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彼らを愛し仲間に入れなさい!

R. L. ハイマース Jr. 神学博士 著

LOVE THEM IN!
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

カリフォルニア州、モンロビア市のカルバリーロードバプテスト教会にて
2005年10月30日、主の日の朝の礼拝で説かれた説教

A sermon preached on Lord’s Day Morning, October 30, 2005
at Calvary Road Baptist Church, Monrovia, California

『そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンを さき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんび し、すべての人に好意を持たれていた。 そして主は、救われる者を 日々仲間に加えて下さったのである。』(使徒行伝第2章46-47節)


この時期はカリフォルニア州モンロビア市のカルバリーロードバプテスト教会にとって素晴らしいときです。 それはこの教会の設立30周年記念日であり、ジョンSウォードリップ先生があなた方の教会の牧師になられてから20周年目にあたるからです。 今朝わたし達の教会はあなた方と共にこれらの行事をお祝いするためにやって来ました。 ここに来れてうれしく思います。 先週の日曜の夜の礼拝も、わたし達はこの教会に来られた二人のすばらしい説教者ケネス ギルミング先生とドン レッドベター先生のお話を聞くために、あなた方に加わりました。 それはとてもすばらしかったのですが、今朝またご一緒になれたことはそれ以上にすばらしいことです。 わたしはこの二つの教会のすべての人が、このように言えるのではないかと思います。

クリスチャンの愛で結ばれた
   わたし達のこころの絆は幸いであり
同じ心の交わりは
   天にいるようである。
(“Blest Be the Tie That Binds” by John Fawcett, 1740-1817)

このように交わりを共にすることはクリスチャンにとって本当にすばらしいことだと思います。 このような交わりはわたし達が天国に行ったときのようなものです。 天国ではあらゆる時代のクリスチャン達と出会い深い親交をもちます。 使徒ペテロやパウロと挨拶を交わすときの喜びを考えてごらんなさい。 また、あなた方がチャールズ スパージョンやジョン ギル博士と共に座りたのしい会話を共にするときの抑えることのできない幸せ。 そして、アブラハム リンカーン大統領、デービッド リビングストン、ジョージ ウィツフィールド、親愛なるウェスリー氏、マーティン ルーテル、ハドソン テーラー、 そしてジョンRライス達と肩を組み合うときのなんとも言えない感激を考えてごらんなさい。 「栄光と喜びが永遠に続く館」で、わたし達に会うのを心から待っているあなた方の仲間であった故デーブ マグニフィコさんや、天国へ先立たれた多くの愛しい人達と再会したときにあなた方の頬を流れる喜びの涙を考えてごらんなさい。 そして何よりも、イエス様と面と向かって出会えるときの言葉では言い表せない感動を考えてごらんなさい。 

わたしはイエス様と顔を合わせて、
恵みによる救いの話を語るでしょう。
わたしはイエス様と顔を合わせて、
恵みによる救いの話を語るでしょう。
   (“Saved by Grace” by Fanny J. Crosby, 1820-1915)

なんとすばらしいことでしょう。

さて、今朝ここではわたし達はそのすばらしい日の感激を前もって体験しているのです。 わたし達二つの教会が共にしている今朝の礼拝で、わたし達が天国に行くときに感じるであろうすばらしい歓喜を体験しているのです。 まさに、

同じ心の交わりは
   天国にいるようである。

カルバリーロードバプテスト教会の牧師であるジョンSウォードリップ先生がわたし達をあなた方と共にこの交わりに招待してくださいました。 そして、わたしの親愛なる友人ウォードリップ先生は、あなた方のすばらしい教会の30周年記念を祝っているこの一連の集会の最後の説教をあなた方にする名誉をわたしにくださいました。

わたしはそのような招待を決して軽々しく思っていません。 この三週間、このメッセージのために時間をかけました。 このときのために、わたしは一つ説教を仕上げましたが、それを塵箱に捨てました。 わたしは、ただ単なる説教ではなく、わたし達の心を動かすような何か意義のある、このときを本当に記念のときとなるような説教を説くことができることを、神に祈り書斎を彷徨したりもしました。 神は今読んだ使徒行伝からのテキストへ、わたしの考えを向けてくださったと、わたしは信じています。 

ジェイ バーノン マギー先生はこの章節に関して次のように言われました。 『その時ほど教会が霊的に強かった時は今だかってない』 (J. Vernon McGee, Th.D., Thru the Bible, Thomas Nelson, 1983, volume IV, p.522)。 わたしは彼に同意します。 ペンテコストのリバイバルは文字通りエルサレムの教会に活気をもたらしました。 他のすべての本物のリバイバルと同じように、それは霊的復活をもたらしました。 かれらは大変忠実であり、精力的で、伝道的熱意に燃え、思いやりやクリスチャンの慈愛に満ちており、このときの教会は後に続くすべての世代の教会の模範になりました。 もしわたし達がかれらの教会のように精力的な成長する教会にしたいのであれば、わたし達は神の恵みによってかれらが体験したかれらの模範に従うべきです。

わたしは、わたし達の二つの教会が学びそして実践に移すことを心から願って、聖書から三つの単純なレッスンを引き出してみましょう。 これらはとても単純なレッスンですが、わたし達の教会を変えることができ、わたし達をすばらしいリバイバルのほとばしりに導いてくれるでしょう。 これらがわたしが引き出した三つのレッスンです。

第一のレッスン:かれらは一緒にいるのを好みました。

かれらは共にいるのをとても楽しみ、

『そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき』(使徒行伝第2章46節)

これは大変意味深い言葉です。 『そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき』。 スコフィールド聖書のセンターノートでは、家では『パンをさき』ということをとりあげています。 だれもかれらを引き離すことはできなかった。 かれらは常時共にいました。 かれらは文字通り、クリスチャンの交わりの中で共にいることを好んでいました。 

わたしは、これが今日の多くの教会で欠けている要素だと思います。 大きな「巨大な教会」は大きすぎてかれらはお互いをよく知らないし、また牧師はほとんどの人の名前さえも知りません。 言うまでもなく、エルサレムの初期の教会の交わりが、現代の大きな教会には欠けています。 それはとても悲しいことです。

しかし、あまりお互いに構いたくないひと達の小さな教会もたくさんあります。 たいてい小さな教会では、お互いに関わり合わない。 新しい人がやって来ても、その人は「部外者」であり、本質的には教会に疎んじられるのです。 

もしわたし達は教会を福音伝道的な教会にしたいのであれば、教会は改善され、正され、そして癒されなければなりません。 わたし達は単純にエルサレムの教会を模範としなければなりません。 そしてお互いに愛することを学び、新しく入って来る人達をこころから受け入れ、教会の交わりの中にも受け入れ、自分達の家にも受け入れるよう学ぶことです。 もしわたし達が「部外者」を教会の仲間たちとの交わりに入れることをしないならば、わたし達は初期の教会の人達が成功したようにはかれらを伝道することができないでしょう! ですからわたしが言っているのは、わたし達はお互いを愛するように努力し、そして教会に訪れてくる救われていないひと達をも愛し仲間に入れなければなりません。 ディー エル ムーディーがよく言ったように、『彼らを愛し仲間に入れなさい』。 この点に関してかれは正しかったと思います。 

ある若者がシカゴの中心街にある大きな教会を通りすぎていました。 その大きな宗派の教会に所属しているある人がかれに、そんなに正装してどこへ行くのかと尋ねました。 『ムーディー先生の教会へ』とかれは答えました。 『では』とその人は言い、『今朝ここの教会へ来ませんか』とその人が尋ねると、その若者は『結構です。 ムーディー先生の教会に行きます。 かれらは人を愛することを知っていますから』と答えました。

わたしは、わたし達の二つの教会に来ている若いひと達はそのようなことが言えるのを望んでいます。 ある人がその若いひと達をカルバリーチャペルや、ビクトリーアウトリーチに招待したら、『いいえウォードリップ先生の教会へ行きます』、あるいは『ハイマース先生の教会へ行きます。 かれらは人を愛することを知っているからです』、とかれらが言えることを望んでいます。 わたし達が今話していることは-本当のクリスチャンの愛でお互いに愛し合うこと-そして、信者でない人を愛することによって、共にいてほしいということをかれらが知るためです。 それは改進主義ではありません。 それは新約聖書の福音伝道主義なのです。

第二のレッスン:かれらはよく食事を共にしました。

立って46節を声を上げて読みましょう。 はっきり声を出して読みなさい。 

『そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし』(使徒行伝第2章46節)

座ってください。

先に言ったように、スコフィールド聖書のセンターノートで言っているように、『かれらの食事を食べた』という意味は、『かれらと共に食事をし』ということです。 ギル博士が、これは『偉大な愛と交わりの中で・・・・、かれらが共に食べたものは、通常の食事であると思われる』と言っています。(John Gill, D.D., An Exposition of the New Testament, The Baptist Standard Bearer, 1989 reprint, volume II, p.165) The Applied New Testament は、『これら最初の信者達はすべてのことを共にした。・・・一緒に・・・かれらは通常の食事もした』と言っています。 (The Applied New Testament, Kingsway Publications, 1997, p.465) これらの初期のクリスチャン達はいつも共に食事をしました。 こういうかれらの模範にならうことは教会にとって重要なことだとわたしは思います。

この礼拝の後あなた方は食事をします。 すばらしいことだと思います。 家族のように、教会は可能な限り多くの機会、食事を共にすべきだと思います。

知っていますか。 エルサレムの初期の教会が食事を共にするというアイデアを始めたのではありません。 いいえ違います。 そのアイデアは主イエスキリストご自身からでたものです。

説教の前に読んだ聖書の章の中で、不信者の大きな群集がイエス様に話を聞くためについて来ました。 そこでイエス様はレビ(マタイの名で知られるようになった)を呼ばれました。 マタイはご馳走をつくりみんなを招きました。 ルカは言っています。 

『それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いた』 (ルカの福音書第5章29節)

マルコは言っています。

『それから彼(レビ)の家で、食事の席についておられたときのことである。 おおくの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。 こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事をともにするのか」。 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。 いるのは病人である。 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。』(マルコによる福音書第2章15-17節)

この宴会は新約聖書のマタイ、マルコ、そしてルカの3つの異なった福音書の中で報告されており、律法学者達はこう言いました。 

『なぜ、彼は取税人や罪人などと食事をともにするのか』 (マルコによる福音書第2章16節)

しかしキリストは不信者を連れてきてかれらと食事をすることを主張されました。 二つの他の注目すべき実例は、マルコの第6章32節から44節に記録されている、かれが5千人の不信者と座り食事をされたこと、そして、マルコの第8章1節から9節に記録されている、かれが後に4千人のひと達と座って食事をされたこと、があります。

何回も何回も、イエス様は罪人をご自分と弟子たちと共にしている食事に招くように主張されました。 

『どうしてあなたがたは取税人や罪人などと飲食を共にするのか』(ルカ第5章30節)

そして、イエス様が婚礼や宴会などをかれのたとえ話の中で使われたことにも気がつきます。 何回も何回もイエス様は不信者を夕食に招くことをたとえ話で語られました。 たとえば、婚礼披露宴のたとえ話の中でかれは言われました。

『だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい。 そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。』(マタイの福音書第22章9節―10節) 

そうです、キリストは『よい悪いのどちらも』見込みのある人を婚礼の宴会に招待するように言われました。

わたしはこのテーマに関してイエス様のたとえ話の中でいくつも取り上げることができますが、もう一つだけ盛大な晩餐会を取り上げてみましょう。

『そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。 もう準備ができましたから』と言わせた」。 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい』 (ルカによる福音書第14章16節-17節、23節)

ここで分かるようにエルサレムの教会のクリスチャン達が学んだのはここです。 かれらは主イエスキリスト自身から、食事を用意し、不信者を食卓に招くことを学んだのです。 それを実行することを学んだのはこの章節です。 最後のポイントに急ぎましょう。 初期のクリスチャンは一緒にいることを好みました。 よく食事を共にしました。 そして、三番目に一般のひと達はかれらに好意をもっていました。

第三のレッスン:かれらはひとから好意をもたれました。

立って47節を声を上げて読みましょう。

『神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。 そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。』 (使徒行伝第2章47節)

着席してください。

エルサレムの一般のひと達はクリスチャンが好きでした。 かれらは『すべての人に好意を持たれていた』のです。 ああ、主祭司やパリサイ派のリーダーたちはクリスチャが嫌いでした! かれらは同じようにイエス様も嫌いでした。 しかし、市の一般のひと達はクリスチャンに好意を持っていて、友好的で、十分に好感をもっていました。 これを現代語に置き換えると、市のひと達はかれらが好きでした!  もっともなことで、

『そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである』 (使徒行伝第2章47節)

もしかれらがあなた方と一緒にいたいならば、そのひと達は比較的簡単に救われるのです。 もしかれらがあなた方と一緒にいたくないならば、たとえどんなにうまく説教をしても、あるいはどんなにはげしく祈りをささげても、かれらは説教を聞き、救われるほど十分な期間教会には留まらないでしょう。 もしあなた方を嫌いであれば、かれらは教会には来ないでしょう。

時々わたし達はあんまりにも教会の奉仕で忙しくなり、教会に訪れている新しいひと達のことをまったく忘れてしまうことがあります。 わたし達はお互いに集い知っているもの同士で話しをし、新しいひと達を外に忘れてしまう。 わたし達は家族や友達と一緒に急いで教会を出て、新しいひと達を教会の前の歩道に一人で立ったままにさせる。 そして、わたし達は、かれらはなぜ戻ってこないのか、と不思議に思う!

もし自分たちの教会を大きくさせたいと思うならば、わたし達は新しいひと達によくしてあげなければなりません。  急いで教会を出る前に、かれらに簡単に握手をしつくった笑みをみせる、ことを言っているのではありません。 それではうまくいきません!

『なぜあなたはムーディー先生の教会までいくのですか。』 『かれらは人を愛することを知っていますから。』 理解できますか。 『彼らを愛し仲間に入れなさい』と言ったムーディーは正しかったと思います。 ムーディーの金言にしたがって、あの古い歌をこんなふうにかえられるのではないでしょうか。

彼らを愛し仲間に入れなさい、彼らを愛し仲間に入れなさい、
彼らを愛し罪の場から彼らを仲間に入れなさい。
彼らを愛し仲間に入れなさい、彼らを愛し仲間に入れなさい、
さまよう彼らを愛しイエス様のもとへ。
   (“Bring Them In” by Alexcenah Thomas, 19th century). 

イエス様はあなた方の罪の罰のために十字架で亡くなられました。 ご自身の血でもってあなた方の罪を洗い流しました。 かれは肉体的に死からよみがえりました。 かれは天国へ上げられ、神の右座であなた方の魂の救済を祈っておられます。 かれはあなた方を 愛している のでそのことをすべて行いました。 もしあなた方が、信仰でもってイエス様に来るのであれば、イエス様はご自身の尊い血で持ってあなた方の罪を洗い流すでしょう。 イエス様に来なさい。 今夜の礼拝にまちがいなく来なさい。 なぜ孤独でいるのですか。 Come home、教会に来なさい。 なぜ救われないのですか。 Come home、神の一人子であるイエスキリストに来なさい。

(説教終了)
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クレイトン L チャン医師(Dr. K.L. Chan)による説教前の聖書朗読:
                                                                     マルコによる福音書第2章13~17節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏(Mr. Benjamin Kincaid Griffith)による説教前の独唱:

“Come Home to Dinner”(by Dr. R.L. Hymers, Jr.)

要 綱

彼らを愛し仲間に入れなさい!

R. L. ハイマース Jr. 神学博士 著


『そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンを さき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんび し、すべての人に好意を持たれていた。 そして主は、救われる者を 日々仲間に加えて下さったのである。』(使徒行伝第2章46-47節)

I.   第一のレッスン:かれらは一緒にいるのを好みました。
使徒行伝第2章46節

II.  第二のレッスン:かれらはよく食事を共にしました。
使徒行伝第2章46節;ルカによる福音書第5章29節;
マルコによる福音書第2章15節-17節;
マルコによる福音書第6章32節-44節;
マルコによる福音書第8章1節-9節;
ルカによる福音書第5章30節;
マタイによる福音書第22章9節-10節;
ルカによる福音書第14章16節-17節、23節

III. 第三のレッスン:かれらはひとから好意をもたれました。
使徒行伝第2章47節