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すべての国民のためのメッセージ!

ロバート ハイマース 神学博士 著

A MESSAGE FOR ALL NATIONS!
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2006年4月16日、主の日の朝に説かれた説教

A sermon preached on Lord’s Day Morning, April 16, 2006
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。 そのかたは、ここにはおられない。 よみがえられたのだ。”(ルカによる福音書第24章5-6節)


いいですか、イエスは亡くなられた-この事実について間違ってはいけません。 ゲッセマネの園でイエスが耐えられた苦しみだけで、もし彼の命が取り留められなかったならば、彼は亡くなっていたでしょう。 その園での彼の苦しみは非常に大きかったのです。

“その汗が血のしたたりのように地に落ちた。”(ルカによる福音書第22章44節)

もし神が御使いを送り彼を力づけてくださらなかったならば、次のように述べられているように、この極度な悲しみと非常に耐え難い状態により、彼はそこで亡くなられていたでしょう。

“わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。”(マルコによる福音書第14章34節)

しかし、ゲッセマネで死が直前まで迫ったときに、イエスは祈られました。

“激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。”(ヘブル人への手紙第5章7節)

キリストは死の直前まで迫られました。 実際、彼はゲッセマネで死にかかっていましたが、祈りが聞き入れられ、最後の一瞬時に、彼は死から引き戻されました。

そして、それから兵士達はその園の静けさの真っ只中に飛び入り、イエスを引きずり出しました。 彼の衣はすでに、人の罪の重荷のために彼の肌の毛穴からしぼり出された血の汗がしみこんでいました。 聖なる、そして公正である神により、罪の償いがなされるために、神の怒りはすでに彼の上に降りかかり始めました。 その神はこのように言われました。

“わたしは羊飼いを打つ。 そして、羊の群れは散らされるであろう。”(マタイによる福音書第26章31節)

ローマの兵士達は、

“イエスに手をかけてつかまえた。・・・それから、イエスを大祭司のところに連れて行く”(マルコによる福音書第14章46節、53節)

“それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて”(マタイによる福音書第26章67節)

それから、大祭司や全群衆は、なぐられ傷つかれたイエスを、ローマの総督ピラトの前に引き出しました。 ピラトは彼に尋問をし、ヘロデに送りました。 ヘロデが彼に尋問をし終えたとき、彼はイエスをピラトに送り返しました。 ピラトは柱廊に出て、群衆に叫んで言いました。

“「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか。」 彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。 しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。”(マタイによる福音書第27章22-23節)

“そこでピラトは、イエスを捕え、むちで打たせた。”(ヨハネによる福音書第19章1節)

スポルジョン(Spurgeon)は、疑問に思った。

なぜ十字架につける前にイエスをむち打ったのか? 本当に、これは度を過ぎた残酷な行為であった。 ローマの兵士達のむち打ちは、最もひどい刑罰に値する人が受けるようなものの一つの刑罰であり、言葉ではとても描写したくないありさまである。 それでもなおかつピラトは・・・イエスをむち打った。(C. H. Spurgeon, “The Whole Band Against Christ,” exposition of Matthew 27:22-50, The Metropolitan Tabernacle Pulpit, Pilgrim Publishers, 1975 reprint, volume 39, p. 538)

マチュー・ヘンリー(Matthew Henry)はこれに加えて、

イエスはむち打たれた。:これは屈辱的なむごい刑罰である。 特にそれは、40回以上のむち打ちは禁止されているユダヤ人の律法の節制のもとにいなかったローマ人によって加えられたのである。 この刑罰は、死を宣告された囚人に加えられた最も常軌を逸したものである。(Matthew Henry’s Commentary on the Whole Bible, Hendrickson Publishers, 1996 edition, volume 5, p. 341)

そして、ギル博士はこのように付け加えています。

キリストは、獣の無名骨(しり骨)が留められ、強く締め上げられたむちでもって、兵卒にむち打たれた。 そのため、この種のむち打ちは非常にひどく残酷であった。(John Gill, D.D., An Exposition of the New Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 edition, vol. I, page 357)

さらにギル博士は、イエスは一度だけではなく二度もむち打たれたことを取り上げており-一度目はルカにより記録され、二度目のむち打ちはヨハネによって記録されている。 これらのむち打ちだけでも、しばしば人を死なせたことでしょう。 その上、イエスはすでにゲッセマネで死に際までの体験と、祭司達によるむち打ちを貫かれたのです。 しかし、二回にわたり別々の場所と思われるところで、なお、彼は死ぬほどむち打たれました。 イエスの背中全体が今において深く切り裂かれた傷だけで満たされました。彼の衣は血と血のりに染み込みました。

それでも彼らは邪悪で残酷な行為を止めようとしなかったのです。 彼が打たれた後、

“兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。 そして平手でイエスを打ちつづけた。”(ヨハネによる福音書第19章2-3節)

そして、ピラトはイエスを群衆の面前で柱廊に引き出しました。 

“ピラトは彼らに言った、「見よ、この人だ」。”(ヨハネによる福音書第19章5節)

彼らは疑いもなくそのようなぞっとするような光景は見たこともなかったでしょう。 “見よ、この人だ”イエス、傷つけるほど鋭い刺の冠が、彼の頭皮に押しつけられ、血が彼の額から目の中に流れ落ち、彼の体は文字どうりはげしいむち打ちにより引き裂かれ、血の輪が彼の足もとの敷石をとりまきました。

それでもなおかつ、彼らは終えようとしませんでした。 祭司長や下役どもは再び叫んで言いました。

“「十字架につけよ、十字架につけよ」”(ヨハネによる福音書第19章6節)

そこで、ピラトは、

“十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。 彼らはイエスを引き取った。 イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。 彼らはそこで、イエスを十字架につけた。”(ヨハネによる福音書第19章16-18節)

イエスは処刑の場所まで十字架を背負られて行こうとされ、倒られたことさえ驚くべきことではありませんか? 彼はシモンというクレネ人に支えられました。 なぜなら、彼の体験してこられたたび重なる拷問により、すでに死ぬ寸前であられたからです。 ジョセフ・ハート(Joseph Hart)は、「彼の熱情」と題した思慮深い賛美歌の中でシンプルにその場面を描写しています。

見よ、いかにイエスが耐え持ちこたえられたか、
彼のきわめて卑しいありさまをあなどられ!
罪人は全能の神の手をしばり、
彼らの創造主の顔につばをはき。

とげで彼のこめかみは突き刺され、そして深く裂け
全ての傷より、血の途絶えない流れを出され;
彼の背は、結び目つきのむちで打たれ、
されど、鋭いむち打ち 彼の心を裂け。

のろわれた木に、裸でさらされ、
地と天にさらされ、
傷と御血の見世物なれ、
傷ついた愛の 驚くべきものあれ!

見上げよ、青白く無力とされた顔を、
その下向きの頭、その痛まされた目を!
見上げよ、悲しみと恥の中で
我らの克服される英雄掛けられ亡くなり。
   (”His Passion” by Joseph Hart, 1712-1768)

“そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。 こう言ってついに息を引きとられた。”(ルカによる福音書第23章46節)

それでもなお、彼らは終えなかったのです。 兵士達は近寄り、十字架につけられたイエスの体を眺めました。

“しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。 しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。”(ヨハネによる福音書第19章40節)

使徒のヨハネはそこにいました。 彼はイエスが亡くなられたのを見とどけ、そして、“そのあかしは真実である。”(ヨハネによる福音書第19章35節)、と私達に伝えています。 ヨハネはキリストのはりつけの成り行きの目撃者なのです。 彼はそこにいました。 彼は、全ての成り行きをしかと見ています。

イエスの友人達は彼の体を取り、防腐処置を施しました。 そして、

“ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。”(ヨハネによる福音書第19章40節)

彼らはイエスの体を墓の中に安置しました。

それでもなを彼らは止めなかったのです。 彼の敵達は、誰もその死体を盗むことができないように、ローマの兵士達をやり“番人”(マタイによる福音書第27章65節)を置きました。

そうです、イエスは亡くなられました。 私自身、イエスが亡くなられた事を信じないイスラム教徒の過激派がいることに驚かされます。 もちろん、彼らだけではありません。 アメリカやヨーロッパの自由主義の学者などもまた、イエスは死ななかったと言っています。 しかし、私はすべてのそのような刑罰、むち打ち、殴られ、彼の手や足に釘を貫通され、やりが彼の心臓を突き抜けるなど、を貫き通して生きながられる人-そのようなことを生き通すには、神が彼の体を死からよみがえらすこと以上に、偉大な奇跡が要求される、と私は主張します。 けれどもそれはまさにその通り神がなされたことなのです。 三日目に、イエスは体ごとよみがえられ、罪、死、そして黄泉に打ち勝たれました! そこで、御使いがイエスの墓に来た女の人達に言いました、

“あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。 そのかたは、ここにはおられない。 よみがえられたのだ。”(ルカによる福音書第24章5-6節)

そうです、イエスは亡くなりました-私達の罪の償いをするために。 そして、罪に対する神の怒りを受けるために。 しかし、イエスは死からよみがえり、今再び、生きておられます!

ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!
奮闘はすみ、戦いは終わった;
命の勝利は獲得され;
勝利の歌が始まった、ハレルヤ!

死の力は彼らの最悪と終わり;
しかし、キリストは彼らの軍団を散らされた、
聖なる歓喜の叫びを発散しよう。 ハレルヤ!

三日間の悲しい日々は、はやくも過ぎ去った;
彼は、死から輝やかしくよみがえられる:
すべての賛美を我のよみがえられた主。 ハレルヤ!

主よ、そなたを傷つけたむち打ちにより、
死の恐ろしい苦痛から、そなたの僕を自由にされた、
我々が生き、そしてそなたを賛美するように。 ハレルヤ!
ハレルヤ! ハレルヤ! ハレルヤ!
   (”The Strife Is O’er,” translated by Francis Pott, 1832-1909)

“あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。 そのかたは、ここにはおられない。 よみがえられたのだ。”(ルカによる福音書第24章5-6節)

清教徒達は、彼らの説教を二つに分けました。 最初は教典を説き、そして、それから教典の応用を説きました。 そのように、今朝私はするつもりです。 私は教典を説きました。 そして今、私のテキストについてその応用を説きます。

“あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。 そのかたは、ここにはおられない。 よみがえられたのだ。”(ルカによる福音書第24章5-6節)

Ⅰ 最初に、キリストを科学的知識の中に求めてはならない。

私は科学に反対してはいません。全くそうではありません。 しかし、あなたはキリストを科学的な研究を通して見つけることはないでしょう。 ではなぜ? 単に、なぜなら科学は地上、そして宇宙にある物質的な物事を取り扱っているからです。 もしあなたが鋭い目をもつならば、あなたは、キリストの創造物に彼の印を見出すことができるでしょう。 これは現在、“知的な構想”と呼ばれ、創造物は創造者であるキリストの印や細工を描いています。 しかし、“印”や“細工”などは、キリストご自身ではありません。 キリストはよみがえられ、そして、天の神の右座につかれました。 彼はこの死にかけている宇宙や世界にはおられません。 ですから、私達は科学を学んでいる人達にこう言うのは、完全に正しいのです。

“あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。 そのかたは、ここにはおられない。 よみがえられたのだ。”(ルカによる福音書第24章5-6節)

Ⅱ 二番目に、キリストを人間の哲学もしくは人間の創造した宗教組織の中に求めては
  ならない。

私は主な哲学的な理論を学びました。 主な宗教についても学びました。 そこには真実のひらめきはあるかもしれませんが、それは人間の偏見の集まりの中に隠されています。 哲学や人間の創造した宗教の中にイエスを探すことも無益です。 あなたは、プラトー、ソクラテス、またはその他のそれほど重要でない哲学者達の教えを通して、イエスを見い出すことはないでしょう。 私はこれらの人物は尊敬しています。 彼らは学者や偉大な思想家でした。 しかし、彼らは正しくありません。 イエスは言われました、

“わたしは道であり、真理であり、命である。 だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。”(ヨハネによる福音書第14章6節)

それらの哲学者達は現在死んでおり、キリストを見つける道を告げることはできません。

“あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。 そのかたは、ここにはおられない。 よみがえられたのだ。”(ルカによる福音書第24章5-6節)

Ⅲ 三番目に、アメリカや西洋の国々の物質主義の中にキリストを求めてはなりません。

この説教が私達のウェブサイトにのり、そして世界へ7ヶ国語を通して人々に読まれることで、私は、アメリカや西洋の国々の邪悪さに関してあなた方に詫びなければならないように感じます。 私はあなた方がアメリカの大学などで教えられているような、無価値な教えなどで困惑されないように願っています。 あなた方が、これらの西洋の教授達がクリスチャンであろうと、そして、彼らが全ての面で、キリストを尊敬しているなどと勘違いしないようにも願っています。 彼らは全くクリスチャンではありません! 彼らは反キリストです! 聖書では、

“今や多くの反キリストが現れてきた。”(ヨハネの第一の手紙第2章18節)

アメリカや西洋の“エンターテイメント産業界”でも同じことです。 彼らは自分達の下劣な、反キリスト的なメッセージを全世界を通して吐き出しています-そして、なぜ後進国が彼らを嫌っており、彼らが呼んでいる“自由”をもほしがらないのかを 不思議に思っています。 私達はアメリカの帝国軍隊を送り、後進国の国々を破壊することも私達はできます。 それでもなおかつ、なぜアメリカやヨーロッパにあるものを彼らはほしがらないのか、私達は不可解に思っています。 それはアメリカや西洋にいる私達の多くでさえも、そのような物質主義的な生活様式は望んでいません! アメリカは自分達の邪悪な生活様式を他の国々に押しつけるように軍隊を送る前に、自分達の国を、自分達の無神論的な大学、そして、卑猥な映画や音楽などを清掃すべきだと私は思います。 私達はテロリストと戦う権利はあると思います。 しかし、アメリカにはどんよりとした雲がかかっています。 それは、私に疑問を投げかけます。 はたして、私達の“生活様式”を後進国のそれよりすぐれているとし、彼らに押し付ける権利があるのかと。 それはまた、今我々が侵略している国々に対する、アメリカの文化的な“優越さ”に疑問を投げかけます。 彼らに、私達は“自由”を提供します、と話すが、彼らは、私達は15%の私達の子供達を殺してきた、と見ます。 私達は5千万の子供達を中絶で殺してきました。 イランでは、すべての赤ん坊は生きる権利をもっています。 アメリカでは、その権利はありません。 後進国の人々はこれを知らない、と私に言わないでください! 彼らはそれを知っています。 そして、彼らは、私達が彼らに “自由”を提供する、と言うとき、私達は偽善者(実際にそうであるが)であると思うでしょう。

もし、私達がかってそうであったように、クリスチャンの国であるならば、私達は、モラルの面を考えるとき、よりベターな位置にあることでしょう。 古いアメリカの政策は、ただ単に彼らが悪いので、全ての“悪”に戦いをしませんでしたが、私達に攻撃をしたとか、私達に危険であった場合だけに戦いをしました。 私は、古いやり方は正しく、新しいやり方は間違っていると思います!

いいえ、あなた方は、アメリカやヨーロッパの物質的主義にイエスを見つけないでしょう。 私達の文化は西洋で死んでいます。 キリスト教は、ヨーロッパやアメリカから崩れ落ちています。 しかし、中国や、東南アジアや、アフリカの一部、そしてラテン・アメリカでは偉大なリバイバル(大覚醒)が起こっています。 私達は、テキストは地理的な応用を持っている、と言えます。 キリスト教は、西洋で死んでいますが、後進国でその息吹を吹き返しています。 ですから、私はこう尋ねます、

“あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。 そのかたは、ここにはおられない。 よみがえられたのだ。”(ルカによる福音書第24章5-6節)

Ⅳ 最後に、あなたの改心していないあなた自身の中にキリストを求めてはなりません。

多くの人達は、自分自身の心にイエスを探し求める過ちを犯しています。 しかし、彼はあなたの改心していない心にはいません! 聖書はこう言っています、

“心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。”(エレミヤ書第17章9節)

イエスはこう言われました、

“すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。・・・これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである。”(マルコによる福音書第7章21節、23節)

人の心は、

“罪過と罪とによって死んでいた”(エペソ人への手紙第2章1節)

それゆえ、あなたの改心していない心を見てはいけません、あるいは、あなた自身の感情を見てはいけません。 あなたの“感情”は、あなたを欺くでしょう。 もし、自分自身を見て、あなたの思いや感情、そして希望を考察するのであれば、あなたはイエスを見つけられないでしょう!

“あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。 そのかたは、ここにはおられない。 よみがえられたのだ。”(ルカによる福音書第24章5-6節)

あなたは自分自身から、あなたの宗教的体験から、あなたの文化そして家族・友人から、またあなたの感情や考えから、目を離さなければなりません! イエスを見なさい-天国で神の右座に座られた! もしあなたが彼をそこで求めるならば、あなたは彼をそこで見つけるでしょう。 聖書はこう言っています、

“上にあるものを求めなさい。 そこではキリストが神の右に座しておられるのである。 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。”(コロサイ人への手紙第3章1-2節) 

そこが、今キリストがいる場所です! そして、イエスに来なさい。 彼を信頼しなさい。 彼の御血でもってあなたの罪から清まりなさい。 イエスに来なさい、そして彼はあなたの罪をゆるし、永遠の生命を与えてくださるでしょう!

“あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。 そのかたは、ここにはおられない。 よみがえられたのだ。”(ルカによる福音書第24章5-6節)

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
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クレイトン L チャン医師 (Dr. Kreighton L. Chan) による説教前の聖書朗読:
ルカによる福音書第24章1-8節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith)
による説教前の独唱:  “The Strife Is O’er”(translated by Francis Pott, 1832-1909)


要 綱

すべての国民のためのメッセージ!

ロバート ハイマース 神学博士 著


“あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。 そのかたは、ここにはおられない。 よみがえられたのだ。”(ルカによる福音書第24章5-6節)

(ルカによる福音書第22章44節;マルコによる福音書第14章34節; 
へブル人への手紙第5章7節;マタイによる福音書第26章31節;
マルコによる福音書第14章46節、53節;マタイによる福音書第26
章67節;27章22-23節;ヨハネによる福音書第19章1節、2-3節、
5節、6節、16-18節;ルカによる福音書第23章46節;
ヨハネによる福音書第19章33-34節、35節、40節;
マタイによる福音書第27章65節)

I.   最初に、キリストを科学的知識の中に求めてはならない。 
ルカによる福音書第24章5-6節。

II.  二番目に、キリストを人間の哲学もしくは人間の創造した宗教組織の
中に求めてはならない。 ヨハネによる福音書第14章6節。

III. 三番目に、アメリカや西洋の国々の物質主義の中にキリストを求め
てはなりません。ヨハネの第一の手紙第2章18節。

IV.  最後に、あなたの改心していないあなた自身の中にキリストを求めてはなり
ません。エレミヤ書第17章9節;マルコによる福音書第7章21節、23節;
エペソ人への手紙第2章1節;コロサイ人への手紙第3章1-2節。