでした。 “犬”というのは、ユダヤ人が彼女のような異邦人の女性を表すために通常使った言葉です。 イエスは一般的な日常の言い方でその言葉を使われました。 それでも彼女は反抗せず、こう言いました。
“主よ、お言葉どおりです。 でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます。”(マタイによる福音書第15章27節)
あなたの問題は、あなた自身についての評価をあなたが高く持ちすぎているからなのでしょうか? それが、パリサイ人達にとって正しからぬことだったのです。 彼らは自分達は十分正しいと思っていました。 それが、キリストに来ないでつまづいているあなたの理由ではないのでしょうか? それが、神の目にあなたは実に邪悪な“犬”以上の何者でもない、ということを認めたがらないからではないのでしょうか? ロイド・ジョーンズ博士(Dr. Lloyd-Jones)の偉大な説教の一つの中で、このような質問を彼は投げかけています。 “あなたは成功しているか? あなたは自分自身に完全に喜び満足しているか? あなたの魂は健全であるか? つまづくこともなく、罪を犯すこともないか? あなた自身の心が、あなたを罪に定めてはいないか? では、聖なる神がどれほどされるであろうか!・・・あなたは自分の魂を清め、自分の霊をも清めることができるか? すべてのあなたの奮闘と努力で、あなた自身をしみのない正義の礼服に値させることができるか? それなしではあなたは永遠の死と悲惨さへと定められるのである。 そういうことを考えまいと、そして忘れようとしても無駄なことである。 ‘その日’は以前よりも近くに引きつけられている。 ‘夜はすでにはるかに尽きている。’ 覚悟はできているか? ああ!あなたが置かれている絶望的な境遇を悟り、そうして、イエス・キリストへ急ぎなさい。”(Martyn Lloyd-Jones, M.D., Evangelistic Sermons at Aberavon, The Banner of Truth Trust, 2001, pp. 248-249)
キリストは、自尊心の高い自己満足しているような人達を救われません。 彼は自分を低くし、そして自分の罪を認識しているような人達を救われます。 ジョセフ・ハート(Joseph Hart)が彼の賛美歌の中で表現しているように、
正義な者ではなく、正義な者ではなく、
イエスが呼ばれているのは罪びとなり。
(“Come, Ye Sinners” by Joseph Hart, 1712-1768)
あなたが、絶望的に失われていることを認識するようになった時のみ、その時のみに、あなたはキリストに来るでしょう。 この女性が来たように、キリストに来ることを望まないならば、あなたはけっして彼を知ることはないでしょう。 それが唯一のキリストによって救われる道です。 私達の教会の執事であるケイガン先生は、ある晩に、伝道集会でキリストに譲歩した時にこのような経験をしました。 ケイガン先生のように、そのカナンの女性はイエスに来ました。
“しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。”(マタイによる福音書第15章25節)
“そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。 あなたの願いどおりになるように」。”(マタイによる福音書第15章28節)
あなたは、自分の信仰は彼女のように大きくはなく、ささいな取るに足らないもの、と考えているかもしれません。 それは事実かもしれません-しかし、あなたを救うのは信仰の大きさによるものではない、ということを忘れないで下さい! そうではありません! 罪びとを救って下さるのはキリストです。 十字架の上であなたの罪の報酬を償われるために亡くなられたのは、キリストです。 よみがえり、天の神の右座におられるのはキリストです。 もし、あなたが彼に来れば、たとえぐらつくような信仰であっても、ほんのささやかな信仰によってでさえも、彼はあなたを救ってくださいます。 あなたの信仰は弱いものかもしれません。 しかし、キリストは強いのです。 あなたの持っている信仰の大きさなど気にしてはなりません。 ただキリストに来ることです。 すべて来るものを彼は受け入れて下さいます。
“そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。”(ヨハネによる福音書第6章37節)
あなたの絶望的な状態の中で、神と彼の律法と向き合い、イエス・キリストに来なさい。 そして、彼はご自身の御血でもってあなたの罪を洗い流し、彼ご自身の異邦の正義でもって、あなたを包み込むでしょう。 そうです、異邦の正義-あなた自身の正義ではなく、彼の正義です! 彼ご自身の正義でもってあなたを包み込むでしょう。 そして、あなたを神の怒りから救うことでしょう。 キリストに身をまかせなさい。 キリストに来なさい。 キリストを信頼しなさい。 そして、彼がこのように言われたことを覚えていなさい。
“そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。”(ヨハネによる福音書第6章37節)
今朝、無条件でイエスに来、イエスに身を投げかけませんか? もしそうすれば、彼はあなたを救われるでしょう。 もしそうしなかったならば、あなたはすでに罪に定められており、今でさえも神の非難のもとに生きているのです。 ただ単純にキリストへ来て、その有罪の判決を取り除いてもらい、あなたの罪を許してもらい、イエス・キリストによる永遠の命を受けるでしょう。 あなたの罪は赦され、彼によって清くされるでしょう。 そして、彼の異邦の正義はあなたに帰負されるでしょう。 “彼の正義のみでまとわれよ、神の御座の前に欠点なく立つために。”(“The Solid Rock” by Edward Mote, 1797-1874)
“信じてバプテスマを受ける者は救われる。 しかし、不信仰の者は罪に定められる。”(マルコによる福音書第16章16節)
プライドの高いパリサイ人達と同様、あなたは黄泉にて永遠に滅びますか。それとも、イエスに身を低くし来て、彼に救ってもらいますか?
(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L チャン医師 (Dr. Kreighton L. Chan) による説教前の聖書朗読:
マタイによる福音書第15章1-9節;マタイによる福音書第15章21-28節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith)
による説教前の独唱: “For All My Sin”(作詞by Norman Clayton, 1943)
要 綱 パリサイ人達とカナンの女性との相違 ロバート ハイマース 神学博士 著 |
“そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。 あなたの願いどおりになるように」。 ・・・”(マタイによる福音書第15章28節)
I. 最初に、イエスに正しくない方法で近づく人達は
神の内に救いを見
II. 二番目に、イエスに正しい方法で近づく人達は彼の中に救いを見い出します。 |